名門!クルトネー家 - 十字軍国家の内幕

名門!クルトネー家 - 十字軍国家の内幕(1)

一般には、ほとんど知られていないが、十字軍関係にクルトネー家は良く出てくる。

元はブルゴーニュのクルトネー領主の家だが、そこから三代目エデッサ伯、三代目ラテン皇帝を出している。どちらも三代目なのは他者の跡を継いだからで、不運なことに、どちらもクルトネー家の時に滅亡している。

クルトネー領主の次男だったジョスリン・ド・クルトネーは、1096年からの第1回十字軍時に親族のボードアン・ド・ブールと共にブローニュ部隊に参加した。ブローニュ部隊を率いるロートリンゲン公ゴドフロワ・ブイヨンはエルサレム陥落後に聖墳墓守護者となったが、その弟のボードアンは、その前に分かれてエデッサ伯国を建てており、ジョスリンは伯国内の重臣としてテル・バシール伯となっている。

その初代エデッサ伯のボードアンが、兄ゴドフロワ・ブイヨンの死後にエルサレム国王ボードアン1世となり、その遠縁だったボードアン・ド・ブールが二代目エデッサ伯となったが、1119年のボードアン1世の死後にエルサレム王ボードアン2世となったため*1、ジョスリンが三代目エデッサ伯となったのである。

*1 血縁から言うと兄のブローニュ伯ウスタシュが第一候補だったが、第1回十字軍後に帰国しており断ったようだ。

しかしエデッサ伯国は、もっともエルサレムから離れており、巻き返しを図るイスラム勢力の第一の標的となり戦争は絶えなかった。ジョスリン1世は何とか守り抜いて、1131年に嫡男のジョスリン2世が継承したが、イスラム勢力ではモスルの太守ザンギーがアレッポを併せて台頭していた。ジョスリン2世はビザンティン帝国やエルサレム王国の支援を受けて何とか凌いでいたが、1143年にビザンティン皇帝ヨハネス2世、エルサレム王フルク*2が同時に亡くなると、遠征している隙を突かれてエデッサはザンギーに奪われた。

*2 アンジュー伯から、エルサレム女王メリザンドと結婚してエルサレム王となっていた。アンジュー帝国ヘンリー2世の祖父に当たる。

エデッサの陥落は援助を求めるエルサレム王国によって衝撃的に欧州に伝えられ、第二回十字軍が呼び掛けられているが、実際は留守に奪われただけであり、1146年にザンギーは自分の奴隷に暗殺され、ザンギーの勢力は分解してしまっている。

これに乗じて、ジョスリン2世は一時的にエデッサを回復したが、まもなく、ザンギーの息子ヌレディン(ヌール・アッディーン)が一族間の争いを抑えて再侵攻してくると再び失った。1147年の第二回十字軍はエルサレムから遠いエデッサを無視して、ダマスカスを攻めたが何の成果も上げられず帰ってしまい、ジョスリン2世は残ったテル・バシール領の防衛に追われたが、1150年にはヌレディンの捕虜となった(1159年に捕囚のまま死去)。

残されたエデッサ伯妃はテル・バシールをビザンティン帝国に売却し、子供たちを連れてアンティオキア公国に移住したため、エデッサ伯国は消滅し、跡を継いだジョスリン3世は名前だけのエデッサ伯だった。しかし、1157年に姉のアニエス・ド・クルトネーがボードアン3世の弟アモーリと結婚したことで、エルサレム王国の宮廷政治に深くかかわることになった。

アニエスとアモーリの間にはシビーユボードアン(4世)が生まれたが、1162年にボードアン3世が嫡男なく死去し、アモーリが王位に就く際に、群臣たちは亡国であるエデッサ伯の一族が力を持つことを嫌い*3、離婚(婚姻の無効)を条件としたため、子供たちは嫡子として残して、離婚させられた。アモーリはビザンティン帝国との同盟でマリア・コムネナと結婚してイザベルが生まれ、アニエスはシドンの領主と結婚し、宮中への影響力は失い、子供たちとは疎遠だった。

*3 所領のないジョスリン3世に王領を分け与えたり、エデッサ回復のための支援をして財政を悪化させる可能性があった。

しかし、1174年にアモーリが死去しボードアン4世が即位すると、アニエスは王母として宮廷に戻り、宮廷派の中心人物となった。元々、エルサレム王国は新参の十字軍士を中心とした宮廷派と地元貴族たちを中心とした貴族派に分かれて対立していたが、ボードアン4世は少年の頃からライ病に罹っており身体の自由が利かず、長生きや子供を望めなかったため、代理人や跡継ぎを巡って対立は一層の激しさを増すことになった。

宮廷を追われた前王妃マリア・コムネナは有力な貴族バリアン・イベリンと結婚したが、実子イザベルの王位継承を望んでおり、ボードアン4世の摂政となっていた貴族派の首領トリポリ伯レーモン*4と結託した。

宮廷派:王母アニエス、シビーユ、ジョスリン3世、ギー・ド・ルジニャン、ルノー・ド・シャテヨン、オンフロワ・トロン、テンプル騎士団

貴族派:前王妃マリア・コムネナ、イザベル、トリポリ伯レーモン、イベリン一族ホスピタル騎士団

*4 母がボードアン2世の娘で、男子としてはボードアン4世に次ぐ継承順位を持っていた。

名門!クルトネー家 - 十字軍国家の内幕(2)

しかし、ここでフランドル伯フィリップが十字軍として到来し、ボードアン4世の従兄弟(母がフルクの娘)として摂政権を要求したことで宮廷派と貴族派は一旦、和解し、この要求を跳ね除け1176年からボードアン4世が親政することになった。

後継者争いは、母がビザンティン皇女のイザベルが優位だったが、ボードアン4世はシビーユを十字軍として到来したモンフェラート侯ギヨームと結婚させた。モンフェラート侯は1177年に死去したが、遺腹の子としてボードアン(5世)が生まれ王位の推定相続人となったため、ボードアン(5世)の後見人となるシビーユの次の結婚相手が問題となった。

巻き返しを図る貴族派は、イベリン一族のボードアン・イベリンをシビーユと結婚させようとしたが、ボードアン4世は、アキテーヌから来たギー・ド・ルジニャン*5と1180年に結婚させた。これは、貴族派に主導権を握られることを嫌っただけでなく、エルサレム王国の行く末を悲観しており、より直接的な支援を欧州の有力な王*6から得ることを期待していたからである。また、異母妹のイザベルをトロン領主のオンフロワと婚約させ、継承争いから外そうとしている。

*5 ポワチエの有力貴族ルシニャン家の一族で、アンジュー帝国ヘンリー2世の封臣だった。
*6 特にヘンリー2世はアンジュー家の本家で従兄弟で あり、王位の譲渡も打診していた。

一層、病が進んだボードアン4世はギーを代理人としたが、ルノー・ド・シャテヨンと共に、サラディンを挑発し関係を悪化させ、1183年にイザベルとオンフロワの結婚式の際にサラディンの襲撃*7を受けて適切に対応できないことに失望して、ギーを解任し、トリポリ伯レーモンを任命した。

*7 ルノーがオンフロワの母と結婚していたため、襲撃の対象となったようだ。

1184年に王母アニエスは死去し*8、1185年にボードアン4世が亡くなったが、既に共治王となっていた幼い(8歳)ボードアン5世がすんなりと戴冠し、トリポリ伯レーモンと叔父のジョスリン3世が共同で代理人となった。

*8 エルサレム王国の年代記を書いたギヨームー・ド・ティールは、エルサレム総大司教に成れなかった恨みで、教え子のボードアン4世を名君とする一方、アニエスを稀代の悪女として描いているが、現在の研究では、彼女の画策とされた事柄の多くは、ボードアン4世の意志だったと考えられている。

ところが、1186年に病弱だったボードアン5世が亡くなると、貴族派はシビーユの継承に当たって、夫のギーと離婚することを条件とし、シビーユは自由に新しい夫を選ぶことを条件として承諾した*9。貴族派は以前に関係したボードアン・イベリンと結婚することを期待したが、シビーユは意表を突き、戴冠式でギーを夫として選び、王として戴冠させた。貴族派はイザベルを擁立してクーデターを企てたが、夫のオンフロワがギーを支持したため失敗に終わった。

*9 母アニエスとアモーリの時と同様の状況だった。かっての母への仕打ちに対する反発もあったかもしれない。

エルサレム王となったギーはルノー・ド・シャテヨンと共にサラディンとの対決姿勢を強め、イスラム勢力との融和を図るトリポリ伯レーモンらの貴族派と対立したが、1187年にヒッティーンの戦いで大敗し、ギーは捕虜となった*10。エルサレムではシビーユがバリアン・イベリンと共に防衛したが、まもなく開城してトリポリに逃れた*11。

*10 かってメッカに攻め込むと豪語したルノーは、サラディン自身の手で斬首されたと言われる。
*11 考えてみれば、クルトネー家の娘がエルサレム王国の滅亡にも関係しているわけだ。

1188年にギーが解放されると再会し、アッコンの包囲を始めたが、疫病が流行り、1190年にシビーユは病没した。貴族派の支持でイザベルが女王となるが、ギーも王を名乗り続け、第三回十字軍での裁定を待つことになる*12。ジョスリン3世も包囲に加わっていたようだが、シビーユの死後に同様に疫病で死去したようで、十字軍国家におけるクルトネー家の血筋はここで絶えている。

*12 イザベルの子孫がエルサレム女王として続き、夫としてジャン・ド・ブリエンヌフリードリヒ2世がエルサレム王となる。ギーは王位放棄の補償としてリチャード獅子心王が征服したキプロスを貰い、以降、キプロス王はルジニャン家となり、ルネサンス期にベネチアに譲渡されるまで続く。

名門!クルトネー家 - 十字軍国家の内幕(3)

ブルゴーニュのクルトネー領はジョスリン1世の兄が継いでいたが、その孫のルノーはフランス王ルイ7世と諍ってイングランドに渡り*13、ルイ7世の弟ピエールがルノーの娘と結婚して継承したため、フランス王族クルトネー家となり、彼らの息子がピエール2世・ド・クルトネーである。

*13 その子孫はコートニー家として繁栄し、嫡流はデボン伯となった。

第4回十字軍で創られたラテン帝国はフランドル伯ボードアンが皇帝となっていたが、二代目皇帝アンリには後継者がおらず*14、1216年に死去した際に姉のヨランダの夫としてピエール2世が皇帝に選ばれた。

*14 フランドルはボードアンの娘たちが継承しているが、ラテン帝国に興味を示さなかった。

ピエール2世は第三回十字軍やアルビジョワ十字軍、ブービーヌの戦いなどに加わっており、その戦歴とフランス王家の血筋を評価されたと思われるが、フィリップ2世以前のフランス王家には分配する親王領もなく、ピエール2世もクルトネー領と妻の婚資のみで、使える兵力も資金も少なかった。

少数の兵を率いて、ベネチア船を借り、船賃としてドラツィオの攻略*15を約束したが果たせず、止む無くそこから陸路を取ったが、エピロス専制公国の捕囚となり、そのまま2年後に死去してしまった。

*15 第4回十字軍のように、船賃の足りない貴族はベネチアのために軍事行動を行った。まあ、傭兵と考えれば分かり易い。

妻のヨランダは別路でコンスタンティノープルに到着しており、1219年に亡くなるまで摂政として統治した。彼女の死後、長男のナムール侯は帝位を断ったため*16、次男のロベールが継承した。

*16 皇帝位とは言え、ラテン帝国は既に衰退して危険も多く、好んで成りたいものではなかった。

家の財産を継げない次男のロベールには、文字通り金も力もなく、ラテン帝国はエピロスやニカイア帝国の攻撃にさらされていた。妹をニカイア皇帝のテオドロス・ラスカリスと結婚させ、何とか息をついたが、自身の結婚でブルゴーニュの貴族と抗争になり、コンスタンティノープルを追放され1228年にモレアで死去し、帝位は弟のボードアン2世が継いだが、まだ11歳だった。彼はコンスタンティノープルで生誕した最初のラテン皇帝だったが、最後の皇帝となった。

ラテン帝国の貴族たちは前エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌを共同皇帝として呼び寄せ、その娘マリーとボードアン2世を結婚させた。1237年に亡くなるまで、ジャン・ド・ブリエンヌは何とかラテン帝国を保ったが、ほとんどコンスタンティノープルのみの都市国家となっていた。

ボードアン2世は1236年から欧州を回り援助を請うていた。聖遺物であるキリストの「茨の王冠」の棘を担保にベネチアから金を借りて、1240年に傭兵を連れてコンスタンティノープルに戻ったが成果をあげられず、再び1245年から欧州を回り、多くの聖遺物をルイ9世に売却*17したが財政難は変わらず、息子のフィリップをベネチアに担保として残さなければならなかった。ボードアン2世の人生の大部分は欧州での物乞い行脚に費やされ、首都の防衛はベネチアが一手に引き受けている状態だった。

*17 ルイ9世は聖遺物を買い集め、新たにサント・シャペルを建築して、それらを安置している。聖王と呼ばれるように本人が敬虔なせいもあるが、フランス王族の子孫への援助の意味もあっただろう。また、聖遺物を持つことは王の権威を高めるなど実利もあった。

1261年にニカイア帝国の偵察部隊がコンスタンティノープルからベネチア艦隊が出払っていることに気づき占領した。ボードアン2世は宮殿で寝ていたが*18、既に敵兵が市内に入り込んでいることを知り、王冠も王笏も全て置き去りにしてベネチア船に飛び乗って逃げ、以降、欧州で物乞い旅行を続けることになった。

*18 皇帝が居るのに防備する兵が出払っているのは、如何にボードアン2世の存在感が無かったかが想像できる。

1267年にシチリア王シャルル・ダンジューにラテン帝国の権利を譲渡して年金をもらい、息子フィリップとシャルルの娘との婚約を締結し、1273年にフィリップの結婚式を見届けた後、ナポリで死去した。シャルル・ダンジューはラテン帝国回復の一大遠征軍を計画していたが、1282年のシチリアの晩鐘で、ラテン帝国回復は絶望的になった。フィリップは名のみのラテン皇帝を名乗っていたが1283年に死去し*19、娘のカテリナが権利者になったが、ナポリ王国はシチリアを巡ってアラゴンとの戦争に忙しく、既にあまり意味のないものだった。しかし、1301年にフランス王の弟シャルル・ド・バロワがカテリナと結婚し東方遠征を計画するが途上で放棄し、1307年にカテリナは死去した。

*19 ここでラテン帝国のクルトネー家は断絶となる。

その娘のカテリナ・ド・バロワが権利を継承しタラント公フィリップと結婚したため、タラント公家に受け継がれ、さらに女系でジャック・デ・ボーが受け継いだが、1381年の彼の死後にラテン皇帝を名乗るものはいなかった。

さて、冒頭でラテン皇帝となったピエール2世・ド・クルトネーの弟ロベールの系統はシャンピニュの領主として残ったが、本家のラテン皇帝の系統が財産を全て売り払って貧窮して断絶したため、マイナーな地方の小領主として存続し、中央から忘れられた存在となっていた。

しかし、バロワ王家が断絶して、ルイ9世の息子を祖とするブルボン家が王家となると、ルイ6世の息子を祖とする王族として扱われることを望んで1603年から申請を続けたが却下され続け*20、1733年に男系が断絶している。

*20 14世紀に男系限定となったフランス王家では男系王族の地位は高く、今更、地方の小貴族を王族にする訳にはいかなかった。また、一応、系図はあるといっても偽造でないとの確証もなかった。

ちなみにデボン伯のコートニー家は、薔薇戦争では一貫してランカスター派で、1471年のテュークスベリーの戦いでジョン・コートニーが戦死して一旦、断絶しているが、一族は多く、断続的にデボン伯となり現在まで続いており(19代)、イングランドで最も古い貴族の家系の一つとなっている。

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