高田馬場の決闘異聞

武士道の記事を書いている時、仇討ちだけでなく、その他の果し合いも調べていたが、そこで目に付いたのが、ご存知、忠臣蔵の中心人物、堀部安兵衛が中山安兵衛だった頃に評判となった高田馬場の決闘だった。

高田馬場の決闘と言えば、漠然と中山安兵衛が叔父の決闘の助太刀を頼まれたが、折り悪く留守にしており、残された置き手紙を見て、高田馬場まで走りに走り、辿り着くや否や敵をバッタバッタと切り倒し、無事に叔父の本懐を遂げさせ、それを見ていた堀部弥兵衛親子に見初められ、堀部家の養子となり赤穂浅野家に仕えることになったと記憶していたが、実際はかなり違うようだ。

仇討ちや決闘話に尾鰭、背鰭が付いて話が大きくなることは普通のことだが、「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」*1では、安兵衛は決闘の当事者である菅野六郎左衛門と同門と言うだけで血の繋がった叔父・甥ではなく、最初から決闘の介添人として現場におり、相手は村上庄左衛門とその兄弟、中津川祐見、村上三郎右衛門の3人だったらしい。見物人などはおらず、堀部弥兵衛も後の評判を聞いて、是非、娘婿にと頼み込んだようだ。

*1 Wikipediaによると『細川侯爵家文庫』に所蔵されていたそうで、安兵衛が西条松平家に提出した供述書(始末書)。

これが、瓦版や講談・芝居では冒頭のような話で「18人斬り」とか伝えられて評判になった訳だが、当事者は中山安兵衛以外、全員が死亡しており、安兵衛だけの証言が西条松平家に提出されている*2。

*2 菅野家の若党、小者は数に入らず、また菅野にとっても有利な供述のため口裏は合わせられる。

このため、安兵衛が自分達に都合の良いように供述したとも考えられる。

そもそも西条松平家中の個人間の決闘で、浪人の中山安兵衛が助っ人をして評判になるのは少し変であろう。仇討ちは目的が仇を打ち取ることであるため、仇討ち側は討ち漏らさないように出来るだけ人数を集め、仇側もそれに応じて助っ人を集めるが、決闘の場合は両当事者の「武士の意地」の張り合いであり、1対1が基本である。

その決闘が正々堂々尋常に行われるように両者の親族・知人が介添人として付き、互いに相手の介添人が手を出さないように牽制仕合う訳だが、ここで互いの不信感が募ったり、味方の当事者が倒されて、その仇討ちとして介添人が参加して乱闘になることも珍しくはなく、その為、手練の人間を介添人に頼むことも多かったようだ。

菅野六郎左衛門と中山安兵衛は単なる同門であり、腕に自信の無かった菅野が同門の誼で腕利きの安兵衛に助っ人を頼んだのではないだろうか?そして、それは礼金を約束してのことかもしれず、それでは体裁が悪いため、他人ながら叔父・甥の契りを結んでいたことにした可能性もある。*3

*3 同門の知人などに尋ねれば、さほど親しくなかったことは明らかになるかもしれないが、当時は念友という概念もあり、他人が知らない秘密の関係と了解することは有り得る。

安兵衛は浪人であり、江戸中期ともなると腕が立っても新たな仕官は厳しかった。藩の剣術指南役に成るには日本代表クラスの腕が必要で、地方選抜クラスの安兵衛の腕では難しかったろう。しかし、素人3人なら十分に勝てる腕であり、この手の仇討ち・決闘事件での活躍は凄く評判になり、仕官にも大いに有利に働くことになる。安兵衛は金銭より、そちらの評判を期待しただろう。

武芸者というのは、昔から半分は芸を売る商人であり*4、自分の宣伝が上手い人が多かったのである。道場の伝手を頼って*5、瓦版や口コミの噂を流す位の事はしただろう。

*4 1/3が芸を売る商人で、1/3が求道者、残りがその中間とか言われたりもする。
*5 道場にしても門人の活躍が評判になれば、他の門人も鼻が高いし、道場も繁栄する。

こう考えると決闘の展開にも疑問が湧く。安兵衛の供述書では、手を切られた村上庄左衛門が切りつけてくるなど展開が不自然なのである。

最初は菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が一騎打ちするのが自然であり、そこで菅野が切られ、それを見た安兵衛が既に手を切られていた村上庄左衛門を切り殺し、驚いた村上三郎右衛門と中津川祐見が斬りかかってくるのを腕の違いで次々と切り殺したとも考えられる*6。安兵衛としては単に同門が切り殺されて終いでは、流派の名誉や彼自身の沽券にも関わるのである。

*6 もう少し穿って見ると、いきなり村上三郎右衛門を切り殺し、驚いた中津川祐見が斬りかかってくるのを腕の違いで切り殺し、最後に既に手負いの村上庄左衛門に止めを刺したとも考えられる。武芸者は勝つことが重要なのである。

これでは一騎打ちの決闘に手を出し、手負いの相手に斬りかかったことになるため、証人がいないことを幸いに少し話を変えて供述したのかもしれない。

まあ、赤穂義士として神格化した立場では、その代表とも言える堀部安兵衛がそんなことをするはずがないということになるが、この時代の名を上げたい武芸者としては、多少の嘘や謀り事も武略の内であり、そう問題のある行動ではない。

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