王になれなかった男 - バロワ伯シャルル

キプリングの短編に「王になろうとした男」という話がある。植民地時代に徒手空拳の一介の英国人がアフガニスタンあたりで未開の部族を従えて王になろうとする話であり、荒唐無稽のようだが、ボルネオのジェームズ・ブルックのように実際に植民地で王になった例はある。

中世ヨーロッパでは血統が重要であり、一介の騎士が実力だけで王になるのはほぼ不可能であるが、十字軍国家のような戦争の最前線の国家では女王/女公の婿として王(君主)となることは可能であった*1。また王族クラスであれば、通常の政略結婚により女王と結婚すれば王となれた。近世以降は国家機構が整備され、王は政治家と軍人の上に君臨するため女王でも統治可能であり、夫には実権が与えられず単なる種馬として扱われることが多かったが*2、中世では夫は王として女王に代わって、あるいは共同で統治するか、統治権は持たなくとも軍事に関しては女王の代理を務めた*3。

*1 エルサレム王国のギー・ド・ルジニャンやジャン・ド・ブリエンヌなど。
*2 ヴィクトリア女王の夫アルバートやマリア・テレジアの夫フランツなどは、女王に対して助言する程度で権限は持っていなかった。
*3 ナバラ女王やエルサレム女王は夫が王として統治していた。ナポリ王国のジョヴァンナ1、2世の夫達は必ずしも王になっていないが、いずれも女王の軍事を担当している。

カトリック圏ではローマ教会によってある程度の秩序が存在したため、十字軍やレコンキスタなど異教徒に対するものを除けば、継承争いではなく武力だけでの征服は中世盛期にはあまりなく*4、そのため、婚姻や女系継承ではなく新たに王になることは難しかった。

*4 ノルマン・コンクエストぐらいだろうか。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世もシチリア王国を武力制圧しているが、彼の妻コンスタンツェはシチリア王国の継承権者である。

しかし、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝家であるホーエンシュタウフェン家との争いで、フランス王ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューが教皇からシチリア王位を与えられてシチリアの征服に成功してから、王太子ではない王族が教皇の支持を得て他国の王位を狙うことが増えてきた。

このように王になろうとしたが、なれなかった王族には、エドワード1世の弟で神聖ローマ皇帝になろうとしたコンウォール伯リチャード、ナポリ王になろうとしたバロワ・アンジュー家のアンジュー伯ルイ1、2、3世、カスティラの王位を狙ったランカスター公ジョン・オブ・ゴーントなどがいるが、もっとも数多く試みて、王位に近い位置にありながら、結局、どの王にもなれなかったのがフランス・バロワ家の祖であるバロワ伯シャルルである。

彼は、フランス王フィリップ3世の息子で、フィリップ4世の弟で、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世の叔父であり、フィリップ6世の父である*5が、当人は王になれず、「王の子であり、王の弟であり、王達の叔父であり、王の父であるが、王ではない」と揶揄された。

*5 彼の妹2人も王妃である。

1285年のアラゴン十字軍時*6に15歳で教皇からアラゴン王位を与えられたが、王冠がなかったため枢機卿の帽子で戴冠し、帽子王と嘲笑的に呼ばれたりもした。しかし父フィリップ3世のアラゴン侵攻は失敗に終わり、ナポリ、アラゴン、フランス三者間の条約によりアラゴン王位を放棄し、代わりにナポリ王カルロス2世の王女マルグリットと結婚して、その持参金としてアンジュー伯領を受けとった。

*6 シチリアの晩鐘の後、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王となったのに対して、シャルル・ダンジューの要請でフランス出身の教皇マルティン4世が呼びかけた。

1301年にはラテン帝国の相続権を持つカテリーナ・ド・クルトネーと結婚した。その許可を受けるためにイタリアに遠征し、教皇の要請によりフィレンツェを制圧してダンテの恨みを買うことになったが、シチリア遠征は成功せず、資金も尽きてラテン帝国の再興には遠く及ばなかった。

さらに1308年にハプスブルク家のドイツ王アルブレヒトが暗殺された後、兄フィリップ4世の支援によりドイツ王を狙ったが、フランスの影響力増大を嫌ったドイツの選帝侯たちはルクセンブルク伯だったハインリッヒ(7世)を選出したため、これも失敗に終わった。

しかし、フィリップ4世の後、ルイ10世、ジャン1世、フィリップ5世がいずれも嫡出男子がなく死去し、1322年にシャルル4世が即位すると王位の推定相続人となった。シャルル4世にも嫡出男子がおらず、1328年にシャルル4世が死去した際に生存していれば念願の王位に就けたはずであるが、惜しくも1325年に亡くなっており、息子のフィリップ(6世)がフランス王になっている。

彼自身はそこそこ有能な軍事指揮官で、フランドル征服、イングランド王領ギエンヌ征服、フィレンツェ侵攻などに成功している。彼は3人の妻との間に4男10女をもうけており、彼等を通して、フランス王を始めとしてヨーロッパの多くの王侯家にその血統を伝えており、まずまずの人生だったといえよう。

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