黒死病襲来

その姿の見えない悪魔は、ある日、ジェノヴァ船に乗ってヨーロッパに到着した。人々は苦しみ絶望し、何の手も打てない教会に不信感を抱いた。

歴史に残る1348年~50年の黒死病の大流行は黒海沿岸のジェノヴァ植民地カッファがモンゴル軍(キプチャク汗国)の包囲を受けていた時に感染したもので*1、カッファを出航した12隻の船がシチリアに着き、さらにジェノヴァ、ベネチア、ピサに到達し、そこから北西にフランス、スペイン、イギリスに広まり、さらにドイツ、北欧、そして最終的には1351年にはロシアにまで到達した*2。

*1 意図的に感染した死体を投げ込んだようで、細菌兵器である。
*2 モンゴルから直接ではなくヨーロッパを経由している。「タタールのくびき」と呼ばれても意外と交流は少なかったようだ。

一説には全ヨーロッパの人口の5割~7割が死んだとも言われるが、むろん感染の強かった地域ではそれ位はあっただろうし*3、人がいなくなった村というのも珍しくはなかったが、さすがに全体の平均では3割程度であろう。

*3 特に都市部は密集して居住しているため、人口が5割以上減少した都市も多いが、逃げ出した人間も含まれるため、それだけ死亡したとは限らない。

中世の人口は推測の域を出ていないし、この時代の年代記や手記は数値に関しては非常に大袈裟であることが多く、また人がいなくなった村や街も全ての人が死に絶えた訳ではなく、ある程度、病気が広まり死者が増えると残った人々は恐れて、死人も病人も残したまま逃げ出す*4からである。

*4 こうして逃げ出した保菌者がまた感染を広めている

中世の人口記録は基本的に税金を支払う戸主の記録であり、その家族や税を払っていない無産階層などは含まれないし、故郷を離れて流民になった人々はどこの地域にも登録されない*5。教会には家族も含めた出生や死亡記録が残っていることがあるが、それらは極一部の不完全なものであり、そこからの推定はやり方次第で大きく変動しうる。

*5 三国志関係の話で華北の人口が何分の一に減少したという表現があるが、あれも減少分が全て死んだわけでなく、流民や賊となったり、南部へ移住した分が含まれる。

既に中国やモンゴル、シリア、メソポタミアで流行しており、ヨーロッパだけの現象ではないが、特に欧州における影響が大きかったのは、以下のような理由が考えられる。

・既に寒冷化による飢饉などで人々が栄養不足になっており、病気への耐性が低下していた。
・欧州では衛生概念が少なく、都市においては密集して暮らしており、田舎でも人々の関係は濃厚であるため感染し易かった。
・病原菌の知識はなかったが、感染源あるいは病気をもたらす魔女の使い魔として小動物が駆除され、それらはネズミを食べる捕食動物が多かったため、結果的にネズミの繁殖を助長した。

当時は単に大疫病などと呼ばれており、黒死病の名前は17世紀以降に呼ばれるようになったようだ。患部の見た目が黒ずむからとも言うが、ラテン語で "atra mors"と呼ばれ、「恐ろしい死」という意味合いだが「黒い死」とも読めるため、一種の誤訳として広まったとも言う。

黒死病と呼ばれた物の多くは線ペストであるが、近年のイングランドの発掘では肺ペストも多かったことが明らかになっており、従来のネズミに集るノミによる感染だけでなく、空気感染も大きな要因だったようだ。またチフスや天然痘なども含まれているという*6。

*6 だから歴史的な病名を現在の病名に自動的に置き換えるべきではない。

原因として、ユダヤ人、托鉢修道士、外国人、乞食、巡礼者、ジプシー、らい病患者などが襲われたというが、ユダヤ人は以前からの迫害の一環であり*7、らい病患者は疫病の病原と思われたのだろう。それ以外は移動する人々であり、感染の原因としてだろう。

*7 ユダヤ人への中傷は以前から有り、ユダヤ人集落での被害が比較的少なかったこともあり、当初はユダヤ人が井戸に毒を入れたとの風説が広まった(西欧のユダヤ人 参照)。

特に14世紀の黒死病の大流行によって、次のような社会的影響が生じている。しかし、人口低下は14世紀の頭から15世紀の半ばまで続いており黒死病のみの影響ではなく、寒冷化による飢饉や百年戦争などの戦禍、社会構造の変化など複合的な要因が相関した結果と思われる。

・農奴制の衰退 - 労働力が不足し、農奴側が優位に立ったため解放へと繋がり、下層階級の力が増加した。
・労働不足により耕作地が減少し、人出のかからない牧草地が増え、肉の供給が増加した。
・黒死病に対して有効な手を打てなかった教会の権威が低下した。
・教会に頼らない独自の宗教への情熱が高まり、鞭打ち行(Flagellant)*8が流行した。
・特に密集して生活し罹患者への接触の多い修道院に被害が多かったため、大量の経験不足の聖職者を生み出すことになり、一層、聖職者への不信感を招いた。
・蒸留酒が薬になるとされ、生産量が増加した。
・これまでは病気の治療には神の助けを求めていたが*9、これ以降は医療への関心が高まり医学が発達した。
・文学にも大きな影響を及ぼし、悲観主義的傾向が強くなった反面、快楽主義的にもなっている*10。

*8 賛美歌を歌いながら街から街へと行進し、広場など公衆の面前で自分の身体を鞭打って、懺悔の意を示す人々。イエスの受難を真似たものだが、これにより、一層、伝染が広まった。
*9 医者がやるのは薬の調合による対症療法だけで、治癒は神の意思とされていた。
*10 結局、将来を悲観し、現在をできるだけ楽しもうという考えになったようだ。

疫病の流行は、その後も不定期的に発生したが、疫病が流行した際に自治体などに雇われて疫病を専門に看る疫病医者という職業が生まれた。
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当初は普通の医者も担当したが、すぐに死亡して人手不足になるため、一般から募集され誰でも成れたようで、治療するよりも病気を広める役を果たしたとも言われる。病人に接するため、罹患して死亡する率が高い危険な職であり高報酬だった。よく絵で見られる全身コートと鍔広帽子に嘴型の仮面(図 参照)は17世紀頃から使用されたもので*11、嘴部にラベンダーなどの薬草を詰めて、少しでも空気感染*12を防ごうとしたようだ。また、杖は直接、患者に触らないようにするためで、原理は分からなくとも接触が危険なことは経験から分かっていたようだ。

*11 従って、14世紀の黒死病やルネッサンスの疫病に出てくるのは時代錯誤(アナクロ)である。
*12 空気感染に関する知識はないが、「邪悪な臭い」が病気の元と考えて、より強い匂いで防ごうとしたようだ。

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