エル・シドのように一介の遍歴の騎士から成り上がり、イングランドで中世の騎士の代表として讃えられるのがプランタジネット朝の5人の王*1に仕えたウィリアム・マーシャル(1146 - 1219)である。ちなみに、同様の騎士の成功譚としてはフランスだとベルトラン・デュ・ゲクランかジャン・ド・ブリエンヌだろう*2。
*1 若ヘンリー、ヘンリー2世、リチャード1世、ジョン、ヘンリー3世
*2 伝説的だが実在の騎士としてはシャルル・マーニュの甥のローラン(ローランの歌)が最も有名だろうが、史実としては名前とロンスヴォーの戦いで戦死したことしか判らず、アーサー王の円卓の騎士達と変わらない。
中世ではマーシャル*3と言えばウィリアムと言うほど知られていたらしい。現代の英国ではそれほど有名ではないらしいが、ヘンリー2世とリチャード、アリエノール、フィリップ2世との確執を描いた「冬のライオン」で、地味にチョロチョロ出てくる家臣がウィリアム・マーシャルである。
*3 マーシャルは王や諸侯等、どの組織にも存在する軍事長官・隊長の役職だが、ザ・マーシャルと言えばウィリアムを指すことになった。
ウィリアムの家は代々、王のマーシャルを勤めた家柄だが、地位は高くなかった*4。
*4 「王は貴族の第一人者」の中世盛期では、王の役人は王の使用人であり、地位は諸侯より下なのである。
父のジョン・マーシャル*5は、イングランドの無政府時代の皇后モード 対 スティーブン王の争いで当初はスティーブン王に従っていたが、モード派のソルズベリーの貴族の誘いにより、その娘と結婚してモード派に寝返っていた。間に生まれたのが、ジョンとウィリアムである。
*5 マーシャルの職に就いている為、こう呼ばれるだけで家名ではないのだが、ウィリアムの後には家名のように扱われた。
ある防城戦の際に、敵がウィリアムを人質にして開城を要求すると、股間を指差して「この槌と金床がある限り、いくらでも代わりを作れる」*6と言い放ったことで知られる。
スティーブン王はウィリアムをトレブシェットで城に投げ込むと脅したが、実行はしなかったようだ*7。
*6 カテリーナ・スフォルツァにも同様の逸話があり、定番なのかもしれない。
*7 スティーブンは優しいことでは定評があり、王としては軟弱で欠点と見なされている。
イングランドでは、1156年に皇后モードの長子であるヘンリー2世がイングランド王となり、ジョン・マーシャルもそれなりに遇されたと思うが、次男に所領を分け与えられる程でなく、ウィリアムは所領の無い騎士として自分で将来を切り開かなければならなかった。
母方の親族*8であるノルマンディのタンカーヴィル家の下で騎士の修行*9を行い、ノルマンディにおける戦争やトーナメント(馬上槍試合)で早くから頭角を現し勇名を馳せていたようだが、戦績の割には身代金や捕獲品が少なく、不器用で武骨だったようだ。後に大領主になってからは、多少、政治的な動きも行ったが、生涯、武人として優秀で誠実だった為に敵・味方に信頼され、歴史に名を残したのだろう。
*8 母の実家は、功績によりソルズベリー伯となっていたが、元々格上で親族にも有力な一族が多かった。
*9 ページ(小姓)、スクウェア(従士)として騎士の見習いをする。
1166年頃に騎士に叙任され、叔父(母の兄弟)のソルズベリー伯パトリックに仕えたが、1168年にパトリックはギー・ド・リュジニャン*10との喧嘩で殺され、ウィリアムは負傷し捕虜となった。
*10 この事件により追放されて聖地に行き、王女シビーユと結婚して、後にエルサレム王となったが、ヒッテンの戦いで大敗しエルサレムを失うことになる。
しかし、彼の奮戦を聞いたイングランド王妃アリエノール・ダキテーヌは身代金を立替えて解放し、1170年から王太子 若ヘンリー*11(1155 - 1183)の教育係とした。
*11 この年に共治王として戴冠しているため、正式には若ヘンリー王だが、実権はなく、実質は王太子である。
若ヘンリーは個性の強いプランタジネット家の兄弟の中では、快活で性格は良かったが、単純で快楽主義的な面があり、トーナメントの勇者として知られたウィリアムに懐き、騎士の一団を引き連れて共にトーナメントに出場して回ったようだ。
1173年からのヘンリー2世に対する息子達の大反乱時には若ヘンリーを補佐したようだが、反乱は失敗に終わり、政治から遠ざかった若ヘンリーは一層、トーナメントに熱中した*12。
*12 ウィリアムの役割は騎士としての師匠で、10歳年上の兄貴分として共に遊びまわった雰囲気である。
しかし、1182年ごろに不和となり若ヘンリーから離れたようだ*13。若ヘンリーは1183年に病死する際にウィリアムを呼んで、十字軍への誓いを代わりに実行することを頼み、ウィリアムはエルサレムに巡礼したようだが、現地で戦ったのかは定かではない。
*13 妃との不倫など様々な理由が噂されたようだが、さすがに年を重ねて、政治に関心を示すように諫言したのではないだろうか。
ウィリアム・マーシャル - 遍歴の騎士
ウィリアム・マーシャル(1) - 遍歴の騎士
ウィリアム・マーシャル(2) - 王家の忠臣
1185年に戻ってくるとヘンリー2世に仕え、部隊長の1人として活躍した。1189年にリチャードが反抗し、ヘンリー2世がシノン城に退く際に殿を務め、追撃してきたリチャードを一騎打ちで破った*14。戦士王として知られるリチャード1世獅子心王の生涯、唯一の敗北と言われ、ウィリアム・マーシャルの勇名は西欧に轟いた。
*14 本人に手を掛けることは躊躇われた為、勝利の証として馬を殺したという。
リチャード1世にも気に入られ、広大な領土を有するペンブルック伯の女性相続人イザベル・ド・クレアとの結婚を認められ、一躍、大領主となった*15。
*15 但し、相続争いもあり、ペンブルック伯となったのは1199年。
第三回十字軍に出かけたリチャード1世の留守を預かる摂政会議の一員ともなり、王弟ジョンが実権を握ろうとした際に、当初は支持したが*16、1193年に捕囚となったリチャード1世に代わってジョンが王位を狙うと反対に回った。
*16 大法官だったイーリー司教ウィリアム・ロンシャンと対立したようだ。
1194年に彼の兄ジョン・マーシャルが死去し、帰還したリチャード1世からマーシャル職を受け継ぐことを認められた*17。その後も王に従ってフィリップ2世とのノルマンディの争いに従軍し、1199年のリチャード1世の死の際に、王室財産の管理を委ねられている。
*17 この時点で初めてウィリアム・マーシャルになったのだ。
ジョンが甥のブルターニュ公アーサーと争って王位に就くと、ジョン王を支持してノルマンディの司令官となり、フランスの攻撃を防衛したが、ジョン王はフィリップ2世と全面的に対決して1204年までに大陸領土の多くを失い、ウィリアムもイングランドに引き上げた。
しかし、ウィリアムがノルマンディにおけるイングランド貴族の権利の保障をフィリップ2世と交渉して臣従の誓いをした為*18、ジョン王の機嫌を損ねることになった。
*18 中世では複数の主君と封建関係を結ぶことは普通にあるが、ジョン王はイングランド貴族に自分に付くことを要求した為、問題となった。
アイルランドは、ジョンが父王の頃から名目上のアイルランド君主(卿)であったが、土着のアイルランド豪族だけでなく、アイルランドに所領を持つイングランド貴族と王の利害は対立することが多く紛争が絶えなかった。
ウィリアムはド・クレアの遺産としてアイルランドにも多くの所領を持っていたが、1207年頃から、ジョン王のアイルランド代官のメーラー・フィッツヘンリーと争った。
1212年頃に和解したようだ*19が、特にジョンの大陸再侵攻に協力するわけでもなく、その後の諸侯の反乱にも組みせず、1215年のマグナカルタの時には数少ないジョン王に従った諸侯となっている。このため、ジョン王の死に際に、9歳のヘンリー(3世)の後見を託され、葬儀などもウィリアムが取り仕切った。
*19 ジョン王に対するイングランド諸侯の反乱の機運が高まり、ジョンは和解せざるを得なかった。
ウィリアムが摂政としてヘンリー3世を戴冠させ、改めてマグナ・カルタを承認するとイングランド諸侯の多くは王側に復帰した*20。ロンドンを占拠していたフランス王太子ルイ(8世)をリンカーンの戦いで破り、さらにドーバー海峡の海戦で勝利し、1217年には寛容な条件を示してルイと和睦している*21。
*20 諸侯は王の言葉は信用しなかったが、ウィリアム・マーシャルの言葉は信用したと評されている。
*21 王側の諸侯は寛容な条件に不満だったようだが、反乱諸侯やフランスの恨みを残さずに済んでいる。
1219年までヘンリー3世政府の重鎮としてイングランドを治めたが、死が迫ったことを悟ると、ヘンリー3世と諸侯を集めて後事を託して大往生を遂げた。
ウィリアムは五男五女と子供に恵まれたが、跡を継いだ男子達に嫡子はできず、マーシャルの男系は1245年に第6代ペンブルック伯アンセルムが死去すると断絶し、五人の娘達に分割相続されマーシャルの家名は絶えたが、女系の子孫は多く残り繁栄している。
彼は多くの主君に仕えたが、これは個人的な感情や利害より筋を通している為で、ヘンリー2世に仕えている時はリチャードと戦っても、リチャードが王に成ればそれに仕えることに躊躇はないのである。
ジョン王に対しても不満を抱いていたようだが、正統な王への反乱に加わる気がしなかっただろうし、プランタジネット家には恩義を感じてたろうから、ヘンリー3世を守り立てることに異存はなかった。このように、主君に対しては一貫して忠実だった。
ウィリアム・マーシャルがいなければ、ヘンリー3世は王になれず、イングランドはフランス王の治める国になっていたかもしれないとも言われている。
大領主となってからは領土争いも行っているが、本質は硬骨な武人で、ヘンリー2世に仕えていた時に褒賞が少ないと不満を述べたとされるが、これも名誉として勲功に応じた褒賞を要求しただけで、物質欲や権力欲ではないようだ。
こうやって見ると、ヘンリー3世を擁立して、プランタジネット朝を継続させた立役者という以外は、あまり目立った働きはしていないようだが、息子が「ウィリアム・マーシャルの生涯」という本を書かせた為、後世に広く知られることになったようで、何時の世も宣伝は重要だと言うことだろう。
*14 本人に手を掛けることは躊躇われた為、勝利の証として馬を殺したという。
リチャード1世にも気に入られ、広大な領土を有するペンブルック伯の女性相続人イザベル・ド・クレアとの結婚を認められ、一躍、大領主となった*15。
*15 但し、相続争いもあり、ペンブルック伯となったのは1199年。
第三回十字軍に出かけたリチャード1世の留守を預かる摂政会議の一員ともなり、王弟ジョンが実権を握ろうとした際に、当初は支持したが*16、1193年に捕囚となったリチャード1世に代わってジョンが王位を狙うと反対に回った。
*16 大法官だったイーリー司教ウィリアム・ロンシャンと対立したようだ。
1194年に彼の兄ジョン・マーシャルが死去し、帰還したリチャード1世からマーシャル職を受け継ぐことを認められた*17。その後も王に従ってフィリップ2世とのノルマンディの争いに従軍し、1199年のリチャード1世の死の際に、王室財産の管理を委ねられている。
*17 この時点で初めてウィリアム・マーシャルになったのだ。
ジョンが甥のブルターニュ公アーサーと争って王位に就くと、ジョン王を支持してノルマンディの司令官となり、フランスの攻撃を防衛したが、ジョン王はフィリップ2世と全面的に対決して1204年までに大陸領土の多くを失い、ウィリアムもイングランドに引き上げた。
しかし、ウィリアムがノルマンディにおけるイングランド貴族の権利の保障をフィリップ2世と交渉して臣従の誓いをした為*18、ジョン王の機嫌を損ねることになった。
*18 中世では複数の主君と封建関係を結ぶことは普通にあるが、ジョン王はイングランド貴族に自分に付くことを要求した為、問題となった。
アイルランドは、ジョンが父王の頃から名目上のアイルランド君主(卿)であったが、土着のアイルランド豪族だけでなく、アイルランドに所領を持つイングランド貴族と王の利害は対立することが多く紛争が絶えなかった。
ウィリアムはド・クレアの遺産としてアイルランドにも多くの所領を持っていたが、1207年頃から、ジョン王のアイルランド代官のメーラー・フィッツヘンリーと争った。
1212年頃に和解したようだ*19が、特にジョンの大陸再侵攻に協力するわけでもなく、その後の諸侯の反乱にも組みせず、1215年のマグナカルタの時には数少ないジョン王に従った諸侯となっている。このため、ジョン王の死に際に、9歳のヘンリー(3世)の後見を託され、葬儀などもウィリアムが取り仕切った。
*19 ジョン王に対するイングランド諸侯の反乱の機運が高まり、ジョンは和解せざるを得なかった。
ウィリアムが摂政としてヘンリー3世を戴冠させ、改めてマグナ・カルタを承認するとイングランド諸侯の多くは王側に復帰した*20。ロンドンを占拠していたフランス王太子ルイ(8世)をリンカーンの戦いで破り、さらにドーバー海峡の海戦で勝利し、1217年には寛容な条件を示してルイと和睦している*21。
*20 諸侯は王の言葉は信用しなかったが、ウィリアム・マーシャルの言葉は信用したと評されている。
*21 王側の諸侯は寛容な条件に不満だったようだが、反乱諸侯やフランスの恨みを残さずに済んでいる。
1219年までヘンリー3世政府の重鎮としてイングランドを治めたが、死が迫ったことを悟ると、ヘンリー3世と諸侯を集めて後事を託して大往生を遂げた。
ウィリアムは五男五女と子供に恵まれたが、跡を継いだ男子達に嫡子はできず、マーシャルの男系は1245年に第6代ペンブルック伯アンセルムが死去すると断絶し、五人の娘達に分割相続されマーシャルの家名は絶えたが、女系の子孫は多く残り繁栄している。
彼は多くの主君に仕えたが、これは個人的な感情や利害より筋を通している為で、ヘンリー2世に仕えている時はリチャードと戦っても、リチャードが王に成ればそれに仕えることに躊躇はないのである。
ジョン王に対しても不満を抱いていたようだが、正統な王への反乱に加わる気がしなかっただろうし、プランタジネット家には恩義を感じてたろうから、ヘンリー3世を守り立てることに異存はなかった。このように、主君に対しては一貫して忠実だった。
ウィリアム・マーシャルがいなければ、ヘンリー3世は王になれず、イングランドはフランス王の治める国になっていたかもしれないとも言われている。
大領主となってからは領土争いも行っているが、本質は硬骨な武人で、ヘンリー2世に仕えていた時に褒賞が少ないと不満を述べたとされるが、これも名誉として勲功に応じた褒賞を要求しただけで、物質欲や権力欲ではないようだ。
こうやって見ると、ヘンリー3世を擁立して、プランタジネット朝を継続させた立役者という以外は、あまり目立った働きはしていないようだが、息子が「ウィリアム・マーシャルの生涯」という本を書かせた為、後世に広く知られることになったようで、何時の世も宣伝は重要だと言うことだろう。