薔薇戦争とは何だったのか

薔薇戦争とは何だったのか(1) - ボフォート家

以前の薔薇戦争の記事では、王朝の継承関係を中心に説明したが、この一連の戦争の発端としては、幼少で即位し、後に精神障害を示したヘンリー6世の下で政治の主導権を争うイングランド貴族の勢力争いの面があり、今回はそれを中心に薔薇戦争の全貌を探ってみよう。

フランスとの百年戦争が劣勢となる中で、和平派と主戦派の対立が激しくなった。と言っても、そう大きな考えの隔たりがあったわけではなく、ヘンリー6世の能力や戦況、戦費負担の限界を鑑みると、フランスに対する完全勝利を目指すことは不可能であり講和は必要との認識は共通で、多くの領土を放棄してでも早期の講和を目指す者が和平派で、現在の領土を維持して有利な講和に持ち込みたい者を主戦派と言うに過ぎず、大部分の人々は特に定見はなかったのだが、ボフォート一族が和平派の中心*1だったため、党派抗争が持ち込まれてしまい、その対立が深刻化したのである*2。

*1 ヘンリー6世自身が和平を望んでおり、政権の中心にいたボフォート枢機卿はその職業柄からも和平を望む立場だった。
*2 派閥抗争の不味い点は、本来は目標は共通で手段についての意見が違っているだけのはずが、自派が主導権を握るために、協力をせず、時には妨害すら行うことにある。

当初の争いの中心はボフォート一族にあった。

ボフォート一族がグロスター公ハンフリーヨーク公リチャードなどの王族やリチャード・ネヴィルなどの有力貴族の反感を買ったのは、対フランス戦での方針の違いもさることながら、その微妙な立場から来るものである。

ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその愛人キャサリン・スウィンフォードとの間に生まれたジョン、ヘンリー、トーマスなどのボフォート兄弟は本来は庶子だったが、ジョン・オブ・ゴーントは後にキャサリンと結婚し、ボフォート兄弟を嫡子とするよう手配をしている。当時の国王リチャード2世はランカスター公の勢力を分断する良い機会とみて、嫡子として議会に認めさせ、ジョン・ボフォートをサマセット侯*3にするなど優遇した。

*3 イングランドで初めての侯爵である。王族格の公爵より下だが、通常の貴族の伯爵より上との配慮だろう。

そのため、1399年にヘンリー4世が王位を簒奪した際には、ボフォート家は微妙な立場で、サマセット侯位は伯に格下げされ、王位継承権が無いと決定されたが、その後は異母兄弟として重用され、ヘンリーはウィンチェスター司教(後に枢機卿)、トーマスはドーセット伯・エクセター公に叙任された。

このため、ボフォート一族は王家の嫡出でありながら王族とは見做されず、といって普通の庶子*4のように一介の貴族でもない中間の立場にあり、それがハンフリーやヨーク公などの王族を不安にさせ、貴族たちを嫉妬させたが*5、当のボフォート家にしてみれば、王族として扱われないという不満があった。

*4 庶子には決まった身分は無かったが、父親より1、2段低い身分が与えられることが多い。
*5 ジョン・ボフォートの娘ジョーンは長年イングランドに捕虜とされていたスコットランド王ジェームス1世の王妃になっており、王族に準じた扱いである。

ヘンリー4世の王位簒奪はイングランド情勢を不安定にし、リチャード2世の復位陰謀(主顕祭の陰謀)、ウェールズの反乱(オワイン・グリンドゥールの乱)、北部の反乱(ヘンリー・パーシーの乱)、エドマンド・モーティマ擁立の陰謀(サザンプトンの陰謀)*6などが発生しており、負け側に付いて処刑や所領を没収された一族の恨みなどが存在した。

ボフォート家には普通の王族のように親王領を与えるわけにはいかず、新たに領地を与えるとすれば没収された土地であり、元の所有者たちは王を恨むわけにはいかないため、代わりにそれを与えられた相手を恨むのである。

ヘンリー5世は、これらの様々な反感・不満や貴族の領土争いなどのエネルギーをフランスに向けることにより、イングランドのガス抜きを行った面があり、見事に成功し実質的にフランス王となったが、1422年に赤子のヘンリー6世を残して死去したため、再び不穏な情勢が復活することになった。

*6 マーチ伯エドマンド・モーティマはリチャード2世の推定相続人で、ヨーク公リチャードの父ケンブリッジ伯は姉婿として陰謀に参加して処刑されている。 エドマンド・モーティマが跡継ぎ無く死去するとリチャードがモーティマ家の財産と継承権を受け継ぎ、後に王位主張の正当化に用いた。

薔薇戦争とは何だったのか(2) - グロスター公ハンフリー

ヘンリー5世は死去する際に、フランスとイングランドをそれぞれ弟のベドフォード公ジョングロスター公ハンフリーに担当させたのだが、ジョンにはフランス摂政として全権を与えたのに対して、軽挙妄動が多かったハンフリーは護国卿にしたのみで、摂政権は有力貴族からなる摂政会議に委ねた。その主導権をヘンリー・ボフォート司教(後に枢機卿)*7が握ったことにより、ハンフリーは定常的な不満を持ち、その憤慨をボフォート一族に向けることになった。

*7 別に悪い人ではないと思うが、フス戦争の4次十字軍を指揮したり、ジャンヌ・ダルクの裁判に関わったり、悪役が多いようである。

イングランドでは実質、摂政会議の一員でしかなかったハンフリーは、ホラント・エノーなどの女領主であるジャクリーヌと結婚し、この地域を争っていたブルゴーニュ公と対立してベドフォード公を困らせており、ボフォート枢機卿らは1434年にまだ13歳だったヘンリー6世を摂政会議や議会に出席させ、ハンフリーの役割を失わせた。

ベドフォード公が存命中はイングランドは百年戦争の主導権を握っており、ハンフリーとボフォート家との対立も抑制されていたが、1435年にベドフォード公が死去すると歯止めが失われた。同年のアラスの和約はイングランドではブルゴーニュの裏切りと受け止められ、主戦派が主導権を握り、パリは失ったが、ブルゴーニュ公によるカレー攻撃はハンフリーの活躍で防ぎ、ベドフォード公の後釜としてフランス総司令官に任命された若きヨーク公リチャードは現場の隊長たちの支持を得てノルマンディの防衛に奮戦して評判を高めていた。

しかしボフォート枢機卿やサフォーク伯ウィリアム・ドラポールなどの政治担当者は、ブルゴーニュとの同盟を失ったフランスでの情勢や継続的に続く軍事費の負担は限界にきていることを知っており、フランスに対する勝利は不可能と考えて早期の和睦を望んでおり、1437年に成人して親政を始めたヘンリー6世もフランスとの和平を望んでいた*8。

*8 英仏百年戦争などと呼ぶと忘れがちだが、ヘンリー6世は半分フランス人で、シャルル7世は叔父なのだ。

一方、フランスでは1440年に王太子ルイ(11世)と有力貴族による「プラグリーの乱」が起き、イングランドとの講和の機運が起こるが、予想外に短期間で乱が鎮圧されたため、和平交渉は決裂した。

この後、イングランドにおける和平派と主戦派の抗争は激化した。和平派は遅れれば遅れるほど戦況は不利になると見て、フランス王位の放棄とノルマンディ、ギエンヌ以外の占領地を割譲してでも和睦を狙ったが、主戦派にすれば、それは英雄王ヘンリー5世の偉業を無にするものであり、現在の占領地と王位を維持し、ブルゴーニュのように実質的にフランスからの分離を条件とすべきと考えていた。

こうした方針の違いが、ハンフリーとボフォートの確執と結びつき、ヘンリー6世の指導力の無さにより、深刻な党派抗争となったのである。

1441年にハンフリーの妻エレノア*9が魔術を使用した疑いで逮捕されており、ハンフリーの政治力は大きく失われたが、事実がどうであれ、公爵夫人が摘発されたのは政治闘争が絡んでいることは疑いない。

*9 前妻ジャクリーヌの侍女だった女性で、元から素行に問題があったようだ。

さらに、和平派は、万が一、ハンフリーが王になることを避けるために、早急なヘンリー6世の結婚を望んでおり、フランスの王女や公女との婚姻をまとめることで和睦にもつなげたいと考えていた。

一方、フランスが南部のギエンヌで攻勢に出たため、ギエンヌへの援軍としてサマセット公ジョン・ボフォートが任命された。すでに南部のギエンヌと北部のノルマンディは分断されており、ギエンヌ方面軍がノルマンディに居たヨーク公リチャードの指揮下に入ることは現実的ではないとの判断から独立軍となったと思われるが、資金・兵員不足に悩まされていたヨーク公からすると貴重な資源を持っていかれ、さらにフランス総司令官の彼が実質的にノルマンディ方面司令官に格下げされたとの思いが、ボフォートへの憤慨となった。しかも、サマセット公は実質、何の成果も上げないまま1444年に死去してしまった*10。

*10 病死とされたが、遠征の成果が無いことを非難されての自殺の疑いもある。

サフォーク伯やボフォート枢機卿の和平派は、フランスとの婚姻の交渉を行ったが足元を見られており、アンジュー公ルネの娘マーガレットを持参金無しの上、アンジューとメーヌをフランスに引き渡す条件で、5年間の休戦を結んだ。不利な条件*11だったが、サマセット公の失策により立場が弱体化していた和平派は何としてもこの婚姻をまとめる必要があり、批判を恐れてアンジュー、メーヌの引き渡しを密約とした。

*11 持参財産として金や領土を持ってくるのが普通である。

ヨーク公リチャードとハンフリーなどの主戦派は憤慨したが、イングランドの大勢は休戦を歓迎しており、若き王妃を迎えることは久々に明るい話題だった。

しかし、休戦はフランス側に次なる攻勢への準備期間を与えたのに対して、イングランドでは政争を激しくする役割しか果たさなかった。

王妃マーガレットは気弱な王の心を掴み、当然ながら和平派を支持し、特に婚姻をまとめたサフォーク伯と親しく不倫を噂されるほどだった。

ヨーク公リチャードはアイルランドに転任となり*12、フランス総司令官には第二代サマセット公エドマンド・ボフォートが就任し、1447年にハンフリーが逮捕され死去した*13。同年にボフォート枢機卿が病死したため、サフォーク伯ドラポールの独擅場となった。

*12 左遷とは言えないが、対フランス戦やイングランドの政治の中心から引き離された閑職ではある。
*13 逮捕のショックによる病死とされるが、当時、噂されたように殺害された可能性もある。

薔薇戦争とは何だったのか(3) - ヨーク公リチャード

1449年に満を持したフランスが攻勢に出てくると、サマセット公エドマンドは満足に対応できずノルマンディ、ギエンヌのほとんどを失ったが、休戦破棄の口実がアンジュー、メーヌの引き渡しの不履行であったため密約が明らかになり、1450年に公に昇格したばかりのサフォーク公ドラポールは追放刑となり、その途上で怒ったケントの民衆に殺害された。

百年戦争などは所詮、王の戦争なのだが、税負担もあり、民衆は最近の敗戦と密約に激怒しており、同年6月に、ジャック・ケードの民衆反乱が発生した。乱自体は速やかに鎮圧されたが、8月にはノルマンディ最後の都市が陥落し、不満は高まるばかりだった。

この情勢にアイルランドに居たヨーク公リチャードは手勢を率いて9月にロンドンに入り、推定相続人の地位*14と改革を要求した。ロンドンでは民衆が暴動を起こし、サマセット公はロンドン塔に逃れ、議会ではヨーク派が議長となった。ヨーク公は平民院での支持は高かったが、大貴族の支持は多くはなく、いくつかの改革を約束させたものの、サマセット公の失脚は果たせなかった。

*14 1447年のハンフリーの死後、彼が王位の推定相続人のはずだが、そのような扱いを受けていなかった。

1451年6月には遂にボルドーが陥落して、フランス南部のギエンヌは全て失われた*15。1451年末に、王妃マーガレットはカレーに居たサマセット公を宮廷に呼び戻し、イングランド王軍司令官に任命させた。

*15 ギエンヌは300年間、イングランド王の領土だったため、ショックは一層大きかった。

これに憤慨したヨーク公は、1452年3月に寵臣の追放と自らの王位継承者の地位の確立を要求して挙兵したが、大貴族や民衆でこれに応じる者は少なく*16、王軍との睨み合いの中で妥協が成立し、ヨーク公は二度と武器をもって王に反抗しないことを公衆の前で誓わされて解放された。

さらに、1453年2月に8年間子がなかった王妃マーガレットの妊娠が発表され、同年10月にエドワード王太子が誕生し*17、ヨーク公の王位継承の目は失われた*18。

*16 民衆の蜂起を当てにして、大貴族に根回をしていなかったようで、 彼の妻の実家であるネヴィル一族やヨーク派だったノフォーク公ジョン・モーブレイですら、様子見をしていた。
*17 ヘンリー6世は正気を失ったままで、嫡男が誕生したことを理解できていなかったようだ。
*18 ただし、8年間子供ができず、庶子もいなかったため、精神障害のヘンリー6世は性的不能ではないかと憶測されており、本当に王の子かとの疑いはヨーク派を中心に当時からあった。

一方、1452年末にブルゴーニュの資金援助*19により、ボルドー奪回遠征軍がジョン・タルボット指揮下で派遣され、ボルドーを回復したが、1453年7月のカスティヨンの戦いでイングランド軍は完敗し、10月にボルドーは降伏した。敗戦の報を聞いたヘンリー6世は卒倒して、以降、心神喪失の状態が続いた。

*19 ブルゴーニュ公はフランスのあまりの快進撃に不安になったのである。

王妃マーガレットとサマセット公の政権は、王の意思を代行していることが建前であり、王の意思が完全に失われ、王太子が赤子である状況では、王族筆頭のヨーク公が摂政となるか、摂政会議が創設されるのが筋であり、ヨーク派は息を吹き返した。サマセット公はロンドン塔に幽閉され、1454年3月の議会で、ヨーク公は護国卿に任命され、ソルズベリー伯リチャード・ネヴィル*20が大法官となった。

*20 ネヴィルが完全なヨーク派になったのは、これ以降である。ヨーク公の妻セシルはソルズベリー伯の妹だが、ネヴィル一族は様々な貴族と婚姻関係があり、そもそもセシルとソルズベリー伯の母はジョーン・ボフォートである。

薔薇戦争とは何だったのか(4) - ネヴィル家

ヘンリー6世が正気を失ったのが悲劇であれば、1455年3月に意識を回復したのは災害だった。ヨーク公の護国卿政権はまずまずの安定を示していたのだが、意識を回復したヘンリー6世は王妃の助言で全てを正気を失う前に戻そうとしたのである。サマセット公は呼び戻され、ヨーク公とソルズベリー伯は解任された。

さらにヨーク公とソルズベリー伯及びその息子ウォーリック伯リチャード・ネヴィルなどを除いた大評議会が4月に開かれることになり、そこでの糾弾を恐れたヨーク公とネヴィル一族は兵を集めて大評議会の開催を阻止する行動に出た。ヨーク公の前回の武力行動と違うのは、ソルズベリー伯、ウォーリック伯などのネヴィルの与党が付いていることで、これによりサマセット公(ボフォート)、バッキンガム公(スタッフォード)、ノーサンバーランド伯(パーシー)、デボン伯(コートニー)などのランカスター派と対抗することが可能となった。

ネヴィル家は北部の中堅貴族だったが、14世紀末にラルフ・ネヴィルがウェストモーランド伯を与えられ、ヘンリー・パーシー(ホットスパー)の乱の後に北方に多くの領土を得て、パーシー家とはライバル関係になった*21。二番目の妻にヘンリー4世の異母妹であるジョーン・ボフォートを迎え、多くの子供に恵まれ、三男のリチャードは婚姻によりソルズベリー伯を継承し、娘たちはキャサリンがノフォーク公、、エレノアがノーサンバーランド伯、アンがバッキンガム公、そして末娘のセシルがヨーク公リチャードと結婚している。

さらにソルズベリー伯リチャードの長男リチャード(キングメーカー)が婚姻によりウォーリック伯を継承し、その他の多くの子供が領主や騎士、司教として活躍し、様々な貴族と姻戚関係を持ち、非常に強大な一族となっており、その総力と影響力*22はヨーク公を上回っているかもしれなかった。

*21 但し、ラルフの母はモード・パーシーで、ホットスパーの母はマーガレット・ネヴィルのように婚姻関係も密で、両家はライバルではあったが、仇敵となるのは1450年代以降である。
*22 但し、本家のウェストモーランド伯の系統は、分家であるソルズベリー伯の系統の繁栄を羨んでおり、後にランカスター派に廻るなど、必ずしも一枚板ではなかった。

1455年5月22日に双方はセント・オールバーンズで対峙し、交渉が行われた。ヨーク公の要求は拒否されたが、ランカスター派は王を抱いているため、1452年の前回同様に戦闘にはならないと高を括っていたのに対して、ヨーク派は攻撃を仕掛け、1時間弱の戦闘でランカスター派を敗走させ、サマセット公、ノーサンバーランド伯、クリフォード卿を戦死させ、バッキンガム公を捕虜とし、そしてヘンリー6世を確保する大戦果を収めた。

ヘンリー6世と共にロンドンに戻り、ヨーク公は再び護国卿となり、ネヴィル一族もそれぞれ重職につき、我が世の春かとも思われたが、あくまで君側の奸サマセット公を排除したという建前のため、1456年2月にヘンリー6世が健康を回復すると、忠実な臣下を演じたヨーク公は護国卿を返上して、王妃マーガレットの影響力が回復するのを眺めなければならず、8月に宮廷はランカスター勢力圏のコベントリーに移り、ヨーク派の影響力は減少した。

当初は貴族間の主導権争いだったが、片方の旗頭が王妃マーガレットとなりヘンリー6世とエドワード王太子を擁しているため、ヨーク公自身が王位に就かない限り、これに勝利することができないことが明らかになってきた。

一方、イングランドの治安は悪化しており、各地で貴族間の紛争が起こっていたが、ヨーク派とランカスター派の対立が絡むため公正な裁定を行えず、特に北部ではネヴィルとパーシーの争いは一触即発の状態に至っていた。

また、1457年8月にはピエール・ド・ブレゼ率いるフランス船隊がサンドイッチなどのイングランドの海岸部や商船を襲い、カレーの長官*23だったウォーリック伯がそれを撃退したが、民衆は改めて王妃マーガレットがフランス女であることを思い出し、対照的にウォーリック伯が人気を得ることになった。

*23 大陸の前線基地であるカレーには多くの守備兵が常備軍として配置されており、質の高い強力な戦力を有していた。

1458年3月24日にカンタベリー大司教により両派の和解が図られ、セント・ポール大聖堂で両派の主要メンバーが手を取り合って行進して、全ての遺恨を忘れ和解することを誓ったが、これに満足したのはヘンリー6世だけで、もはや茶番以外の何物でもなかった。

ウォーリック伯は、以前のフランス船隊による襲撃の報復として、イギリス海峡を通過するフランス船だけでなく、スペイン船やハンザ同盟のリューベックの船まで襲撃したため、1459年にロンドンに召喚されたが、王妃マーガレットの使用人に暗殺されそうになったと称してカレーに戻った。ヨーク公、ソルズベリー伯、ウォーリック伯はコベントリーの評議会に召喚されたが、逮捕を恐れて軍を招集し始めた。

1459年9月にソルズベリー伯とランカスター派が戦ったブロア・ヒースの戦いは、ソルズベリー伯の勝利でヨーク派の意気は上がり、ヨーク派はラドフォード橋でランカスター派と対峙したが、ここでウォーリック伯に連れてこられたカレーの守備隊*24がランカスター派に帰順したため、元々、数的に劣勢だったヨーク派は勝ち目がないとみて解散して、ヨーク公はアイルランドに、ネヴィル父子とマーチ伯エドワード(4世)はカレーに逃れた*25。

*24 隊長アンドリュー・トロロープにすれば、カレー長官の命令で来たものの、王を擁するランカスター派の方が正当と感じただろう
*25 置き去りになったヨーク公夫人セシルと子のジョージとリチャード(3世)は捕えられた。

1459年11月の「悪魔の議会」が薔薇戦争の性格の転機となった。これまでは、双方の和解が試みられ、負けた方が過度に処罰されることは無かったが、この議会ではヨーク公、マーチ伯、ソルズベリー伯、ウォーリック伯が私権剥奪・領地没収を宣告された。ヨーク派は戦って勝利を得るしか生き残る術がなくなり*26、この時点で王位簒奪を本気で狙うようになったと思われる。

*26 セント・オールバーンズで敗死したサマセット公などは跡継ぎが継承できたが、私権剥奪・領地没収されると、全てを永遠に失うことになる。

心神喪失の王、フランス人の王妃、腰巾着の取り巻きは好まれてはいなかったが、ヘンリー6世は神の恩寵を受けた正統な王であり、またフランス王の正当な権利を持っており、彼以外の王ではフランスへの要求の根拠は甚だ貧弱なものとなる。しかし、既に大陸回復は遠い夢になりつつあり、党派抗争と貴族間の紛争で混乱しているイングランドの現状を考えると、少なくとも無能ではないヨーク公が王位に就くことが望ましいと考える者が増えてきていた*27。また、オスマン帝国への十字軍を呼び掛けているローマ教皇庁もイングランドの内戦を好んでおらず、教皇特使コッピーニはヨーク公を支持することを表明していた。

*27 ジェームズ・バトラーがアイルランド総督、サマセット公がカレーの長官に任命されたが、アイルランドはヨーク公をカレーはウォーリック伯を支持して、受け入れを拒んでいた。

1460年6月にカレーにいたウォーリック伯はマーチ伯、ソルズベリー伯と共にサンドイッチに上陸し、ケントの住民の支持を受けながら歓迎されてロンドンに入った。7月のノーザンプトンの戦いでは、ランカスター派のグレイ卿エドマンド(後にケント伯)の寝返りにより、あっさりヨーク派が勝利し、バッキンガム公、シュルズベリー伯(タルボット)、エグレモント卿(トマス・パーシー)などは戦死し、ヘンリー6世は再び捕虜となった。

王妃マーガレットと幼い王太子エドワードは敗戦を知ると直ちに逃走し、ウェールズのハーレック城に行き、ランカスター派のオーウェン・チューダー*28と合流した。

*28 ヘンリー6世の母キャサリンと秘密結婚しており、息子のエドマンド・チューダーがサマセット公の娘マーガレット・ボフォートと結婚し、その息子が薔薇戦争の最終勝者ヘンリー7世である(チューダー - 逆玉の王朝 参照)。

薔薇戦争とは何だったのか(5) - 王妃マーガレット

しかし、この輝かしい勝利はヨーク派に微妙な亀裂を入れたようだ。

領袖であるヨーク公リチャードがいない場面で決着がついてしまったのだ。エクセター司教ジョージ・ネヴィルが大法官に任命され、財務長官など主要ポストは全てヨーク派に替えられ、ネヴィル一族の発言権は一層強くなり、同時にマーチ伯エドワード(4世)の立場も強化された。

元々、ネヴィル一族の力はヨーク公に勝るとも劣らず*29、この時点で、後にキング・メーカーと呼ばれたウォーリック伯は全ての駒を握っており、ヨーク公リチャードの代わりに従兄弟のエドワードをヨーク派の領袖に立てることも、言いなりの国王ヘンリー6世を操って自ら政権を担うことも可能で、無いのは自らの王位継承権だけなのだ。

*29 ヨーク公はウェールズ辺境に広大な領地を持つモーティマ家の財産を受け継いだが、親族が少ないため、他の大貴族への影響力は少ない。

実は早い時期からヨーク公リチャードの長子エドワードには、リチャードの実子ではないとの噂*30があった。マーチ伯を与えられたように公式には嫡男とされているが、ラドフォード橋の敗戦の後、ヨーク公リチャードと次男のラトランド伯エドマンドはアイルランドに引き上げているのに対して、エドワードは母の実家のネヴィル一族と行動を共にしている*31。

*30 エドワード4世は大男でヨーク公リチャードとは似ておらず、エドワードの出産が早産でなければ、受精の時期にはリチャードと妻セシルは離れた場所にいた。この疑いは、弟のジョージやリチャード(3世)も後に提起している。
*31 当主と跡継ぎが行動を共にしないのは軍事上の常識とも言えるが、ネヴィル父子は共に行動している。

ヨーク公リチャードがアイルランドを出発したのは、やっと9月になってからで、敵のランカスター派だけでなく、味方のヨーク派の動静も慎重に見極めていた(あるいは迷っていた)のだろう。

この時点で、ヨーク公は自ら王と成る意思を固めたようで、紋章を分家のものから王家のものに変えている。このままでは、仮にヘンリー6世が急死することがあれば、王妃マーガレットの後見下にあるエドワード王太子が王となり、状況は元に戻ってしまうことに加えて、ネヴィル一族にフリーハンドを与えないために決断したのだろう。

10月にヨーク公リチャードはロンドンに入り、議会の途中で王のように入場して玉座に手をかけた際に、沈黙をもって答えられた。ランカスター派の貴族は逮捕を恐れて出席していなかったため、ヨーク派の議員や貴族から、リチャードこそが玉座に相応しいとの声が上がることを期待したはずだが、自派の主要メンバーの合意を得ていない、ある意味、側近のみに相談したクーデターのようなものだったと思われる。

これに失敗し、ヨーク派の主要メンバーと相談した結果、エドワード3世の次男クレランス公ライオネルからのモーティマ家の継承権を主張し、ヘンリー6世の確定相続人に成ることを議会に請願して認められ、自分の意思を持たないヘンリー6世は、これに同意したとされる。

ウェールズに居た王妃マーガレットは、このエドワード王太子を継承から除く決定に猛烈に反発して、ランカスター派の諸侯を北部のヨークに集結させ、自らはスコットランドに入って、幼いジェームズ3世の母で摂政のメアリ*32に援助を要請した。

*32 ブルゴーニュ公フィリップ善良公の大姪で、ブルゴーニュの意図でスコットランド王ジェームズ2世と結婚している。王妃マーガレットと似た境遇とも言える。

再度、護国卿になったヨーク公リチャードは、11月にソルズベリー伯と次男のラトランド伯エドマンドを連れて北部に出発し、長男のマーチ伯エドワードはウェールズで募兵し、ウォーリック伯とノフォーク公(モーブレイ)はロンドンに居た。

ヨーク公はサンダール城に入り、ランカスター派のサマセット公、ノーサンバーランド伯、クリフォード卿*33の軍と対峙した。

*33 セント・オールバーンズで戦死したメンバーの跡継ぎで復讐を望んでいた。

12月30日のウェイクフィールドの戦いは、簡単に言うと、少数だったヨーク軍が何故かエドワードなどの後続軍を待たずにサンダール城を出て、優勢なランカスター軍に壊滅させられたもので、城を出た理由として、ウェストモーランド伯の系統のジョン・ネヴィルを味方と誤解した(欺かれた)、計略で誘き出された、ランカスター軍の数を過小評価していたなどが推測されているが、それ以上に疑問なのが、もはや実質的にイングランド王だったリチャードが後続を待たずに戦闘に及んだことで*34、これまでの戦いで活躍していないリチャードが戦功を焦ったように思える。

*34 前回の勝利で主導権を握ったのはヨーク派であり、慎重に事を構える余裕はあったはずである。

ヨーク公リチャード、ソルズベリー伯、ラトランド伯エドマンドの他、多くのヨーク派が戦死し、3人の首級はヨーク市の城壁に掲げられ*35、リチャードの頭には侮蔑的に紙の王冠が被せられた。

*35 シェイクスピアの劇と違い、ヨーク公リチャードやソルズベリー伯は戦死だが、その後、犯罪者のごとく首を晒されたため、処刑と同様に受け止められたのだろう。

しかし、ヨーク派は領袖を失った割には大きな動揺はなかったようだ。むろん衝撃はあっただろうが、脱走や離反が相次ぐということもなく、新たな領袖となったウェールズ辺境にいた18歳のマーチ伯エドワードとロンドンにいた33歳のウォーリック伯を中心に来るべき戦いに備えており、情勢が互角に戻った程度のようだ*36。

*36 ウォーリック伯は以前から中心人物だったが、18歳のエドワードが軍をまとめられたのは、体格が良く、頼りがいがあると見做されていたからだろう。同時にヨーク公リチャードの存在がそれほど大きくなかったことを示唆しているようでもある。

ウェイクフィールドの勝利はランカスター派にとっても予想外だったろう。その当時、王妃マーガレットはスコットランドで傭兵を募っていたのだが、イングランド貴族のみで勝ってしまったのである。スコットランドや辺境の野蛮人と共闘することに、イングランド貴族は乗り気ではなかったが*36、多大な戦力を残しているヨーク派と決戦するには、少しでも自軍が多い方が良いし、フランス人の王妃からすれば、イングランド人もスコットランド人も似たようなものであり、自らのイニシアティブで動かせる軍が欲しかったことは仕方ないことである*37。しかし、傭兵には略奪をもって支払いに当てたため、民衆の恨みを買うことになった。

*36 パーシー、クリフォードなどの北方の貴族は、これまではスコットランドの侵入を防ぐ立場だったのだ。
*37 イニシアティブを取れなければ、ランカスター派が勝利しても、王妃と王太子は単なる駒になってしまう。

ランカスター軍は南下を始め、ウェールズで兵を集めたペンブルック伯ジャスパー・チューダーとウィルトシャー伯ジェームス・バトラーが本隊に合流しようとしたのを、同じくウェールズにいた新ヨーク公エドワードが2月にモーティマ・クロスで破った。オーウェン・チューダーなどを捕虜としたが、ウェイクフィールドの報復として全員が処刑され、以降、戦いごとに処刑合戦が続くことになる。

一方、ランカスター軍本隊は、ロンドンから出撃したウォーリック伯に第二次セント・オルバーンズの戦いで打ち勝ち、ウォーリック伯は撤退した。

戦いの後、ヘンリー6世は木の下に置き去りにされており、2人の騎士が警護していた。王妃マーガレットがこの2人の騎士をどうすべきか7歳の王太子に聞くと、「首を切れ」と答えたという逸話が有名だ*38。

*38 王妃と王太子が残酷であることを示す逸話として知られているが、一説では王妃は2人の騎士をどう処刑すべきか聞いたとも言われ、これだと反逆者としての絞首刑や四つ裂きと比べて、騎士として名誉ある処刑を与えたことになる。まあ、そもそも、子供に聞くなという話だが・・・

ランカスター軍はヘンリー6世を連れてロンドンに迫ったが、略奪を恐れたロンドン市は門を閉ざし*39、ヨーク公エドワードとウォーリック伯の軍が合流して向かってくることを知り、北方に引き上げた。

*39 結果的にスコットランド傭兵を使ったのは悪手だった。多くはヨークに戻った後に帰郷してしまい、タウトンの戦いには参加していない。

薔薇戦争とは何だったのか(6) - エドワード4世

ヨーク公エドワードとウォーリック伯は、ランカスター派の攻撃を恐れた市民に歓迎されてロンドンに入り、それに乗じて一か八かの賭けにでた。ランカスター派に合流したヘンリー6世がヨーク公を確定相続人にする約束を破った*40と非難して、ヨーク公がエドワード4世として即位することを宣言し、民衆に支持を求めたのである。

*40 こうしてみるとヘンリー6世を置き去りにしたのは意図的かも知れない。

1461年3月29日のタウトンの戦いは「関ヶ原」に例えても良いだろう。2人の王が立った以上、完全な決着が必要なことを両派とも理解しており、最大限の兵を集めての決戦だった*41。

*41 薔薇戦争だけでなくイングランドにおける史上最大の会戦である。スコットランドやフランスといった外敵がいるため、内戦の長期化はどちらも望んでいなかった。

しかし関ヶ原と同様にヨーク派には総大将エドワード4世(徳川家康)が居たのに対して、ランカスター派は王、王妃(淀君)、王太子(秀頼)はヨークに残っており、指揮を執ったのはサマセット公(石田三成)だった。

ランカスター派の主要メンバーはサマセット公、エクセター公、ノーサンバーランド伯などで、クリフォード卿は前哨戦で既に戦死していた。ヨーク派はエドワード4世、ウォーリック伯、フォーコンベルグ卿(ウィリアム・ネヴィル)でノフォーク公(モーブレイ)が戦場に着いておらず、数的に劣勢だった。

これまでの薔薇戦争の戦闘はいずれも、寝返りや奇襲などにより短時間で決着がついているが、今回は正に双方死力を尽くした激戦だった。3時間に亘り一進一退の激しい攻防が繰り広げられたが、数で優るランカスター派が押し始めたところで、ノフォーク公の部隊が到着して形成は逆転した。ランカスター派も必死の抵抗を続けたが、最終的にヨーク派の勝利に終わり、戦闘は掃討戦も含めて10時間にも及んだようだ。

ランカスター派は大損害を受け、敗報を聞いたヘンリー6世一家はスコットランドに逃亡し、生き残ったサマセット公、エクセター公などもそれに続いた。エドワード4世は唯一の王としてロンドンで戴冠し、ランカスター派に帰順を呼び掛け、応じない者は私権剥奪・領土没収とした。

ヘンリー6世は、ほとんど呆けてしまったが、王妃マーガレットは1462年にフランスに行き、ルイ11世に支援を求めた。ルイ11世の母はアンジュー公ルネの妹のため、マーガレットは従姉妹なのだが、世界の蜘蛛と仇名されたルイ11世は、そういう情は全く持っていなかった。しかし、フランス王としてはイングランドの内戦が長引いた方が良く、兵数百人程度*42ではあるが、援助を与えた。

*42 内戦では、元手となる兵力があれば、募兵しだいで大兵力にすることは可能であり、後のヘンリー(7世)・チューダーもフランスを出た時は少数だった。

王妃マーガレットはピエール・ド・ブレゼを隊長として雇い、エドワード4世に帰順していたオックスフォード伯(デ・ビア)に連絡を取り、上陸に呼応するよう要請したが、露見してオックスフォード伯父子は処刑された*43。やむなく王妃は北部に上陸し、パーシーの居城だったアルンウィックなど幾つかの城を手に入れてランカスター派を招集したが、反応は芳しくなく、船は嵐により難破して失われた。

*43 オックスフォード伯が挙兵に同意していたかは明らかでなく、処刑は過剰な対応だったかもしれない。次男が跡を継ぐことを許されたが、恨みは後のボスワースの戦いまで残った。

ウォーリック伯らの討伐軍が城を包囲し、スコットランドではアンガス伯ジョージ・ダグラスがピエール・ド・ブレゼと共に救援に向かったが、その前に城は降伏し、サマセット公を始めとしたランカスター派の残党は投降して、12月で北部の抵抗はいったん終結した。

エドワード4世は王として早急に対立を終結させ国の統一を計る必要があり、かつ、ネヴィル一族が強力すぎるため、バランスと成りうる貴族が必要で、サマセット公(ボフォート)やノーサンバーランド伯(パーシー)などを赦して配下に加えたい思いがあった。しかし、1463年5月にウォーリック伯が北部から戻ると、サー・ラルフ・パーシーなど帰順していたランカスター派の貴族は再びスコットランドの支援を得て叛旗を翻した。

王妃マーガレットは1463年8月に息子のエドワードやエクセター公(ホランド)と共にフランスに渡り、再び支援を求めたが、フランスではエドワード4世の王位を認めるのが得策との考えが強まっており、支援が得られないままマーガレットは小規模の宮廷を開いて、そのまま亡命生活を送ることになった。

サマセット公はエドワード4世に厚遇されていたが、ヨーク派からの反発は激しく、ノーザンプトンで民衆に襲われた後にウェールズに追放となり*44、12月には北部に逃亡してランカスター派に復帰した。

*44 サマセット公の身の保護とほとぼりを冷ます目的だったと思われるが、サマセット公の処遇・利用価値の再考にも繋がっているため、不安に成らざるを得ないだろう。

ランカスター派はイングランドとスコットランドの和睦を阻止するために最後の抵抗を示し、スコットランド使節を護衛するモンタギュー卿ジョン・ネヴィル*45を襲ったが、1464年4月にヘッジレイ・ムーアの戦いでは、戦い始めてすぐに総崩れとなり、唯一抗戦したサー・ラルフ・パーシーは戦死した。ランカスター派の残党は各地で募兵したが、1464年5月にヘクサムで、モンタギュー卿の討伐軍に襲われると一瞬にして潰走し、捕えられたサマセット公やルース卿は処刑され、ランカスター派は壊滅した。その後、ヘンリー6世は北部を流浪していたが、1465年夏に捕えられ、ロンドン塔に幽閉された。

*45 ウォーリック伯の弟で、戦功によりノーサンバーランド伯を与えられるが、パーシーの帰順の後にモンタギュー侯に取り換えられたため不満を持つことになる。

ネヴィル一族はパーシーやクリフォードの旧領を与えられ、功績のあったモンタギュー卿はノーサンバーランド伯を与えられた。

薔薇戦争とは何だったのか(7) - キング・メーカー

ヨーク派の勝利により、イングランドには王は一人だけになったが、それが誰かが問題だった。エドワード4世の貴族のパワーバランス策は成功せず、ランカスター派はほとんどネヴィル一族だけで壊滅された。

ウォーリック伯リチャード・ネヴィルから見ると、エドワード4世は若干20歳のネヴィルの一族であり、称号以外はあらゆる面で、彼こそがイングランドの実際の支配者だった。誰もが思っていることであり、外交も内政も独断で行い、エドワード4世へは事後承諾に近かった*46。

*46 ジョン・ネヴィルがサマセット公などを処刑した時も事後承諾だろう。一度赦されて背いたサマセット公は処刑が妥当だろうが、これほどの実力者の場合は王の許可が必要である。

フランスとの和平もエドワード4世の結婚も自身の思惑で進めていた*47のに対して、1464年5月にエドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルを結婚相手に選んだのは、半分は感情的な問題だろうが*48、王としてウォーリック伯の専断には釘を刺さなければならず、その一環だったことも間違いない。

*47 ルイ11世の王妃の妹(サボア公の娘)で交渉していた。
*48 所謂、女好きで多くの女性と関係し庶子も多かった。その性癖が孫のヘンリー8世に遺伝したのかもしれない。

外国の王女との結婚は、その国との同盟関係や継承権を考慮しなければならず、現時点で明確な方針を決められなかったし*49、国内の大貴族の場合、ネヴィルとのバランスには成りうるが、両者の激しい対立を生むかもしれず、また彼らがネヴィルと同盟すれば、手を出せないほど強力になってしまう。

*49 例えば、フランスの王公女との結婚ならフランスとの和平が前提だが、百年戦争を再開する選択肢もありえる。

ウッドヴィル家は成り上がりで、ベドフォード公ジョンに仕える執事だったが、ジョンの死後、その夫人だったジャケッタ・ルクセンブルクと結婚し*50、ランカスター派に属してリヴァーズ卿に任じられていたが、タウトンの戦いの後にヨーク派に帰順していた。その長女のエリザベスは一度、結婚している未亡人で、とても王妃に相応しい人物とは思われていなかった。

*50 当然、スキャンダルとなった。ウッドヴィル家が嫌われたのは単に成り上がりというだけでなく、その経緯も問題だった。

しかし、ウッドヴィル家程度なら自由に扱えるし、兄弟も多く使い勝手が良かったのだろう。王の威光により、ウッドヴィルの数多い(少なくとも13人)兄弟姉妹は良い結婚をして急速に勢力を拡大したが、中でも若干19歳のジョンと65歳の前ノフォーク公夫人キャサリン・ネヴィルとの婚姻は目を引いた*51。

*51 キャサリン・ネヴィルはエドワード4世やウォーリック伯の叔母に当たる。財産や影響力目当での年齢の離れた結婚は珍しくないが、少なくともウォーリック伯は、これを侮辱と受け止めた。

1466年春には、エドワード4世は妹のマーガレットとブルゴーニュ公の跡継ぎシャルル(突進公)の縁談をまとめるが、ウォーリック伯はフランスとの交渉をやらされていた*52。さらに1467年6月に弟のヨーク大司教ジョージが大法官を解任され*53、王弟クラレンス公ジョージと娘イザベルとの結婚は拒否された*54。

*52 ウォーリック伯は親フランスと見られており、フランスの干渉を防ぐためだが、当て馬をやらされたことになる。
*53 かなり露骨な扱いであり、豪胆なエドワード4世は、ウォーリック伯が我慢するなら良し、反乱するならやってみろという気概だったろう。
*54 本来、王が弟の結婚をウォーリック伯に持ち掛けるのが筋で、エドワード4世が警戒するのは当然だろう。

1467年秋にウォーリック伯は宮廷への出仕をやめて引き籠ってしまったが、両者の関係改善の努力がなされ、1468年には表面的には和解した。しかし、ウォーリック伯はエドワード4世と比べると策士で、十分な計画と準備をしており、1469年7月にクラレンス公と娘イザベラの結婚に関する特免をローマ教皇から得ると、配下の騎士にロビンの偽名を名乗らせ*55、小規模な民衆反乱を起こさせた。

*55 民衆の味方ロビン・フッドを気取らせたのだろう。

エドワード4世がリヴァーズ伯リチャード・ウッドヴィルなどの少数の側近を連れて鎮圧に向かったところを、カレーにいたウォーリック伯とクラレンス公がケントに上陸し、ウッドヴィル等の奸臣の排除を訴えて人数を集めながらノッティンガムに向かった。王軍にはペンブルック伯(ハーバート)とデボン伯(スタッフォード)*56が加わって、エジコート・ムーアでロビンの反乱軍と戦ったが、ペンブルック伯とデボン伯の連携が悪く、戦いが長引き、ウォーリック伯の先遣隊が到着して、王軍は総崩れとなった。ペンブルック伯、デボン伯、リヴァーズ伯、ジョン・ウッドヴィルが捕えられて処刑され、エドワード4世はヨーク大司教により幽閉された。

*56 共にランカスター派のジャスパー・チューダーやコートニーに代わって、新たに叙任されていた。

しかし、前例と言える、エドワード2世、リチャード2世、ヘンリー6世と比較するとエドワード4世の人気は高く、クラレンス公が流したエドワード4世がヨーク公の実子ではないという噂も説得力を持たず、正統な王を幽閉して専断するウォーリック伯への批判は高まり*57、これに乗じてランカスター派が各地で蠢動する情勢の中で、10月にはエドワード4世は解放された*58。

*57 反乱を支持した者には、ウッドヴィルへの反感による者が多く、既にリヴァーズ伯が処刑されており目的は達したと見ていた。
*58 あるいは自力で脱出したとも言うが、いずれにしろエドワード4世の支持者が増加したことによる。

表面的には両者は再び和解したが、エドワード4世はウッドヴィル一族の名誉を回復して側近として呼び戻し、今やウォーリック伯が政権から遠ざけられたのは明らかだった。

1470年3月にリンカンシャーで地元の貴族同士の紛争が起きたが、ウォーリック伯はその一方のウィロビー卿*59に反乱を勧め、王が鎮圧に出かける際に、彼とクラレンス公が反乱鎮圧と称して兵を集めて、エドワード4世を挟撃する計画を立てた。

*59 旧ランカスター派のため、不利な裁定を受けたと感じていた。

しかし、この企ては露見し、エドワード4世はルースフィールドでウィロビー卿の反乱軍を速やかに攻撃し、元々、地元民衆の寄せ集めだった反乱軍は瞬時に瓦解し、ウィロビー卿父子は処刑された。

事の失敗を見て、ウォーリック伯とクラレンス公はカレーに逃げようとしたが、カレーの守備隊長は彼らを入れず、やむなくフランスに亡命することになった。

エドワード4世はウォーリック伯逃亡の後に、パーシーをノーサンバーランド伯に復帰させ、ジョン・ネヴィルには代わりにモンタギュー侯を与えた。

*60 ウォーリック伯の没落の後だけに、この程度の代償で我慢すると思っていたようだ。

薔薇戦争とは何だったのか(8) - ヘンリー6世の復位

ウォーリック伯とクラレンス公はルイ11世に援助を求めた。エドワード4世とブルゴーニュ公シャルル突進公の姻戚関係を快く思っていなかったルイ11世は承諾したが、前王妃マーガレットが率いるランカスター派との共闘を条件とした。

王妃マーガレットとウォーリック伯は正に仇敵同士だったが、独力では為す術のないマーガレットには選択肢が無いことは明らかだった。一方、ウォーリック伯にとっては難しいところで、ランカスター派は戦力としては既に無に等しく、むしろウォーリック伯に付くかもしれないヨーク派を遠ざける可能性があり、ヘンリー6世が復位した所で正に呉越同舟で、その後の主導権争いは、結局、薔薇戦争の初期の状態に戻ってしまうのである。

しかし、フランスの援助は必要であり、また王位継承権のないウォーリック伯は誰かを担ぐしかなく、クラレンス公では兄のエドワード4世に対して分が悪いことは明白だった。エドワード王太子も既に17歳になっており*61、次女のアンと結婚させて、2枚のカードを持てることに満足するしかなかった。

*61 まともな人間なら、そろそろ母の影響力から離れる年である。

道化となったのはクラレンス公で、これらの取り決めは心外だったろうが、現時点では彼には選択肢はなく、エドワード王太子の次の王位継承権で了承するしかなかった。

1470年9月にウォーリック伯、クラレンス公、ジャスパー・チューダー、オックスフォード伯(デビア)、ケント伯(トマス・ネヴィル)*62などがイングランドに向かった。エドワード王太子は参戦を望んだが、ウォーリック伯を信用できない王妃の手元で待機となった*63。

*62 称号はいずれも前が付くが、目まぐるしく状況が変わるため省略する。
*63 万が一、王太子を失ったらとの気持ちは分かるが、後の主導権を考えれば陣頭に立つ方が望ましい。完全に淀君と秀頼状態になってしまっている。

エドワード4世は、北方で大兵力を擁していたモンタギュー侯ジョン・ネヴィルが味方に留まると思っていたようだが、兄ウォーリック伯に呼応したため、軍を解散して弟のグロスター公リチャード(3世)や側近だけを連れて船でブルゴーニュ公領のホランドに逃げ*64、ウォーリック伯達はほとんど無血でロンドンに入って、ロンドン塔にいたヘンリー6世を再び王位に戻した。

*64 このエドワード4世の逃げ足の速さや、モンタギュー侯の心理が理解できないところなど、朝倉攻め時の織田信長に似ているなと思う。

ブルゴーニュ公シャルル突進公は当初は慎重だった。エドワード4世の妹マーガレットとの結婚はイングランドとの同盟であり、ヨーク派だろうがランカスター派だろうが、イングランドと友好関係を維持したいのである。しかし、フランスの支援を受けたウォーリック伯と王妃マーガレットがフランスと同盟する姿勢を見せ、ルイ11世がブルゴーニュ領に侵攻したため、エドワード4世への支援を決断したようである。

ブルゴーニュの支援を受け、1471年3月14日にエドワード4世はイングランドに上陸した。少人数であり、当初は王位ではなく、ヨーク公としての権利を取り返す目的だと述べて*65、行軍し募兵を始めた。

*65 かってヘンリー4世も、ランカスター公領の回復が目的と称して上陸し、リチャード2世から王位を簒奪している。

これに対して、ランカスター・ネヴィル連合は、統率のとれない欠点をさらけ出した。北方では、モンタギュー侯ジョン・ネヴィルが募兵していたが、ノーサンバーランド伯に復帰していたパーシーが協力的でないため集まらず、エクセター公とオックスフォード伯は軍を率いて来たが、エドワード4世の進軍を見ているだけだった。こうしてランカスター派が手をこまねいていたため、ヨーク派はヘスティング卿を加えて膨らみ、ロンドンから進撃したウォーリック伯が接近した頃には数で上回っていたため、ウォーリック伯はコベントリーに入って娘婿であるクラレンス公の援軍を待たねばならなかった。

しかし、クラレンス公にはエドワード4世の手も伸びており、弟のグロスター公の説得により兄の元に復帰した。十分な数を得たエドワード4世は王位に復帰することを宣言して、ウォーリック伯を無視してロンドンに進撃した。ロンドンは歓迎ムードで、留守を預かったサマセット公は防衛を諦めて退去しており(王妃マーガレットと王太子エドワードを迎えに行っていたとも)、すんなりと入城できた。

統一行動の取れなかったランカスター・ネヴィル連合は、ようやくウォーリック伯、モンタギュー侯、そしてランカスター派のエクセター公やオックスフォード伯が集結したが、未だ王妃マーガレットと王太子エドワードはイングランドに到着していなかった。

王妃マーガレットはウォーリック伯を信用しておらず、情勢が明確になるまでフランスで待機しており、エドワード4世がイングランドに向かったのを知り、ルイ11世にも催促されて、ようやく腰を上げたが、天候が不順で、イングランドに到着したのはバーネットの戦いの後だった。

4月14日のバーネットの戦いはランカスター・ネヴィル連合軍が数で上回っていたが、仇敵の混じる混成軍の悲しさで、霧の中、オックスフォード伯とモンタギュー侯の軍が同士討ちを始め*66、「裏切り者」の叫びが全軍に伝わり総崩れとなった*67。混乱の中でモンタギュー侯は戦死し、ウォーリック伯も逃げようとしたが殺され、オックスフォード伯はフランスに逃亡し、エクセター公は戦死したと思われたが、その後、息を吹き返し、捕えられて幽閉された。

*66 当初は敵と誤認したからだが、相手が味方と気づいた後も止められなかったようだ。
*67 元々、誰かが裏切るのではないかと疑心暗鬼だったため、簡単に信じたのだろう。

マーガレットはバーネットの敗戦を聞いてフランスに戻ろうと思ったが、サマセット公などのランカスター派はここで引き下がる訳にはいかず、まだ勝ち目はあった*68。元々、信用できないウォーリック伯がいない方がランカスター派は統一した行動を取り易く、かつバーネットの敗戦の残党は王太子の旗の下に集まるだろうし、ジャスパー・チューダーもウェールズで募兵していた。何より17歳になっていたエドワード王太子自身が戦いを希望したため、王妃もやむなく同意した。

*68 急激な政変が続いているため、誰もがどちらに付くか迷っており、王太子の旗を立てれば互角には戦えるだろう。

ランカスター軍は時間を稼ぐために、偽りの方向に先遣将校や先遣部隊を派遣してエドワード4世を惑わせ、ロンドンに向かうのかブリストルから海岸に向かうのか、動向をできるだけ不明にしながら、ジャスパー・チューダーの軍との合流を目指してウェールズに向かったが、グロスターを過ぎたテュークスベリーでヨーク軍に追いつかれた。

ランカスター軍は連日の行軍で疲労しており、既に戦意は低かった*69。サマセット公、ウェンロック卿とエドワード王太子、デボン伯の部隊に分かれていたが、ここでも指揮官の相互不信*70と総指揮官のいない欠点を露呈した。既に17歳とは言え*71、母の下で温室育ちの王太子は兵を指揮したことも実戦経験もなく、飾りに過ぎなかった。

*69 疲れているのは追いかけたヨーク軍も同じであるが、心理的な差があるだろう。
*70 特にウェンロック卿は何度か陣営を変えており、あまり信用されていなかった。
*71 当時は15歳で成人で、エドワード4世がモーティマ・クロスで勝利したのは18歳だった。

自らの力で勝利を導くしかないと考えたサマセット公は森を通ってグロスター公の陣への奇襲を試みたが、これが読まれており、グロスター公とエドワード4世から両面攻撃を受けてしまったが、この間、ウェンロック卿は動かなかった。やがてサマセット部隊は潰走し、一説ではサマセット公はウェンロック卿の陣に来て怒りをぶつけ、切り殺したとされる。こうして緒戦のみでランカスター軍は総崩れになってしまい、「本来の薔薇戦争」の最後を飾る5月4日のテュークスベリーの戦いは短時間で決着してしまった。

サマセット公とエドワード王太子は捕えられ処刑され、近くの修道尼院に居た王妃マーガレットも降伏して幽閉され、エドワード4世がロンドンに凱旋した後、幽閉されていたヘンリー6世も「悲嘆のあまり死去した」と発表された*72。

*72 当然、殺害されたのだろう。これまではヘンリー6世を殺害するとエドワード王太子が王を名乗るため、藪蛇となる可能性があった。

本来、これで薔薇戦争は終了だが、王弟グロスター公リチャードのせいで、もう少しだけ続くのである。

薔薇戦争とは何だったのか(9) - リチャード3世

エドワード4世は軍事的には優れていたが、優秀な王とは言えなかった。人の心理を理解しないか軽視するところがあり、それがウォーリック伯の反乱を招き、リチャード3世の簒奪を招いたと言える。

怠惰で好色と評されており、父ヨーク公リチャードの敗死やウォーリック伯の反乱など危機に追い込まれると力を発揮するのだが、それ以外は快楽に耽る怠け者だった。

軍事が長所なら、もう少し力を入れれば良かったが、1475年のフランス侵攻はピキーニ条約を結んであっさりと撤退して、同盟者のブルゴーニュ公を見捨ててフランスの覇権を許してしまい*73、スコットランドへの対応は王弟グロスター公リチャードに任せ切りで大きな権力を与えてしまっている*74。

*73 この条約だけを見れば、無駄な戦費を節約し、高額の年金を受け取って、王家の財政は非常に楽になったのだが、ブルゴーニュ公国の滅亡を招き、将来の領土回復の望みを失ってしまった。
*74 グロスター公は、エドワード王太子妃だったウォーリック伯の次女アンと結婚して、ネヴィルの北方の領地を受け継いでいた。

それでも、死去する1483年までは大過なく、イングランドはまずまず繁栄していたが、晩年は不摂生や大酒により健康を害して41歳で死去したため12歳のエドワード5世が残され、歴史は正に繰り返されることになった。

幼君(エドワード5世)、評判の悪い母(エリザベス・ウッドヴィル)、腰巾着の取り巻き(ウッドヴィル一族、グレイ兄弟)に対する王位継承権を持つ有力な王族(グロスター公リチャード)*75と薔薇戦争開始時の状況を再現してしまっている。

*75 不穏な行動の多かったクラレンス公ジョージは、1478年に処刑されている。本人の希望でワイン樽で溺死したと伝えられている。

人の心に疎いエドワード4世は、グロスター公を護国卿として権威を与えることで余計な争いを避けようとしたと思われるが*76、終始、自分に忠実だったグロスター公が甥に取って代わることまで予測できず、また、腹心だったヘィスティング卿が自分の構想に背くほどウッドヴィル一族を嫌っていたことにも気づかなかったのだろう。

*76 ウッドヴィル一族は王母エリザベスを通じて力を持つため、グロスター公を護国卿にすることでバランスを取ったと思われる。

グロスター公は護国卿として政権を担える立場にあり、早急にウッドヴィル一族を排除する必然性はなく*77、むしろ、ウッドヴィル一族がエドワード5世を担いでグロスター公を排除する陰謀を企てたが、ヘィスティング卿がリチャードに味方したため、先制された可能性がある。しかし、グロスター公は早い時期からウッドヴィル一族の排除方法を考えて、重婚の主張を検討していた可能性もあり、そうであれば、エドワード5世が正式に戴冠する前にクーデターを起こした方が良いことになる。いずれにしろ、再び薔薇戦争を最初から繰り返すより、一息に決めた方が良いとの考えは両陣営にあっただろう。

*77 少なくともエドワード5世が成人するまでは、護国卿が政権を担当できる。

叔父のリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルの下で育てられたエドワード5世は、戴冠のためにリヴァーズ伯と異父兄のリチャード・グレイを伴いロンドンに向かったが、その途上、4月29日に叔父のグロスター公とバッキンガム公(スタッフォード)が訪れて2人を逮捕し(後に処刑)、エドワード5世をロンドン塔に幽閉した*78。

*78 戴冠時にロンドン塔に入るのは慣習であり、この時点では、単に奸臣を取り除いただけで、簒奪の意図は不明である。

6月13日には、協力者だったヘィスティング卿を逮捕し処刑し*79、エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルとの結婚時に他の女性と婚約していたため結婚は無効で、エドワード5世などの子供たちは庶子で継承権が無いとして議会の承認も得て、7月にリチャード3世として戴冠した。

*79 ウッドヴィル排除の協力者だったヘィスティング卿は、グロスター公がエドワード5世に取って代わることには反対したのだろう。

さすがに強引な簒奪であり、各地でエドワード4世の支持者や旧ランカスター派が不穏な動きを見せ、蟄居させられた前王妃エリザベスとランカスター派の王位継承権者となっていたヘンリー・チューダー(ブルターニュに亡命中)の母マーガレット・ボフォートが陰謀の中心となった。

バッキンガム公もウッドヴィル一族を嫌ってリチャード3世の一番の支持者になっていたが、この情勢に新たな野望を抱いたのかもしれない。彼のスタッフォード家はエドワード3世の末子グロスター公トーマスの家を女系で相続しており、ヨーク家の血筋が絶えれば、継承権のなかったボフォート家よりも順位は高いことになる*80。

*80 ここまで来ると、厳密な順位より、勝ち残った者が王位を得るだろうが。

ロンドン塔に幽閉されていたエドワード5世とその弟ヨーク公リチャード(塔の王子達)*81は行方不明になっており、リチャード3世の命により殺害されたというのが定説なのだが、バッキンガム公が自分の継承の可能性を高めるために殺害したとの説も有力な異説である*82。

*81 幼い王子達の悲劇は、後の人々の同情を呼び、多くの絵画や文芸作品のテーマとなっている。
*82 さらに近年ではヘンリー7世が即位後に殺害したという説も人気がある。

10月にバッキンガム公を始めとして各地で反乱が発生し、呼応してブルターニュに居たヘンリー・チューダーがウェールズに上陸したが、嵐で到着が遅れ、バッキンガム公の反乱は短時間で鎮圧された為、情勢を見て引き返している。

これにより、リチャード3世の治世は軌道に乗ったかに見えたが、1484年4月に王太子になっていた一人息子のエドワードが病死し、再び暗雲が漂った。反リチャード3世派の活動は活発になり、エドワード4世の長女エリザベス・ヨークとヘンリー・チューダーの婚約が交渉されていた。

王妃のアン・ネヴィルは他に子供を産んでおらず、この先、産む可能性は少なく、リチャード3世は姪のエリザベスと結婚して、エドワード4世派の不満を抑えると共に、新たに跡継ぎを作ることを考え始めたようだ。このため、1485年3月に王妃アンが死去した際には毒殺が噂された。

リチャード3世はブルターニュの宰相*82に、ヘンリー・チューダーの逮捕・引き渡しを持ちかけたが、それに気づいたヘンリー・チューダーはフランスに逃れ、シャルル8世の摂政アンヌの支援を求めた。

*82 ヘンリー・チューダーを保護していたブルターニュ公が病気で療養しており、その間の権力闘争の中で宰相はイングランドの支持を求めていた。

薔薇戦争とは何だったのか(10) - ヘンリー7世

1485年8月にヘンリー・チューダーがイングランド侵攻を決断したのは、機が熟したと言うより、これ以上、遅れるとリチャード3世の治世が固まりチャンスが無くなると読んだからだろう。既に前王妃エリザベス・ウッドヴィルはリチャード3世の宮廷に戻って和解し、ヘンリーの元に居た息子のドーセット侯トーマス・グレイを呼び戻そうとしており*83、仮に、リチャード3世とエリザベス・ヨークが結婚すれば、エドワード4世派の支持は期待できなくなるからだ。また、今後フランスがイングランドとの和睦を選択すれば、イングランドに引き渡される可能性もある。

*83 戻ろうとしたドーセット侯は逮捕され、パリに幽閉された。

イングランドの空気は微妙だった。リチャード3世の人気も無かったが、ヘンリー・チューダーも異邦人*84であり、どちらでも短期で決着を付けてくれと、我関せずの姿勢を取るものが多かった。

*84 男系で言えばウェールズ人で、祖母はフランス王女、少年の頃からブルターニュに亡命しており、彼の兵は半分以上がウェールズ人、1/4がフランスの傭兵で、残りの1/4以下がイングランド人だった。

ヘンリー・チューダーはフランスで少数の兵を雇い、先祖の故郷であるウェールズに上陸した。大歓迎というわけではなかったが、ボチボチと兵が集まり何とか纏まった戦力となったが、頼みの母マーガレット・ボフォートの現在の夫であるスタンレー卿は、跡継ぎのジョージがリチャード3世の人質となっており、その時が来たら参加すると答えるのみだった。

一方、リチャード3世も頼りになるのはノフォーク公ジョン・ハワードのみで、ノーサンバーランド伯(パーシー)とスタンレー卿の軍がどちらに組みしているのかは明確でなかった。スタンレー卿は妻の子であるヘンリー・チューダーよりだが、跡継ぎを人質に取られているため中立を保つ可能性があり、一方、ノーサンバーランド伯はリチャードの要請に従って出動しているが、日和見をする可能性があった*85。

*85 エドワード4世の治世では、北方を担当しネヴィルの遺領を継いだリチャード3世とノーサンバーランド伯はしばしば対立していた。

8月22日のボスワースの戦いは、展開的には関ヶ原に似ており*86、実際、イングランドの天下分け目なのだが、参加した人員はあまり多くない。

戦闘はリチャード3世、ノフォーク公(ハワード)の本隊とチューダー側のオックスフォード伯との間で開かれたが、ノフォーク公が押され気味なのを見て、リチャード3世はノーサンバーランド伯の攻撃を要請したが、彼らは動かなかった。一方、近辺に陣を敷いているスタンレー卿も留まったままだった。

ノーサンバーランド伯の態度にリチャード3世は焦ったと思われるが、ヘンリー・チューダーもスタンレー卿が動かないことに業を煮やして、直接、スタンレー陣に向かった。戦闘経験の豊富なリチャード3世はチャンスと見て*87、手勢を率いて、本隊から離れたヘンリー・チューダーの隊に突撃し、猛攻撃で肉薄したようだが、ここでウィリアム・スタンレーの別働隊が駆けつけ、リチャード3世は討死し決着がついた*88。

*86 結果的に、ノーサンバーランド伯が毛利秀元(吉川広家)、スタンレー卿が小早川秀秋の役を果たしている。
*87 あるいは敗色が濃くなったことを感じての一か八かだろうが、絶望的な自殺的突撃ではなかったと思える。
*88 彼の死体はしばらく晒された後に、無銘の墓に葬られたとされており、2012年9月にレスターの駐車場で発掘された遺体がリチャード3世のものと特定されている。

王位継承権の怪しいヘンリー7世は「征服による権利」を主張して即位したが、12月にエドワード4世の長女エリザベス・ヨークと結婚し、ランカスター家とヨーク家がチューダー家として統合されたと宣言して両派の融和を図り*89、薔薇戦争は終了した。

しかし、彼よりも王位継承権が高いクラレンス公ジョージの嫡男ウォーリック伯エドワードが存在し*90、ロンドン塔に幽閉されていた塔の王子たちの死亡も確認されておらず、1487年にランバート・シムネルという少年がウォーリック伯エドワードを名乗って反乱を起こし*91、次いで、1490年にパーキン・ウォーベックという青年が「塔の王子」ヨーク公リチャードと名乗って欧州の王侯に認められており、チューダー朝の安定は16世紀を待たなければならなかった。

*89 ヨークの白バラとランカスターの赤バラを統合したチューダーローズがチューダー朝のシンボルとなった。
*90 ヘンリー7世によりロンドン塔に幽閉された。クラレンス公が私権剥奪された為、正式な継承権は失っているが、プランタジネット家の唯一の男系継承権者である。
*91 本物のウォーリック伯が生存していた為、信憑性は低かった。

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