中世ヨーロッパの身分と称号

中世ヨーロッパの身分と称号(第1身分)

かなり大雑把に紹介すると、まず第1身分が祈る人(聖職者)、第2身分が戦う人(騎士・貴族)、第3身分が働く人(商人、職人、農民)であるが、聖職者は神に仕えるという理由で先になっているだけで、第2身分より上位にあるという訳ではない。

第1身分はカトリックではローマ教皇を筆頭に、総司教*1、大司教、司教、司祭といった序列となり、それらの下に雑務や事務を行う聖職者たちが存在する。中世盛期の半ばあたりまでは、文字を覚えて学問を志すなら聖職者になるしかなく、学者や書記官のような人も聖職者となった。

これとは別に修道院があり、大修道院長(Abbot)、修道院長(Prior)、修道士(Monk)がおり、大修道院長の地位は司教、大司教なみの権力と財力を誇った。修道士には、純粋に神に仕える生き方をする人の他に、医療、工芸、食品加工といった特殊技術を行う者も多く1つの小さな世界を構成していた。

*1 総司教はコンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアなどだが、本来はローマ教皇はローマ総司教に過ぎず、他の総司教はその下にいるとは思っていないのだが、ローマ教皇は(イエスの筆頭使徒で天国の鍵を預かったとされる)ペテロの後継者として自分を一段上のものとした。十字軍で、カトリックのエルサレム、アンティオキア、コンスタンティノープル総司教などが生まれたことにより実のあるものとなったが、正教会側も別に総司教(総主教)を立てている。

大司教、司教、司祭、修道院長などは同時に教会領を有する諸侯・領主でもあり、特に大司教あたりは堂々たる大領主であり、ドイツでは7人の選定侯のうち3人を占めていた。後に聖職者が戦争に加わることは禁止されるようになったが、中世盛期あたりまでは封建領主として軍の先頭に立つ聖職者は珍しくなかった。元々、上位の聖職者は騎士・貴族の嫡男以外の者がなるもの*2で、戦に加わることは自然なことであった。その後も十字軍・聖戦だけは認められており、聖地騎士団などの修道騎士団は現代まで存在している。

*2 当初は貴族が、一族の菩提寺(教会)として領地を割いて教会を作り、一族の者を司教・司祭として任命していたのだが、これがクリュニー改革によりシモニア(聖職売買)と見なされ叙任権問題となる。

枢機卿はこれらの序列とは別に教皇を補佐する役割の人々で、当初は必ずしも高い身分ではなかった(司祭の枢機卿もいた)が、やがて教皇が枢機卿のみの選挙(コンクラーベ)で選出されるようになるとその権威は高くなり、ルネッサンス頃からカトリック各国の代表として送り込まれるようになった。そのため、かなり政治的な任命となり、フランスのリシューリュー、マゼランのように、本来、聖職者ではなかった役人・政治家が任命されることも多かった。

中世ヨーロッパの身分と称号(第2身分)

第2身分は戦う人(騎士・貴族)であり、中世ヨーロッパに侵入してこれを支配したゲルマン系部族戦士団の流れを引いている。貴族のことを「青い血」と呼ぶことがあるが、これはサラセン人やゲルマン以外の血の混じっている人達と比べて、肌が白く、静脈が透けて見えたからだという説がある。

戦う人は、大きく、君主(プリンス)、領主(バロン)、騎士(ナイト)の3つの階層に分けることができる。

中世においてはプリンスは地域を一円支配する君主を意味し、この意味では皇帝、王、独立の君主、半独立の君主(宗主から大公、公、伯などの称号を受けている)を含む。カトリック圏では、王は神に聖別された存在とされており、最低限、ローマ教皇か神聖ローマ皇帝の承認を受けなければ、例え独立君主として自称*1していても、他の国の文書や歴史書には単にプリンスと記述され、日本語では大公*2、公と訳されることになる。従って、異教徒や正教圏の国々の場合、カトリックに改宗して初めて王と称されるようになる。

*1 リトアニア、ロシア、ウェールズなど、いずれも現地語では王の意味の称号を用いていた。

*2 その地域の他のプリンスを従えて、プリンスの中のプリンスのような称号を持つものはGrand Prince、Grand Dukeのように表現されるため、日本語では大公とする。

バロンは本来、ゲルマン諸族の自由戦士のことであったが、封建制の中で弱小の自由戦士は他の強力な自由戦士の封建臣下(Vassal)となっていったため、結果的に残った自由戦士バロンがプリンスと直接封建関係を結ぶ、ある程度の地域を領有する領主の意味になった。

フランク王国時代には各地の行政長官としてCount(仏:Comte、独:Graf)を置いており、これが封建領主化してそのまま称号となり日本語では伯と訳される。Countには役割に応じてバリエーションがあり、特にドイツでは、異民族と接する辺境に配置され、より大きな地域と支配権を有する辺境伯(Markgraf)の他、方伯(Landgraf)、宮中伯(Pfalzgraf)などの通常の伯より上位の者がいる。またフランスやイタリアでは副伯(Viscomte)、ドイツでは城伯(Burggraf)など通常の伯より下位の者もいる。

また、軍政長官の役目であるDuc(英:Duke)はドイツのゲルマン諸族を支配下に入れた時、部族の長にこの称号を与えたため、フランク人から見て異民族である地域を半独立的に支配する領主の称号となり、日本語では公*3と訳される。

*3 初期のドイツのDuke(Herzog)は部族の長であり、後のHerzogよりも大きな地域と支配権を有するため部族大公と訳されることがある。

イングランドではノルマンコンクエスト以来、貴族は全て王から封土を与えられたバロンであるが、その中で上位の者には大陸のCountと同格であるEarlを与えており、これも日本語では伯と訳される。後には、Duke、辺境伯と同等のMarquis、副伯に対応するViscountの称号が作られ、それらを持たない者の称号がBaronとなり、日本語では、それぞれ、公、侯、子、男爵と訳されるが、いずれも階層・総称としてはバロンである。

一方、フランスでは異民族の国であったブルゴーニュ、ブルターニュ、ノルマンディ、アキテーヌなどに公(Duc)がおり、フランドル、シャンパーニュ、アンジュー、トゥールズの伯(Comte)は他のComteを含む広い地域を支配しており、これらはプリンスと見なされていた。しかし、やがてカペー王朝はイングランド王家でもあるプランタジネット家からノルマンディ、アキテーヌ、アンジューを奪い、アルビジョワ十字軍でトゥールズを、フィリップ4世のナバラ女王・シャンパーニュ伯ジャンヌとの結婚によりシャンパーニュを、王族ブルゴーニュ公の男子継承者が絶えたことによりブルゴーニュ*4を、そして後にブルターニュ女公アンヌとの結婚によりブルターニュを得て王領に併合したため、フランスにはプリンスは王以外にはいなくなった*5。

*4 フランドルは女性相続人と結婚したハプスブルグ家に移り、フランス王国から分離したと見られた。

*5 ただし、神聖ローマ帝国領だった土地がフランス王国に併合された場合、その土地のプリンスはそのままプリンスと見なされた。

一方、神聖ローマ帝国では、当初は公、辺境伯、方伯、宮中伯などがプリンスであったが、やがて大空位時代以降、帝国直属の領主は領邦国家化し、その君主はいずれもプリンス(Fürst)となり、称号にもなった。結局、領邦国家の君主は本来の称号とは別にプリンス(Fürst)の称号も有したが、その中でも公(Herzog)は歴史的に高い地位にあるとされたため、それ以外のプリンスは日本語では侯と訳されるようになった*6。そして、それぞれの領邦国家内部にも爵位が存在するが、これらは帝国直属より下と見なされた。

*6 一方、プリンスのいない、イングランドやフランスでは、プリンスはバロンである公爵(Duke, Duc)よりも上と見なされるため、しばしば大公と訳される。

日本が華族制度を作る時に参考にしたイギリスの貴族制度は中国の封建爵位である、公、侯、伯、子、男爵に上手く当てはまるが、それ以外の国の貴族称号にも無理やり当てはめたため、分かり難いものになってしまっている。

さて、騎士(ナイト)であるが、総称としては、プリンスもバロンも馬上で戦う騎士で、騎士道などを語る場合は彼らも該当するのであるが、階層としてはプリンス、バロンではない残りの人達が該当する。

フランスでは騎士(シュバリエ)は明らかに貴族なのだが、ドイツでは当初はゲルマン戦士制度の従士(ミニステリアーレ)で非自由民だったものが多かったが、やがて地位が上がって下級貴族と見なされるようになった。イングランドでもナイトは本来、従士の意味であり、後にはフランスのシュバリエと同等と見なされて貴族的(Gentry)として扱われているが、正式な身分は貴族(Peer、Noble)ではなく平民(Commoner)である。

騎士の上位は旗騎士(banneret)であり、彼らは領地を持ち、配下に何人かの騎士を従えている。その下位には通常の騎士と領地を持たず直接給付される騎士がいる。彼らはいずれもプリンスかバロンに封建臣下として仕えている。

ところで、商業が中心のイタリアなどの都市国家では、しばしば支配階層の商人が貴族とされ、また、王権が強くなった中世末期以降、王により任命された法服貴族などが現れるが、戦う人である従来の封建貴族は、彼らを自分たちと同列とは見なさなかった。

中世ヨーロッパの身分と称号(第3身分)

第3身分は働く人(商人、職人、農民)である。

まず、農民というと農奴を思い浮かべるが、奴隷に近いものから自由民に近いものまで、時代・地域により変化するが、従属度・権利が異なるいくつかの階層が存在した。彼らは様々な労役と地代を負担し、さらに領主の家族の結婚や息子の騎士叙任、捕虜となった場合の身代金など臨時の負担があり、領主のパン焼き窯、粉挽きの風車や水車など様々な基本設備の使用を義務付けられ、その使用料を徴収された。彼らには移動の自由はなく、領主の裁判権に服し、その意のままに罰せられた。

とは言え、大部分の農奴は、束縛が大きいとはいえ、家族や財産を持つことができる普通の農民であり、実際は様々な慣習的権利も持っており、正当な理由なく土地を失うこともなく、豊かではなくとも食べていくことはできた。また、荘園には自由農民も存在していた。彼らは領主に対して、ある程度の従属はあるが、労役はなく上級の裁判を受ける権利を持っていた。

時代が経つにつれ、農業生産の拡大、騎士・貴族の没落、王権の拡大、黒死病の流行による人口の激減などにより、農奴の束縛は緩くなり、自由農民が増加するようになった。領主(地主)の立場からしても、農奴に小さな土地区画を耕作させるより、合わせて大土地で効率良く利益率の高い作付けを行った方が得なため、15世紀頃には西欧の中心部からは農奴はほぼ消滅するか、名前は残ってもほとんど自由農民と変わらないものになっている。一方、ドイツの東方植民地、東欧などでは農奴制が普及・拡大し19世紀頃まで続くことになる。

現在の自由が最も重要だとの考えからか、何故農奴が逃げなかったのか疑問が示されるのを聞くことがある。もちろん基本的に農奴に移動の自由はなく、領主に捕まれば罰を受ける訳だが、それよりも、農民が耕す土地を捨てる場合などは、凶作が続いてその土地で食えなくなるか、領主が狂人に近いほど横暴か、本人が罪を犯してその地にいられなくなるかぐらいであり、少年の頃から商人・職人の見習いとして働くならともかく、成人後に特殊技能もなく町に出ても、できることは単純労働か盗人に転落するかしかない。実際、英語の悪人(Villain)の語源は農奴を表す言葉の1つvilleinであり、偏見もあるだろうが、悪事を成す者が多かったということだろう。「町の空気は自由にする」という言葉があり、1年間、町に居住すれば、元の従属関係から逃れて自由民になることができるのであるが、非自由だが安全と食があるのと、自由だが安全と食が不安になるのと、どちらが良いかは現代でも考えるべき課題である。

商人や職人は主に城壁がある都市に居住した。これは、彼らが商品や原材料など高価なものを保管しなければならないためであり、逆に言えば城壁を維持するための費用を捻出できる人々だとも言える。都市には、北イタリアや南フランスのようにローマ時代からの都市やノルマン、サラセンの略奪や領主間の争いが激しかった頃に防衛のために作られたもの、商業が回復し始めた頃に領主が産業の振興と商人や職人からの税を期待して新たに作った都市などがある。これらの都市では、大商人や職人のギルドの代表者が都市の運営に力を持ち、やがて王や領主から自治権を受けるようになる。北イタリアやドイツ北部の都市は神聖ローマ帝国から半ば独立した都市国家として繁栄するようになった。

商人や職人になるのは基本的には同じで、まず見習いとして子供の頃から何年か働く。商人の場合、一人前になっても同じ主人の元で働き、場合によってはその後、独立して新たな商売を始めることになる。一方、職人の場合は、一人前の職人になると親方から離れて、別の親方についたり、各地を修行して歩いた後、十分な腕前を有することを証明する*ことにより親方となった。親方になって初めてギルドのメンバーとなり、市政に参加することも可能になった。

* その時、作成する作品がマスターピースである。

これらの都市市民(ブルジョワ、ブルガー)の上位のものは十分な金力と権力を持つようになり、イタリアでは貴族とも見なされ、フレンツェのメディチ家のようにフランス王妃を出したりもしている。他の地域でも王権と結んで繁栄し、またその金力で貴族の地位を得ることもあったが、戦う人である青い血の貴族からは低く見られがちであった。

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