フランス公益同盟

フランス公益同盟(1) - 封建諸侯の抵抗

フランス公益同盟とは、フランスの主要な大貴族が、百年戦争終結後に中央集権化を進めるフランス王ルイ11世に反抗して結集した同盟である。

貴族の私的な連合のどこが公共の利益なのかというと、大貴族達は自分達こそがフランスを構成する公であるため、国王が権力を独占することは公益に反するという理屈である。この公共には、それ以下の第3身分(平民)は全く考慮されていない。

中世の王権」で記したように、フランスという国は、かっては大貴族の領土の集合体であり、それを調整するのが王の役割だった。13世紀以降に王権が強化され、主要な地域が王領と親王領(アパナージュ)になっても、それらを与えられた王族は依然として彼等の領土が半独立的な国で王の権限が及ばないと考えていた。

フランス側から見ると、百年戦争も王家によるフランス統一戦争の一環だったとも言える。14世紀初頭のフィリップ4世時代にフランスに残っている他家の大貴族の領土は、イングランド王が有する南部のギエンヌ・ガスコーニュ、北部のフランドル、西部のブルターニュだけであり、前者2つを併合しようとしたのが一連のイングランド王との戦争の始まりであり、また、ブルターニュの継承問題で、フランス王フィリップ6世が甥のシャルル・ド・ブロワを支援して、対立候補のジャン・ド・モンフォールがイングランド王の支援を求めたのがブルターニュ継承戦争であり、これらを合わせて百年戦争と呼んでいるのである。

外交的にも国力的*1にも卓越していたフランスは、これらの領土併合に自信を持っていたのだが、新兵器とも言えるロングボウ(長弓)を主力とするイングランドが意外な奮戦を示したため、この目論見が狂い出し、さらに悪いことに、シャルル6世の精神疾患により、藩屏となるべく強化されたブルゴーニュ公、アンジュー公、オルレアン公、エブルー伯(ナバラ王)などの王族達が半独立のプリンス(君主)として自儘に振る舞いだし*2、ブルゴーニュ公とオルレアン公の争いが内戦となり、イングランド王ヘンリー5世に付け込まれたのである。

*1 教皇庁はアヴィニョンにあり、フランス王の影響力が強く、またナポリやハンガリーが同族のカペー・アンジュー朝だった。また、フランスの国力はイングランドの数倍あった。
*2 ブルゴーニュ公は低地地域(ネーデルラント)に一大領邦を築こうとしており、アンジュー公はナポリ王位を主張していた。

しかしジャンヌ・ダルクの活躍やブルゴーニュ公との和平により、フランス王家は1453年にはカレーを除くイングランド王のフランス領土全てを奪って百年戦争を終結させたが*3、フランスの統一は課題として残されていた。

*3 一般的にこの時点で終結とされるが、薔薇戦争でフランスでの戦闘が長期間途切れただけで、正式な休戦協定や平和条約が結ばれた訳ではなく戦争状態は終わっておらず、また1475年のピキニー条約も休戦協定であり終戦とは言えない。

シャルル7世の嫡男ルイ(11世)は、自身が封建諸侯と結んで父に反抗していたが、1461年に即位すると、これらの封建諸侯を抑えて中央集権化を強く推進し始めた。

これに対して半独立的ながらフランス最大の諸侯であるブルゴーニュ公の確定相続人シャルル(突進公)が、1465年にルイ11世の弟ベリー公シャルルを担いで反抗したのが公益同盟である。

公益同盟に加わった主要な貴族を見ると

ベリー公シャルル、ブルゴーニュ公確定相続人シャルル(突進公)、ブルターニュ公フランソワ2世、アランソン公ジャック2世、ブルボン公ジャン2世、ロレーヌ公ジャン2世、ヌムール公ジャック・ダルマニャク、アルマニャック伯ジャン5世、サン・ポール伯ルイ・ド・ルクセンブルク、アルブレ伯シャルル2世、デュノワ伯ジャン(オルレアン公ルイ(後のルイ12世)の庶叔父)

で、既にほとんどの大貴族は王族で、そうでないのはブルターニュ公ぐらいで、アルマニャック伯、サン・ポール伯、アルブレ伯は辺境の中堅諸侯であり、その他はいずれも王族かその女系相続した家系である。また、大貴族で加わっていないのはアンジュー公*4ぐらいである。

*4 ルイ11世の母はアンジュー公(ナポリの善良王)ルネの姉妹。

ルイ11世は戦争が好きではなく、かつ得意でもなく、これに対抗するために「世界の蜘蛛」と仇名された外交と陰謀を駆使して、これらの封建領土を王領に併合すべく陰謀の網を張り巡らせ始めた。

フランス公益同盟(2) - 宿敵ブルゴーニュ

ルイ11世は戦争が上手くなく、慎重に事を運んでいる内に、ライバルが先に死亡したり自滅して、結果的に自家を繁栄に導いたという点で、同時代のハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世と似ている面があるが、椅子に座ったまま世界支配を夢見ていたと評され*5、世界の大愚図と呼ばれた長生きして運が良かっただけのフリードリヒ3世とは違い*6、非常にまめな策謀家だった。

*5 教皇ピウス2世の評
*6 フリードリヒ3世も地道に策謀に励んでいたのかもしれないが・・・

王にとって内戦の戦い方は難しい。力が互角なら激しく戦えば双方に損害が大きく、持久戦だと双方が消耗し、結果的にイングランド等の外国勢が漁夫の利を得ることになり百年戦争の轍を踏む可能性がある。反面、連合した諸侯の利害関係は様々であり、宥和策で切り崩して互いに反目させ、各個撃破を目論むのが常道である。

ルイ11世は最初のモントレリーの戦いで不利になると速やかにコンフランの和を結び、ベリー公シャルル*7にノルマンディを追加の親王領として与えるなど公益同盟の要求を概ね認めたため、公益同盟は一旦解消された。

*7 父との折り合いの悪かった兄ルイ11世とは違い、シャルル7世のお気に入りだったため、兄を廃嫡して王太子に立てられると憶測された時期もあり、現在の待遇に不満を抱いていた。ちょっとあのジョン王の立場に似ている。

元々、同盟諸侯の利害や王との関係は様々であり、ブルゴーニュ公やブルターニュ公は場合によってはフランス王との全面対決も辞さない構えだったが*8、他の諸侯の多くは封建領主の自由や所領・特権の維持・拡大を目的とする条件闘争であり、特に不満はないが親族や同盟者に誘われたり、何となく得そうだと考えて参加する者もいたため、硬軟取り混ぜたケース・バイ・ケースで対応する必要があった。

*8 百年戦争においても、この2者はしばしばイングランドと同盟している。

この後も反抗と講和が繰り返され、その中でブルボン公は懐柔して味方に付け、ベリー公、オルレアン公とはその時々で妥協した。またブルゴーニュの金羊毛騎士団に対抗して、1469年に聖ミカエル(サンミッシェル)騎士団(勲章)を創立し、諸侯の歓心を買おうとしている*9。

*9 このような形式的な騎士団(勲章)は、所領や役職とは違い、余計な力を与えず名誉だけを与え、王家に対する親近感も湧くため都合が良い。

一番の大敵は言うまでもなくブルゴーニュ公であった。フィリップ善良公が生きている間はフランス王国内での実質的な独立を指向し、中央集権を目指す王権に対して他の諸侯と共に抵抗する姿勢だったが、シャルル突進公は、むしろフランス王国からの分離・独立を指向し、諸侯の反乱を煽動することで王から譲歩を引き出そうとしていた。

これに対し、ルイ11世は虚々実々の駆け引きを行ったが、1468年にフィリップ善良公が死去し、跡を継いだシャルル突進公がイングランド王エドワード4世の妹マーガレットと結婚すると、自ら相手の領土ペロンヌに出かけて和平交渉を行った。しかし、その折に、以前からブルゴーニュに反乱を繰り返してきたリエージュが再び反乱を起こすと、リエージュへのルイ11世の支援を知っていた突進公は激怒して、彼を捕囚とすることも考慮してリエージュ攻めへの同行を強要した。ルイ11世は突進公の要求に従いリエージュ攻めに加わり、ブルゴーニュに有利な条約を結んだ後に解放された。

しかしペロンヌ条約での休戦期間1年が過ぎた後、ルイ11世は突進公を反逆罪の疑いで高等法院に出頭することを要求し、突進公は報復としてノルマンディに侵攻したがブーベを落とせず撤退した。

1470年にイングランドでフランスの支援を受けたウォリック伯とランカスター派がヘンリー6世を復位させ、エドワード4世は妹婿の突進公を頼ってネーデルラントに亡命してきた。突進公は当初は援助を断っていたが、フランスがブルゴーニュへの攻撃を始めたため、エドワード4世のイングランドへの帰還を支援し、翌年、エドワード4世は反乱を制してヘンリー6世、エドワード王太子を殺しヨーク朝を安泰とした。

この情勢の中で、突進公は自分を王と同等以上と考えるようになり、名実ともにフランスから分離した独立王国の建設を目指し、1473年には皇帝フリードリヒ3世に王号の承認を願ったが、フリードリヒ3世が夜中に逃げ出したため有耶無耶になった。

突進公の積極的な拡張策に周囲の王侯は脅威を感じ始め、ルイ11世の使嗾もあり、彼のアルザスの代官ペーター・フォン・ハーゲンバッハが反乱で殺害されのを契機に、アルザス、スイス、オーストリア公ジギスムント、ロレーヌ公ルネ2世などが反ブルゴーニュ同盟を結んだ。

突進公の要請を受けて、1475年にエドワード4世がフランスに侵攻したが、ルイ11世はこれを交渉で解決し、75,000エキュの即時支払いと毎年50,000エキュの年金の支払い*10を行うピキーニ条約を結んで休戦してしまった*11。ルイ11世は、先王は戦争でイングランドを追い払ったが、自分は上質のワインと策謀で追い払ったと誇ったという。結果論としては、後に突進公は敗死し、目先の利益に釣られてイングランドは同盟相手を失うことになるが、この時点ではブルゴーニュは十分に強力であり、わずか2年で破滅するとは考えなかっただろう。

*10 その他に薔薇戦争で捕囚となっていた前イングランド王妃マーガレット・アンジューの身代金50,000エキュが支払われた。その代わりマーガレットはアンジューの継承権を放棄しなければならなくなった。この条約にグロスター公(リチャード3世)は反対したという。
*11 亡命した時の突進公の支援を考えれば利己的なようであるが、突進公は傲慢な性格であり、恩だけでなく不快に感じる部分もあったのだろう。また、元々、イングランド、フランス、ブルゴーニュの関係は三すくみのようなもので、その時々の利害に応じて付いたり離れたりするものだった。

外交的に孤立したのは大きな痛手であり、フィリップ善良公のように外交を重視する者なら、自重して対策を練り直すものだが、突進公は武力で解決を図り、一層ロレーヌに侵攻して彼の領土ブルゴーニュとネーデルラントを連結することを狙った。

1476年にはスイスに侵攻したが、農民兵と甘く見た突進公はグランンソンの戦いで敗れ、本気で掛かったムルテンの戦いにも連敗した。自慢の兵も装備も大部分を失い、家臣達は一旦、引き上げての捲土重来を勧めたが*12、突進公は仇名の通り引かず*13にナンシーの包囲を続け、1477年に数的優勢なロレーヌ・スイス連合軍とのナンシーの戦いで敗死した。

*12 ロレーヌ公は大量の傭兵を長期間雇う金がなく、長期戦を戦えないと予想できた。
*13 誇り高く、強気一辺倒で来た突進公は、ルイ11世のように屈辱に耐えて再起を期すことはできなかったのだろう。

イングランドとブルゴーニュの脅威を消した効果は大きく、公益同盟に参加した者のうち、1475年にサン・ポール伯が反逆罪で処刑され、1476年にアランソン公が獄死し、1477年にはヌムール公が処刑された。

フランス公益同盟(3) - フランス統一

運良くシャルル突進公が自滅したようにも見えるが、スイスやロレーヌ公に資金援助していたのはルイ11世であり、思惑通りの展開になったと言える。しかし、その後の対処に少し失敗し大きな禍根を残すことになった。

シャルル突進公の相続人は1人娘のマリーだが、ルイ11世は突進公の死を聞くやいなや、ブルゴーニュ公領、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領、ビカルディなどのフランス内のブルゴーニュ領の接収を宣言した。その上で、残りのブルゴーニュ・ネーデルラントを入手するために、息子のシャルル8世との結婚を強要したため、ブルゴーニュ側の態度を硬化させることになった*14。

マリーの義母マーガレット・ヨークの勧めもあり、多くの求婚者の中からフランスに対抗できる勢力として神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の跡継ぎマクシミリアン(1世)が選択され、1477年8月に早くも結婚式が執り行なわれた。

*14 ルイ11世と対立していたとは言え、本来は本家のフランス王家と一緒になるのが最も自然な選択であり、ルイ11世が過去を水に流して危機に陥ったブルゴーニュに援助の手を差し伸べていれば、円満にシャルル8世との結婚を実現できたかもしれない。

マクシミリアンはブルゴーニュ家領全体を確保すべくフランス軍と各所で戦い、1479年のギネガテの戦いで勝利を収めたが、1482年にマリーが死去したため、ルイ11世とアラス条約を結んで和睦した*15。マクシミリアンとマリーの間には息子フィリップ(美王)と娘マルグリットがおり、フィリップの相続を確実にするために、フランスのブルゴーニュ公領の所有を認めると共に、マルグリットをシャルル8世と婚約させ、婚資としてブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領を引き渡した。

*15 1479年からオーストリアはハンガリー王マチアス(マチューシャ)・コルウスの侵攻を受けており西の領土を安定させる必要があった。

1483年にルイ11世が亡くなった時には、フランスは概ね安定していたが*16、後継のシャルル8世は13歳だった。当時としてはさほど幼少とは言えないが(通常15歳で成人)、頼りないと思われていたこともあり、姉のアンヌとその夫ピエール・ブルボンが摂政となり全権を有することが遺言された。

*16 陰険で理解しにくい性格だったため、死去を聞いて多くの人間が喜んだと言われるほど人気はなかったが、フランス王権の強化には大きく貢献している。

この時点で推定相続人となったオルレアン公ルイ(後の国王ルイ12世)は摂政権を得られずに不満であり、アンヌは「フランスで最も愚かではない女性」とルイ11世に評されたように有能で政治的手腕もあったが、基本的に摂政政治は貴族の反抗を受け易く、またシャルル8世が通常なら親政する年齢になっても摂政政治が続いたため、オルレアン公ルイを中心として、ブルターニュ公フランソワ2世、ロレーヌ公ルネ2世、アルブレ伯アラン、オラニエ公ジャン、アングレーム伯シャルル達が再び公益同盟を結び、アンヌ夫妻の摂政の終了を要求し、マクシミリアン1世とも同盟して、1485年から断続的に戦った。

戦いの中心はフランスからの独立を望むブルターニュとなり、1488年のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦いでブルターニュ連合軍は敗北し、オルレアン公ルイ、オラニエ公ジャンが捕虜となり、ブルターニュ公フランソワ2世は屈服し、同年に一人娘アンヌを残して死去した。

ここでブルゴーニュの時と同様な状況が再現された。相続人のアンヌには多くの求婚者がいたが*17、フランスと対抗できる人間としてはハプスブルク家のマクシミリアン1世しかおらず、1490年に代理結婚が行われた。しかしフランスにとってブルターニュを支配下に入れることは悲願であり、またハプスブルク家に両側から挟まれることを恐れ、ブルゴーニュの意趣返しもあって摂政政府により強攻策が取られた。1491年にフランス軍がブルターニュに侵攻し、レンヌは陥落し、アンヌはフランスの手に渡った。マクシミリアン1世はハンガリーとの戦いの渦中*18で直接支援できず、傍観せざるを得なかった。

*17 マクシミリアン1世、オルレアン公ルイ、アルブレ伯アラン、オラニエ公ジャンなど引く手あまただった。
*18 前年にマチアス王が嫡子なく死去し、ハプスブルク家はオーストリアの奪回に注力していた。

シャルル8世はマクシミリアン1世の娘マルグリットと婚約しており、アンヌはマクシミリアン1世と代理結婚していたにも係わらず、これらを破棄してアンヌと結婚し、ブルターニュを支配下に収めた*19。しかもマルグリットとその婚資も返還せずに、他の王族との婚姻を図った。

*19 娘マルグリットとの婚約破棄、妻アンヌの略奪、力づくでの結婚とマクシミリアン1世にとっては侮辱の極みだった。

マクシミリアン1世は娘と婚資の返還を要求し戦争となったが、神聖ローマ帝国の事柄で多忙であり、イタリア遠征を考え始めたシャルル8世は、周辺国との紛争の解決*20を望んでおり、1493年にサンリスで和を結び、ブルゴーニュ公領とピカルディがフランス側に残され、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領がマルグリットと共に返還された。

*20 イングランドでは、支援したヘンリー・チューダーが1485年にリチャード3世を破ってチューダー朝を開いており、1492年のエタープル条約でイングランドとの和睦が成立した。

ともかくもブルターニュを支配下に置くことでフランスの統一は概ね達成された*21。シャルル8世はアンヌとの結婚を機に親政を初めており、アンジュー公から相続したナポリ王国の継承権を主張して、1494年からイタリア戦争が始まるのである。

*21 しかしシャルル8世とアンヌの間に子供はできず、ルイ12世とアンヌの結婚、娘クロードとフランソワ1世の結婚と涙ぐましい努力の末に、漸くアンリ2世の即位でブルターニュをフランスに確保することができた。

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