武士道

武士道(1) - 葉隠

かって武士にとって最も重要なことは勝つことだった。剣術も槍術も馬術も軍学も全てが勝つためであり、そのためなら武略という策略や嘘も正当化され*1、一時の恥辱や忍従も最後に勝てれば問題が無かった。武士とは、戦で勝つための努力をする人と定義しても良いだろう。

*1 「仏の嘘を方便と云い、武士の嘘は武略と云う」とか言われる。

ところが元和偃武により、発祥以来「戦う人」だった武士が戦うことを禁じられてしまった。つまり、勝つという唯一無二の目的が失われてしまったのである。そこで彼等は武士とは何かを問い直すことになり*2、自らの身を滅ぼしても、武士の面目、武士の意地を貫くことこそ武士の本領であると定義することになった。

*2 この課題に対する各々の答えが武士道である。

森鴎外が題材にした江戸初期の「阿部一族」事件では、ひたすら武士の意地を通して滅びていく阿部一族の姿が描かれており、そこには忠という概念は少ない。

阿部弥一右衛門と細川忠利の間の感情は個人的なもので、君臣間の忠と一般化できる性質のものではない。殉死という概念自体が、組織的な忠よりも個人間の信頼・愛情関係の発露であり、殉死をする人間はいずれも主君に愛され関係の深かった者達である。君臣間の忠なら、むしろ新当主に忠節を尽くすべきであろう。

阿部一族は殉死をしなかった弥一右衛門への中傷、阿部家に対する扱いの不当さに対して、武士の意地を張って討伐を受けることになり、新殿 光尚の恩顧を受けた者まで一族の意地の為に殉じている。その戦いには全く勝目はなく、かっての目的だった勝つという可能性は考慮されていない*3。

*3 江戸時代の最初期以前では、不満のある家臣は武装して退去することを選んだ。そこで討っ手が掛かっても逃げ延びれば勝ちである。

初期の仇討ちも多くが武士の面目の為で、死んだ者の恨みを晴らすというより*4、一族が死亡したのに対して加害者が生きていることは一族の体面、名誉に関わると考えるからである。「浄瑠璃坂の仇討ち」なども多くの者が、仇討ちの為に主家を捨てて相手を狙うわけで、そこには忠の要素はない。

*4 武士が死ぬのは仕方がないことであり、その怨恨を引きずるのは武士らしくないと考えられた。

徳川幕府は、武家の棟梁として、武士の面目、武士の意地を評価しながらも、それを野放しにすることは国家の安定、治安維持に害であると考えて儒学を導入し、中でも忠と孝を最も重要な徳目とした。

このため、江戸中期では、山本常朝の葉隠ですら忠と孝は強調されているが、その優先順位は「武士道に於いて決して後れを取らない事」*5の後になっており、特に武士の意地を重視している。

例えば、侮辱を受ければ仕留められるかを考えずに斬りかかるべきとしており、何か工夫をと引き下がり結局斬れなければ腰抜けだが、斬られるのは犬死、気違いであっても恥ではないと述べている*6。

*5 つまり、武士の面目・意地を最優先としている。
*6 もちろん、命を捨てて思い切り良くやれば(死狂い)、大概は成し遂げられるという前提だが。

そのため、葉隠では、同じ家中の「長崎喧嘩」を褒め、少し後の「赤穂浪士の討ち入り」については評価しながらも、すぐに仇討ちしなかったことを「図に当たらなければ犬死」と考える「上方風の打ち上がりたる(思い上がった)武(士)道」と批判している。

武士道(2) - 長崎喧嘩

長崎喧嘩は、江戸時代の幕吏、藩士、陪臣、町人、中間(武家奉公人)などの力関係が見て取れて興味深い。

深堀鍋島家*7の家来、深堀三右衛門、志波原武右衛門はいずれも鍋島藩の陪臣の下級武士であるが、たかが中間に泥が掛かったと文句を付けられたのである。これが葉隠の山本常朝なら、四の五の考えずに切り捨てるべきと述べるだろうが、既に老齢で穏便に生きたい彼等は一応謝っているらしいが、相手が中間だったため横柄だったか、あるいは中間が強請って断られたかで、中間の方に不満が残ったらしい。

*7 佐賀鍋島家の家老で、長崎に近い深堀の領主。長崎の警備などは深堀鍋島家が担当していた。

長崎会所頭取(元締)の高木彦右衛門は町人ながら富裕で町年寄であり、委託ながら長崎奉行配下の幕吏で苗字帯刀を許され将軍に拝謁すらしており、その威勢はかなりのもので、その中間ですら大威張りだったことが伺える。徒党を組んで深堀鍋島家の蔵屋敷に押し入り乱暴狼藉を働いても文句も言えないと高を括っていたのだろう。両人の大小刀を持ち去ったのは、口外を防ぐ意味かもしれない。

中間とその仲間風情に押しかけられて、何もできずに武士の魂とも言われる刀を奪われたとあっては、それだけで切腹ものである。これを知った高木彦右衛門も佐賀藩の長崎聞番*8 伊香賀利右衛門を通して、詫びを入れて穏便に済ませようとしている*9。

*8 鍋島本藩の長崎における連絡役。
*9 もっとも、武士にこれだけの侮辱を与えておいて、穏便に済ませられると考えるところが、町人ながら権力を持つ者の驕りとも言える。

しかし、深堀三右衛門の息子・嘉右衛門が強硬だったようだ。これは、父の恥辱の仇を取るというより、彼ら自身の武士の面目のためで*10、駆け付けた深堀鍋島家の家来10人と深堀、志波原の両当事者を加えて、高木屋敷に討ち入り、高木彦右衛門を打ち取った。深堀、志波原の両名は、討ち入りの後に切腹している。

*10 だから相手は恥辱を与えた中間たちでなく、その責任者の高木彦右衛門となる。

高木彦右衛門は委託ながら幕吏であり、鍋島家も関わっているため、事は長崎奉行で収まらず、江戸の幕閣に裁断を仰ぐことになった。裁定は武士側に好意的で、深堀鍋島家当主(鍋島官左衛門)や鍋島家はお咎め無しだったが、討ち入りした10人は切腹、高木側の深堀鍋島家に押し入った9人は斬首と関係者が全て死亡する結果となった*11。

深堀鍋島家の武士は、この行為により自分達が切腹となることは覚悟しており、深堀鍋島家さらには鍋島家全体に咎が及ぶ危険性も認識した上で決行しており、忠よりも武士の面目を重視していると言える*12。

*11 さらに高木家は家財没収・追放の処分を受けている。この部分が武家に有利な裁定といえる。
*12 深堀鍋島家の面目のためと、一応、忠らしい名分を立てているが、それなら主君の指示を仰ぐべきだろう。

これが、儒学的武士道を提唱した山鹿素行の教えを受けた大石内蔵助ら赤穂浪士の考えは少し違ってくる。

討ち入り自体は、亡き主君の恨みを晴らすというより、主君が死んで相手がお咎め無しで悠々と暮らしていては、「赤穂浅野家の面目」が立たないからだが、彼等はまず赤穂浅野家の再興を願っている。

仮に赤穂浅野家が減封の上で存続したり、浅野大学によるお家再興があった場合、大石内蔵助らは仇討ちを決行しただろうか?

その場合でも、「主君が死に、相手がのうのうと生きている」状況は変わらないため、仇討ちしてもおかしくはなく、山本常朝なら「やるべし」と答えるかもしれない。

しかし、お家が存続すれば主君は浅野大学になり、大石一行が仇討ちを行えば、主君・主家に害を及ぼし、彼等自身は先祖から受け継いだ俸禄を失うことになり不忠、不孝となるだろう*13。

江戸後期の仇討ちは、ほとんどが藩からの許可を得て、その意思を代行するものだったため、その行為は忠と見なされ、もちろん親の仇を討つことは孝であり、忠、孝の範囲に収まるものだった。

*13 既に赤穂浅野家が亡くなり、彼等の禄が失われていたからこそ、討ち入りは不忠、不孝ではない。大石たちは武士の面目より忠、孝を優先している。

武士道(3) - 滅びの美学

太平の武士は不自由なもので、何をしても身の破滅につながる。

侮辱を受けて刀を抜かないのは臆病、刀を抜いて相手を斬らないのは士道不覚、相手に斬られれば同じく不覚、相手を斬れば切腹か仇討ちの対象と、全て身の破滅と家の滅亡に繋がるのだ。

これを避けるには常に用心深く慎重に行動し、周りに気を遣い*14、侮辱を受ける機会を減らすしかない訳で*15、武士道的勇ましさと真逆の行動を取ることになるが、それも忠、孝のためと理由を付ければ気も休まるというものだろう。

*14 実は葉隠も冒頭の「武士道とは死ぬこと〜」が有名すぎるが、内容は「死身になれば、一生落度なく家職を仕果たす」と処世訓の面が強い。実際、山本常朝は60年間生きて、畳の上で死んでいるのである。
*15 町人相手なら斬り捨て御免といっても、何らかの処分を受ける可能性は高い。町人もそれを知っていて、度胸試しのチキンゲームを仕掛けることもある。

この江戸後期の武士の用心深さは、幕末に再び失われる。一つは、儒学を否定的に見る国学の流行であり、儒学的な忠、孝より大義を重んじ*16、そのためには、しばしば後先や命を考えずに行動することが持て囃された*17。

*16 「大義、親を滅する」で代表される。無論、忠が大義となることもあるが、国学的には武士の忠は主君が対象だが、大義は国家である。
*17 攘夷志士の攘夷や倒幕活動であるが、武士の意地を大義に置き換えた原初武士道の復活とも言える。面白いことに彼等の多くは正規の(用心深い)武士ではなく、郷士、足軽、農民、町人の出身だった。

しかし、その手の信奉者は幕末に亡くなり、生き残ったのは「勝つ」ことを目的の第一とする本来の武士的な人々であり、彼等は富国強兵を邁進した。

ところが、大正デモクラシーや大不況、あるいは軍縮条約で富国強兵に行き詰まると、再び、維新時の「後先や命を考えない行動」が息を吹き返し、昭和維新が叫ばれる。命を捨てての行動は、関東軍などにおいて政府の命令に反しても「失敗すれば腹を切れば良い」という行動に繋がり、武士の面目は、勝敗を度外視した開戦や「縄目の恥辱より死を選ぶ」ことを勧める戦陣訓に繋がる。

葉隠の「死ぬことと見つけたり」は「必死で行う心構え」であり、滅びを推奨している訳ではないが、「阿部一族」や「長崎喧嘩」では、単に本人の命だけでなく、主君も親や家族のことも考えず、武士の意地を貫いており、原初武士道は「滅びの美学」という面を否定できない。

太平洋戦争では戦況が悪化すると玉砕*18が推奨され、最後には、一億総玉砕という言葉まで生まれている*19。個人レベルでは滅びの美学も有ると思う。人は必ず死ぬのであり、その時を自分で決めていけないことはないだろう。死んだ人間は、思い出、記録、そして歴史にしか残らず、美しい*20、あるいは衝撃的な死は人々の心に残り易い。

*18 全滅を美化して言い換えたと言われるが、単なる言葉遊びではなく、本当に滅びの美学に沿った美しい行動と認識されてもいただろう。
*19 もちろん心構えとしてだが、実際に玉砕が続いている状況では、有り得ないとは言い切れない。
*20 死体は無残なもので、美しい死は無いと思うが、美しい行動による死と言うのはあるだろう。例えば、「塩狩峠」では、青年が自分の身を投げ出して列車の転覆を救っているが、これは美しい行動だろう。

しかし、それは個人の判断であり、他人に強制すべきではなく、ましてや組織や民族は永遠の生命を持っており、滅びの美学を適用すべきではない。特に、民族は一度消えれば復活することはないのだから、一億総玉砕などは狂気の沙汰と言われても仕方がない*21。

*21 「大和民族の潔さに世界は感銘を受けるだろう」などと言った人もいるが、世界はレミングのような狂気に陥って滅んだ謎の民族として精神病医学の研究対象にしただろう。

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