1492年にグラナダが陥落して、イベリア半島で最後のイスラム国家であるナスル朝グラナダ王国は滅亡し、レコンキスタ(再征服運動)は完了した。最後の君主はアルハンブラ宮殿を去るときに振り返って涙を流したと言われる。
後知恵で考えると、内戦が終結しポルトガルとも講和して、1479年にカスティラとアラゴンが同君連合となった段階で、レコンキスタの仕上げを行うとの危機感を持つはずだが、グラナダ王国にはそれ程の危機感は無かったようだ。
と言うのもイベリア半島ではイスラムとキリスト教社会の共存が続いており*1、あえてイスラム国家を完全に消滅させる必要はないとの感覚があったからだ。同様の感覚は1453年のコンスタンティノープルの陥落時にもあり、すでに一都市国家になっていたビザンティン帝国を滅ぼす必要はないとの意見はオスマン帝国内にも強かったのだが、メフメト2世が押し切ったのだ。
*1 ナスル朝は250年に渡って、唯一のイスラム教国として命脈を保っていた。
西の「グラナダの陥落」は約800年近くも続いたイベリア半島におけるイスラム教徒の王国が最後を迎えるという点で東の「コンスタンティノープルの陥落」に似たインパクトがあったが、その割には同教徒の支援や反応は今一つという点でも似ている。
グラナダ戦争が始まった1482年の時点では、グラナダはアブルハサン・アリー王(アミール)の元で健在だった。既にセウタやジブラルタルがキリスト教勢力のものとなり、北アフリカのイスラム教国とは切り離され*2、経済的にも衰退が始まっていたが、グラナダは天然の要害の地であり、軍備も万全だった。そのため重税になったが、イベリア半島最後のイスラム教徒の地で、住民も他に行く所が無い為、甘んじて受け入れていたようだ。
*2 兵力の供給源でもあった。
この時点ではスペインのカトリック両王(イザベル、フェルナンド)も一気にグラナダを陥すというより、その勢力を侵食していく程度のつもりだったようだ。
全てはアブルハサンの息子ボアブディル(ムハマド12世)と母アイシャが悪いようだ。王の長子である彼が、スペインとの戦争の最中の1482年に、父に反乱して王位を奪ったのは母の差し金らしい。
彼の母アイシャ(ファティマ)はマホメットの血を引く高貴な血統で、最初はムハマド11世と結婚しており、その死後に後継者だったサイドの子のアブルハサンと結婚して*3、ボアブディルを生んだが、アブルハサンがキリスト教徒からの改宗奴隷だったイザベル・デ・ソリスを愛して妻にし、アイシャとボアブディルを別の王宮に追いやったことを恨んでいたようだ*4。
*3 王家の2つの系統の和解の意味があったようだ。
*4 カスティラのペドロ残酷王と母マリアを思い出す(イベリアの愛妾と庶子 参照)。イザベルには2人の男子がおり、グラナダ陥落後は母子共々、カトリックに改宗したそうだ。
アブルハサンは子との内戦を避けて身を引いたが、その弟のザガルがマラガの東、アクサーキアでスペイン軍を破って存在感を示したのに対して、ボアブディルは1483年の「ルセーナの戦い」でスペインの捕虜になってしまい、アブルハサンがグラナダに戻って復位した。
スペインのカトリック両王はグラナダの分裂状態を知り、ボアブディルを解放すればグラナダは内戦で自壊すると見て、貢納金を払ってスペインに臣従することを条件*5にボアブディルへの支援を約束して解放した。
*5 グラナダは以前から貢納金を支払っており、カスティラ内戦時に中止していたのを再開するだけなので、厳しい条件ではなかった。
既にグラナダではザガルが実権を握っており、両者の内戦となったが、1485年にボアブディルは本拠地を失い、再びスペインに逃げ込み、ザガルは兄に譲位させムハマド13世として即位した*6。
*6 アブルハサンは間も無く死去したようだ。
スペインは再び支援を与えてボアブディルをグラナダに戻すと共に、本格的な侵攻を開始した。ボアブディルはスペインの臣下国としての和平を主張した為、勝ち目が無いと見ていた少なからぬ同調者の支持を得たようだ。
徹底抗戦を主張するザガル派と和睦を主張するボアブディル派で分裂した状態では、スペインに対して有効な防戦ができず*7、ロンダはわずか15日間で陥落し、グラナダ海軍の基地マルベリャもそれに続いた。
*7 ボアブディル派はスペインを同盟国と思っており、積極的に開城を支持し、時にはスペインに内通した為、都市は一致して防衛することが出来なかった。
1487年には遂に重要な海運都市マラガが包囲されたが、ザガルはボアブディルにも対応しなければならず有効な救援を送れなかった。マラガは3ヶ月の激しい抵抗の末に陥落し、守備隊やキリスト教からの改宗者は皆殺しになり、市民は奴隷に売られた。
マラガの陥落でザガルの威信は落ち、ボアブディルはグラナダ市を中心に勢力を回復したが、ザガル支配下の都市がスペインの手に落ちるのは傍観していた*8。
*8 戦争終了後、大部分が返還されると甘い期待を持っていたようだ。
1489年にはザガルの本拠地バーサが包囲された。包囲は6ヶ月の長期に及び包囲軍の士気は低下したが、イザベル女王自ら現地を視察して将兵を激励したという。防衛側は余力を残していたが、救援の当ては無く、降伏するまでスペイン軍が撤退しない覚悟を見て、遂にザガルは降伏を選択した*9。
*9 余力を残していた為、マラガとは違い降伏の条件は良かった。
ザガルが降伏したことでグラナダ戦争は終了し、ボアブディルはグラナダ王国を回復できると思っていたが、1490年にスペインは返還どころか、首都グラナダと残りの領域からの退去をボアブディルに通告した。
裏切られたことを知ったボアブディルは、エジプトのマムルーク朝やモロッコのフェズ王国などに支援を要請したが、マムルーク朝は対オスマンで欧州と敵対したくなく、救援する力の無いフェズは沈黙を保ったままだった。
1491年4月からグラナダの包囲が始まり、城壁は防衛できたが、内部は早期の降伏派と抗戦派に分裂し、大量に流入した避難民の中に紛れたスペインのスパイが暗躍し、王の腹心にすら内通する者がいて混乱状態が続いた。外部からの救援が期待できない以上、降伏は時間の問題であり、スペインも被害を避けて包囲を続けたため交渉が行われ、1491年11月にグラナダ条約が結ばれ、イスラム教徒の地位の保全が保証された。
1492年1月にスペイン両王が城外に待ち構える中、ボアブディルは百騎の廷臣を引き連れて現れ、城の鍵を渡し、そのまま退去した*10(絵 参照)。
*10 このときイザベル女王は臣従のキスをさせなかった。これは、さらなる侮辱とも思いやりとも解釈されている。
ボアブディルは山道の途中でグラナダを振り返り、夕日に照らされるアルハンブラ宮殿の美しい姿を見てすすり泣き*11、母のアイシャは「男らしく守れなかったからといって、女のように泣くのは止めなさい」と諌めたと言われる。
*11 有名なシーンで「ボアブディルの嘆き」と呼ばれているらしい。
ボアブディルは、シエラ・ネバダの山岳地域に領土を与えられたが、そこからも退去してフェズに行き、そこで暮らして生涯を終えたようだ。
スペインでは、既に異端審問が実施され、グラナダ陥落後のアルハンブラ布告でユダヤ人が追放された。イスラム教徒(ムデハル)にも改宗への強い圧力が加えられた為、1502年にムデハルが反乱を起こし、それを理由にグラナダ条約は破棄され、イスラム教徒も改宗か追放を迫られ、改宗者(モリスコ)もその後、激しい異端審問に晒されることになる。
ちなみに、この包囲戦の勝利を祈ってイザベル女王が下着を替えなかった為、イザベラ色(灰黄色、灰茶色)が生まれたという俗説があるが、上記のようにグラナダ包囲戦は最初から勝負は見えていて、願を掛けるような戦いではなかった。
元々、スペイン王フェリペ2世の娘でネーデルラント総督イサベル・クララ・エウヘニアのオステンデ包囲戦での逸話だったのが、(特に日本では)知名度の高いイザベル女王に代わったようである。どちらにしろ、当時の強国スペインをからかう一種のジョークとして定着したものだろう。