百年戦争とは何だったのか

百年戦争とは何だったのか(1) - 名称と期間

百年戦争という用語は非常に誤解を呼び易い。

第一に100年間ではなく戦闘が継続した訳でもない。その期間は定説では1337年〜1453年の120年に近く、エドワード戦争(1337年〜1360年)、シャルル戦争(1369年〜1389年)、ブルゴーニュ派対アルマニャック派の内乱(1405年〜1415年)、ランカスター戦争*1(1415年〜1453年)等と呼ばれたものが一連の関連性を持っているとして19世紀に付けられた名称で、むしろ時代区分と言った方が適切である。しかも上記の期間内ですら戦闘は間欠的だった*2。

*1 戦争の中心となったエドワード3世、シャルル5世、ランカスター朝から名前が取られている。
*2 中世の戦争は大概、短期間に1回の会戦で決まるか、間欠的にダラダラ継続するかであり、長期的に戦闘を継続する国力を有していない。

第二にしばしば英仏戦争と呼ばれるが、現在のイギリスに含まれるスコットランドはフランスの同盟国であり*3、現在のフランスに含まれるギエンヌ、ガスコーニュ*4はイングランド王領であり、ブルターニュ、ブルゴーニュ、ナヴァールはイングランドと同盟した期間があり、現代的な意味での国家間の戦争ではなく、プランタジネットとヴァロワの2つの王家の争いだった。

*3 むしろスコットランドとの戦争にフランスが干渉してきたと言った方が良い。
*4 ギエンヌはボルドーの周辺、ガスコーニュはその南の海岸からピレネーに沿った地域。かってのアキテーヌ公領の一部である。以降、単にギエンヌと書いた場合、イングランド王領のガスコーニュを含む。

また、一般的に期間は1337年〜1453年とされるが、始まりと終わりもはっきりしない。

1337年にフィリップ6世がギエンヌの没収を宣言し、それに対してエドワード3世が臣従の放棄と自らのフランス王位継承権を宣言したことをもって開始とするが、既にスコットランドへの支援として、1336年からフランス・ジェノヴァ船によるイングランド船や海岸部への攻撃が初まっている。エドワード3世は資金調達が遅れて、実際に戦闘行動を開始するのはカンブレーを攻撃した1339年9月だが、成果が挙がらず、すぐに撤退しており、本格的に敵対関係に入るのは、1340年1月にフランドルとの同盟のためにヘントでフランス王位を宣言してからである。

本来は1360年に百年戦争における唯一の平和条約であるカレー条約が結ばれた時点で戦争は終了しているのだが、広大なアキテーヌ公領の割譲についてはフランス側の不満が強く、1369年からのシャルル戦争はフランス側の一方的なカレー条約の破棄であるが、反攻は必然だったと言える。

シャルル戦争は1380年のシャルル5世の死により実質的に休止しており*5、1389年は単に3年間の休戦を結んだだけである。1396年にイングランド王リチャード2世がフランス王女イザベルと結婚して30年の休戦が結ばれており、本来ならこれで終結*6であるが、1399年のリチャード2世の廃位とランカスター朝の成立により有耶無耶となり、ブルゴーニュ派対アルマニャック派の内乱の中で漁夫の利を狙ってヘンリー5世が1415年からノルマンディに攻勢をかけて再開することになる。

*5 戦闘は1375年に、ほぼ終了しており、1377年にエドワード黒太子、1378年にエドワード3世、1380年にシャルル5世とメインプレーヤーが死去したため自然に休止している。
*6 ギエンヌなどの領土問題で合意が得られないため平和条約は結べなかったが、カレー条約が9年間しか持たなかったことを考えれば、30年の休戦条約の方が平和への維持力が強いかもしれない。

終わりは一般的に1453年のボルドーの喪失時とされているが、これは1455年からイングランドで薔薇戦争が始まったため自然に休戦状態となったものに過ぎない*7。イングランド側はもちろん、カレーを残しているフランス側も別に終戦したとは考えておらず、1475年にはヨーク朝のエドワード4世がブルゴーニュ公シャルル突進公と連携してフランスに上陸している。これに対してルイ11世が多額の賠償金で和を結んだのがピッキーニ条約で対ブルゴーニュを意識した休戦条約に過ぎない。

*7 1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、西欧では十字軍が呼びかけられており、フランスでも停戦の機運が高まっていた。ブルゴーニュ公フィリップ善良公も十字軍に出発する準備をしていた。

フランスからすると半ば独立してしまったブルゴーニュ領を再びフランスに取り戻さなければ百年戦争の終結とは言えず、1477年のシャルル突進公のナンシーでの敗死とブルゴーニュを継いだハプスブルク家やブルターニュ公などのフランス公益同盟との戦いが終結した1493年のサンリスの和が終了と言えるだろう。

イングランドも1492年にエタープル条約でフランスと和睦しており、実質的にはこれで終戦と言って良いが*8、カレーは、メアリ1世の時の1558年にギーヌ公フランソワに奪われるまでイングランド領であった。また、代々のイングランド王はフランス王を名乗っており、王位を正式に放棄したのは、なんと1800年にハノーバ朝のジョージ3世により連合王国が誕生した時である*9。

*8 と言って領土が確定した訳ではなく、フランス王位とともに、ずっと棚上げしたままだった。
*9 既にこの時点ではフランス革命でフランスは共和国になっている。

百年戦争とは何だったのか(2) - 開始と長期化した原因

一般的にはイングランドのエドワード3世がフランス王位とアンジュー帝国時代の領土の回復を目指してフランスに攻め込んだのが原因と思われがちだが、むしろ新米王だったヴァロワ朝のフィリップ6世が権威を確立するためにイングランドに対して強硬姿勢を取ったことにある。

開戦までの経緯は「百年戦争の背景」で示した通りだが、確かにイングランド王にとってアンジュー帝国時代の領土の回復は悲願であり、フランス王位継承権を無視され、事有るごとにギエンヌの領土を削られ、オマージュ(臣従の誓い)を要求されることに不満だったが、イングランドはエドワード2世の治世からイザベラとロジャー・モーティマが摂政を務めた1330年までドン底にあり、同年にクーデターにより親政を始めたエドワード3世にとってはスコットランド併合が第1目標であり、フランスとの直接対決は極力避けようとしていた。

しかし、1328年にフランス王位に就いたフィリップ6世は直系ではなく、単なるヴァロワ伯だったに過ぎず*10、継承に異論*11もあったため功績を逸っていた。既に35歳と油の乗った年齢であり、即位後まもなくフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールをフランドルに戻すことに成功し*12、その勢いで懸案だったイングランド王領ギエンヌを併合して*13、カペー朝で成せなかったフランス王国の統一を強く目指していた。

*10 フランス貴族からは軽く見られがちであり、当初、エドワード3世の母のイザベラは「王の子(エドワード3世)が伯の子(フィリップ6世)に臣従などしない」とオマージュを拒否している。
*11 ネールの塔 参照
*12 フランドルでは1297年のフランスによる併合の試み(金拍車の戦い 参照)以来、市民は反フランスであり、1323年に親フランスのフランドル伯が追放されていた。
*13 シャルル4世は、1324年のサン・サルドス戦争で一旦、ギエンヌを接収しているが、姉イザベラの交渉により、その一部を甥のエドワード王太子(3世)に返還している。フィリップ6世は血統が遠い分、気遣う必要が少なかった。

フィリップ6世は1331年の時点で弱冠19歳だったエドワード3世を甘く見ており、スコットランドでの勝利も当時7歳だったデヴィッド2世に対するもので子供の喧嘩のように感じていただろう。このため1334年にデヴィッド2世が亡命してくると保護するだけでなく積極的に支援を行い、同時にギエンヌにおける領主間の裁判においては常にイングランド王に不利な裁定を行った*14。

*14 エドワード3世に対する挑発であり、判決に従わなかったり、反抗姿勢を見せれば、それを理由にギエンヌの没収を宣言するつもりだった。

フィリップ6世はイングランド征服も考慮していたようだが、多分にあわよくばであり、ギエンヌを占領して早期に決着を着けられると思っていたようだ*15。

*15 フィリップ6世はスコットランド併合でイングランドが強化するのを嫌っただけで、スコットランドには何の同情も持っておらず、イングランドとの交渉においてギエンヌを放棄するのであればスコットランドへの支援を止めると提案している。

エドワード3世は1335年頃までは何とか講和してスコットランドへの支援を止めさせることを目指していたが、フランス側のギエンヌ没収の意図が堅いことを感じると戦争はやむなしと判断したようだ。

凡人であればギエンヌが狙われていればそちらへの増援を考える所だが、戦略眼のあるエドワード3世は、イングランドとギエンヌの距離では有効な支援ができないと判断して、ギエンヌでは防衛に徹して、ノルマンディ・フランドル方面に大軍を送り、フランス主力をそちらに向けさせることを考えたのである。

しかしイングランド軍はスコットランドにも対応しなければならず、また海上ではノルマンディ、フランドルの海軍勢力が強く、イギリス海峡ですら大軍を安全に送るには不安があった。

そこで神聖ローマ皇帝と低地(ネーデルラント)諸侯との同盟を試みた。皇帝はヴィッテルスバッハ家のルートビッヒ4世でアヴィニョンの教皇とは激しく対立して破門されており、親フランスのルクセンブルク家と皇帝位を争ってもいたため同盟には異存がなかったが、皇帝への賄賂と低地諸侯への傭兵支払いが莫大な金額となり、まず戦うより金策から始めるはめになった。

また、フランドルやエノーなど低地諸侯の半ばはフランスの封建臣下であり、味方にするにはエドワード3世がフランス王位を主張する必要があった。開戦時のフランス王位主張は、フランス諸侯や都市の味方を期待し、また和平交渉における取引材料とするためで、この時点では本気でフランス王に成れるとは思っていなかっただろう。しかし王位主張により戦いの規模は大きくなり、安易な妥協ができなくなって終結を長引かせることになった。

百年戦争が長期化した理由としては、以下のものが挙げられる。

・ローマ教皇の権威の低下
 中世盛期ではローマ教皇が強力な調停者として機能したが、アヴィニョン教皇や大分裂時代の教皇の威信は低下しており調停能力を失っていた。

・フランス王位主張
 フランス王位を主張したため規模が大きくなり、軍事的にはイングランドが有利だったため、落とし所が難しくなった。

・14世紀の危機
 寒冷化により飢饉が増え、黒死病などの疫病が流行り、社会が不安定になっていた。このような要因は戦闘の激化を抑える効果もあるが、中央集権的な社会よりアナーキー化した社会の戦争の方が決着が着かず、よりグズグズと長引き易い。

・余剰兵力
 十字軍の終了によりヨーロッパに余剰の兵力が溢れていた。レコンキスタも東方十字軍も既にヤマは越えており、余剰兵力はフランスやイタリアに流れていた。

とは言え、シャルル6世の狂気とブルゴーニュ派対アルマニャック派の内乱がなければ、シャルル戦争(1369年〜1389年)で一連の戦争は終わっていたかもしれない(これでも結構、長いが)。

百年戦争とは何だったのか(3) - エドワード戦争

フィリップ6世の戦略は、ノルマンディ、フランドル、ジェノヴァの海軍勢力によりイングランドの輸送を妨害し、スコットランドを支援することでイングランドに両面作戦を強い、速やかにギエンヌを占領して終結させるつもりだった。

1337年のギエンヌの没収はフランスのお尋ね者ロベール・ダルトワを匿ったこと等が公式の理由であるが口実に過ぎず*16、速やかに兵をギエンヌに送ったが、イングランドは防備を固め指揮官オリバー・インガムも有能だったため攻めあぐねた。一方、資金調達に苦労したエドワード3世は1339年まで実際の軍事行動は行えず、やっと動き出した連合軍も戦意は低かった。これを見たフィリップ6世は会戦を避けて持久戦に持ち込めば、イングランドは資金が尽きて自滅すると見たようだ。

*16 エドワード3世はロベール・ダルトワの身の安全と公正な裁判が保証されるなら引き渡す考えを示していた。

その目論見は概ね当たっており、カンブレー攻略に失敗した後は、支払いの遅れで連合軍は解散寸前になっていた。しかし、1340年にフランドルと同盟を結び、借金取りへの担保として妻フィリッパをフランドルに置いて*17、イングランドに戻ったエドワード3世は、強力な指導力を発揮し資金と兵と船を集めて出航し、フランス海軍がゼーラントのスロイスに集結していることを知り決戦を挑んだ。

*17 この時にヘントで生まれたのがジョン・オブ・ゴーントである。

フィリップ6世の目算はここから狂いだす。フィリップ6世はジェノヴァ船を加えたフランス海軍の優位を信じており、イングランド王が自ら決戦を挑んでくるとは思わなかった*18。しかし、多数のロングボウ兵による射撃はイングランドに優位を与え、最後にフランドル船隊が加わったことで、フランス艦隊は全滅した(スロイスの海戦)。

*18 騎士たちは船上での戦いは苦手であり、敗戦時に逃げることも難しいため、王がそのリスクを犯すことは滅多にない。ヴァイキングを除いて中世の海戦で王が率いたものは、ほとんど無いはずである。

その後のイングランドによるアルトワやトゥルネーへの攻撃は失敗したため2年間の休戦が結ばれた。神聖ローマ帝国や低地諸侯との同盟契約は解除されたが、むしろ有効に資金を利用できるようになったとも言える。状況はどちらにとっても思わしくなかったが、比較するとイングランド側に傾きつつあると言えた。

第一はブルターニュ公の死去により弟のジャン・ド・モンフォールと姪の夫であるフィリップ・ド・ブロワが争ったが、後者がフィリップ6世の甥に当たるため継承者の裁定を受け、負けたモンフォールはエドワード3世をフランス王と認めて支援を求めたため*19、1341年からブルターニュ継承戦争が始まった。戦況はブロワ派が有利だったが、港湾都市ブレストがイングランドの支配下に入ったため、新たな大陸への入り口及びボルドーへの中継点として利用できるようになり戦略の自由度が高まった。

第二に膠着状態になったギエンヌでは、イングランドやガスコーニュの略奪傭兵団がフランス南部を広域に渡って襲撃し、フランスの治安は乱れだし、ボディブローのように体力を奪っていくことになった*20。

*19 エドワード3世がフランス王位を宣言した理由の一つは、よくあった貴族の継承争いや領地紛争において、フランス王から不利な裁定を受けた側の支援要請を受けることで、狙いが当たったと言える。
*20 このような方法は住民の支持を失うが、国力で劣るため仕方がなかった。クレシーとポワチエの2度の決定的勝利にも係わらず、王になれず、割譲させたアキテーヌを維持できなかったのも、住民の支持を失ったことが大きい。

一般に戦闘はロングボウ兵が活躍するイングランドが有利であるが、外交・政略はアヴィニョン教皇とフランス王の権威を有するフランスが有利だった。従って、休戦期間中にはフランスが調略により状況を改善するが、イングランドも休戦しないと資金・資源が続かないため仕方がなかった。一方、略奪傭兵団は休戦中も活動を続けるためフランスの体力は奪われていき、双方にジレンマがあった。

百年戦争とは何だったのか(4) - クレシーの戦い

マレトルワの休戦(1343-1345)間に和睦交渉が行われたが、フランスはギエンヌの放棄を主題として、スコットランドへの支援の中止などを条件とし、イングランドはエドワード3世の王位主張を主題に含めることを要求しており*21、交渉の前提すら成り立たなかった。イングランドからすると、これだけの費用と手間をかけてギエンヌを放棄するのは問題外で戦闘による決着を望んでいた。

ちなみに、この期間中の1344年にガーター騎士団が創設され*22、エドワード王太子がプリンス・オブ・ウェールズに叙任されている*23。

*21 王位主張を主題に入れることで領土割譲などの代償の交渉に移れる。
*22 ガーター騎士団は名誉の騎士団の最初であり、英国の最高栄誉として現在まで続いている。
*23 王太子がプリンス・オブ・ウェールズに任命される伝統は、この時から始まっている。

外交、影響力で上回るフランスは、休戦期間中に有利な状況を作り上げており、1341年にはスコットランドにはデヴィッド2世が帰国し、1345年にはブラバント公やエノー伯はフランス王に帰順し、ブルターニュではモンフォール派の離脱が相次ぎ、フランドルではアルテベルデが暗殺されている*24。

しかし、戦意のない低地諸侯、練度の低いフランドルの市民兵、向背のはっきりしないブルターニュのモンフォール派などと共闘するより、ロングボウ兵を中心としたイングランド兵のみの方が戦術が明確となった。

*24 ただし、依然としてフランドルの中心都市(ヘント、ブルージュ、イープル)はイングランドとの同盟を維持していた。

交渉による解決が不可能なことが明らかになり、1345年から再開された戦闘は以前の和戦両方を探るような戦い方から変化し、ブルターニュとガスコーニュで激しい戦闘が繰り広げられた。

1346年に入ると戦況は大きく動いた。フランスは戦略的には間違っていなかった。エドワード3世のノルマンディへの遠征に合わせて、デヴィッド2世をイングランドに侵攻させ、主要城市を防衛しながら各地のフランス兵を呼び戻しサン・ドニに集結させ、十分な数的有利を作り上げ、フランドルへ撤退を計ったイングランド軍をクレシーで捉えたのである。

しかし、戦術的には最悪であり、強行軍での追撃の後に休息せずに攻めかかり、前夜に雨が降りジェノヴァ兵のクロスボウが濡れて使い難くなっているのを無視して前線に出し、相手ロングボウの万全の迎撃体勢に対して無思慮に騎士による突撃を繰り返して大敗した。

しかしクレシーの戦いはイングランドの大勝利とは言え、かって期待したような一戦での決着、つまりフィリップ6世の講和の申し入れやフランス貴族の雪崩のような鞍替えと言った状況は起こらなかった。イングランド軍も疲弊しており、ノルマンディの征服は無理と判断してイギリス海峡の最短距離の港湾都市カレー*25を1年近い包囲で奪ったのがクレシーの勝利の唯一の直接的成果だったと言える。

*25 この時代の船では天候によってはノルマンディにすら確実に大軍を送れる保証はなかった。手漕ぎボートでも渡れるカレーを所有したことは大陸への輸送という点で非常に重要である。以降、カレーは大陸への入り口となり、兵の運用の自由度が大幅に増している。

同年にはスコットランド勢もヨーク大司教率いる少数の留守番部隊に対して「ネヴィルズ・クロスの戦い」で大敗し、デヴィッド2世と主要貴族が捕虜となり、さらに1347年6月にブルターニュでも「ラ・ロシュ・デリアンの戦い」でシャルル・ド・ブロワが敗北し捕虜となり、8月1日には救援が得られず物資・食料が尽きたカレーが降伏している。

フィリップ6世の構想は完全に崩壊しているが、エドワード3世にも決め手がなかった。ブルターニュもスコットランドも主が捕虜となったにも係わらず抵抗は続いており、折りしも黒死病(ペスト)の流行が始まり、大規模な軍事行動が行い難くなった。しかし和平の動きは進まず、各地での戦闘は継続し、じわじわとイングランド領が拡大していたが、フランスはむしろアナーキ状態に近くなっており、フランス王の指導力は失われたまま、1350年にフィリップ6世は亡くなった。

百年戦争とは何だったのか(5) - 善良王ジャン2世

中世においては、災害や不運はしばしば神の怒りと解釈された。圧倒的有利だったはずのフランスのこの惨状は黒死病と合わせて、バロワ王家の正統性に懐疑を生むこととなった。

カペー朝の女系にはエドワード3世とナバラ王シャルル・デヴルー悪王(カルロス2世)*26がおり、フランス国内に領地を持つ外国の王と言う点で2人は似ているのだが、フランス貴族にとっては、男系でもフランス王族で、ほとんどフランスにいるシャルル悪王の方が馴染みがあった。

*26 ナバラの悪王 - シャルル・デヴルー 参照

1350年にジャン2世は速やかにランスで戴冠し異論を封じ、シャルル悪王に娘ジャンヌを与え、ラングドックの司令官に任じて懐柔したが、フランス貴族の動向には不審を抱いており、即位してまもなく王軍総司令官だったウー伯ラウル・ブリエンヌ*27を反逆の疑いで処刑している。少数の側近を重用し、中でもカスティラ出身のシャルル・ド・ラ・セルダ*29を王軍総司令官に任命し、アングレーム伯を与えたことはフランス貴族の怒りを呼び、中でもシャルル悪王はアングレーム伯の権利を主張しており、これを個人的な侮辱と受け取っていた。

*27 クレシーで捕虜になり、釈放の際にイングランドと取引を行っており、それが反逆行為と見なされた。
*29 当初はカスティラ海軍として1350年のウインチェルシーの海戦を指揮し、ジャン2世に仕えてからも功績を挙げている。

休戦を挟みながらもギーヌやギエンヌで戦闘が続いていたが、シャルル悪王が1354年1月にデ・ラ・セルダを暗殺して事態は急展開した。シャルル悪王はイングランドと同盟する姿勢を見せ、ジャン2世は激怒したが我慢して罪を不問にし、さらにノルマンディに新たに領地を与えて懐柔したが、悪王の態度に危機感を抱いたジャン2世はイングランドとの和平に積極的になり、4月から1年間の休戦を結びギーヌで交渉が開始された。

イングランドは王位継承権を放棄する代わりに、かってのアキテーヌ公領とアンジュー領(アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ)を宗主権ごと割譲することを要求していた。

領土の大きさだけなら交渉の余地はあるが、問題なのは宗主権放棄だった。宗主権を維持している限りフランス王国の枠組みは変わらないし、状況が変われば再び理由を付けて没収することが可能だが*30、宗主権を渡せば、イングランドとの併合か独立公国となり干渉が難しくなる。このためフランスとしては問題外だった。

*30 だからこそイングランドも宗主権に拘った。これまでもオマージュや裁判の不服などで問題が生じており、恒久的な解決を求めていた。

11月にジャン2世はシャルル悪王のフランス領地の没収を宣言し、自ら軍を率いて大部分を速やかに接収し、1355年2月にはイングランドの要求を拒否して再び戦争の準備を始めた。

ジャン2世は既に36歳で、以前から戦争下手な父に代わって軍事を引き受け、限定した範囲においては成果を上げており自信を持っていた。1351年にガーター騎士団を真似て星騎士団を創設*31するなど武勇や騎士道精神を好んでおり、バロワ家の正統性を明らかにするためにも戦闘による決着を望んだようである。

*31 名誉の騎士団であるガーター騎士団と比べると実戦的な騎士団で当初300人が叙任された。しかしフランス王家の威光が低下しているため100人しか集まらなかったという。

一方、イングランドは4月になるとノルマンディ、ギエンヌの両方面から攻勢にでることを決め、エドワード黒太子(25歳)をボルドーに送った。

シャルル悪王は一旦はジャン2世と和解していたが、再びイングランドとの提携を計ったため、1356年4月にジャン2世は悪王を逮捕・拘禁し、後顧の憂いを除いて決戦に備えた。一方、エドワード黒太子はフランス南部一帯を略奪騎行により荒らし回っていた。

9月に黒太子がツールへの略奪騎行を実施すると、ジャン2世は大軍を召集してこれを追い、ボルドーに戻ろうとしていた黒太子をポワティエの近郊で捉えた。ここまでは理想的だったが、騎士道精神を重んずるジャン2世はすぐには攻撃せず降伏を呼びかけた*32。

*32 王の立場としては、正統性を証明するという意味でも、なり振り構わぬ勝利は不味いのである。

教皇の使者も同行していたため交渉は長引き、ジャン2世の要求が厳しすぎたとも*33、黒太子が単に時間を稼いだだけとも言われるが、交渉は決裂し、黒太子は陣形を築いてロングボウ兵を配置する万全の体勢を整えることができた。

*33 黒太子が略奪品の放棄と2年間の戦闘行為の自粛を申し出たが、ジャン2世は全軍が降伏して捕虜となることを要求したとも言われる。

フランスが圧倒的に数的有利だったにも係わらず、「ポワティエの戦い」はイングランドの大勝利で終わり、ジャン2世と多くの貴族が捕虜となった。

百年戦争とは何だったのか(6) - パリと民衆の反乱

「ポワティエの戦い」で国王ジャン2世は捕虜となった。チェスで言えばチェックメイトで、同じ王であるエドワード3世もそう信じたと思われるが、ゲームとは違い戦争には審判がおらず*34、諦めない限り試合終了にはならないのである。

*34 往年の教皇の権威であれば審判役を果たせるのであるが、アヴィニョン教皇はどちらの陣営にも強い影響力を持てなかった。

これはフランスにとって大災害だったが、皮肉なことに後に賢王と呼ばれた王太子シャルル(5世)が政権を握ることに繋がり、災い転じて福となったとも言える。

しかし、直後のフランスは大混乱に陥り、シャルルは未だ弱冠18歳に過ぎず、ポワティエの戦いで王を残して逃げた*35という汚名もあり立場は弱く、王の身代金などの協力を呼びかけて10月に開かれたパリの三部会は商人頭エティエンヌ・マルセルら第3身分に主導された。

*35 ジャン2世が逃げるように指示したと思われるが、早い時期に離脱したとも言われる。当然2人揃って捕まっては終りという考えはあったが、元々、王太子は思慮の足りない父に批判的だったとも言われる。

エティエンヌ・マルセルは当初は王、貴族の不甲斐なさに怒り改革を迫った愛国者だった*36。イングランドでは既に都市市民の代表が加わった議会が政治に重要な位置を占めており、本来、国力で優っているフランスの惨状は第3身分の意見が反映されないからだと思っただろう。

*36 パリの商人頭は人口20万人の都市の事実上の為政者であり、単なる民衆、庶民ではない。都市市民の愛国の対象は通常その都市だが、王都という性格上、フランス王国全体に対する関心もあっただろう。

王権に制限をかける評議会の設置を巡ってシャルル王太子との争いが激化する中で、貴族や他の地域の代表らが離脱していったため、1357年11月にエティエンヌ・マルセルは幽閉されていたシャルル悪王を釈放し連携するが、1358年1月に王太子は軍勢を率いて再びパリに入城した。これに対して2月にパリの民衆が宮殿を襲撃し王太子の役人を惨殺したため王太子は逃れ、対立は決定的となった。

一層の先鋭化に孤立し始めたパリは5月に農民反乱であるジャックリーの乱が起こる*37とこれと連携し、王太子は対応する余裕がなかったが、ノルマンディに所領を持つ悪王は貴族の要請もありジャックリーの乱を討伐し6月には乱が収まった*38。

*37 別個に偶発的に起きたと見られているが、パリと関連のある地域であり、予め煽動していたのかもしれない。
*38 反乱農民も討伐する貴族も非常に残虐な行為を働いたようで、中世の残虐さを思い知らされる。

追い詰められたエティエンヌ・マルセルは再び悪王を頼るが、7月に悪王がイングランド傭兵と共にパリに入るとイングランド兵を嫌った市民との衝突により追い払われた。悪王の報復を恐れた市民達は王太子を頼り、7月末にマルセルが暴動で殺害され、王太子がパリに帰還してエティエンヌ・マルセルの乱は終結し、以降は王太子のペースとなった。

エドワード3世はこれらの動向に関しては静観しジャン2世との間で交渉を進め、1959年5月にアキテーヌ及びアンジュー・メーヌ・トォレーヌの完全割譲、ブルターニュ、フランドルの宗主権譲渡*39、400万エキュの身代金*40等を含むロンドン条約を締結したが、フランスは三部会でこれを拒否した*41。

*39 完敗し捕囚の身であるジャン2世は、自分の身の解放とバロワ家が王位を維持することを優先したのだろう。
*40 ジャン2世は身代金の額を上げることを要求したと言われるが、身代金は本人の身分・価値を表すものであり、低いのは侮辱と見なされる。エドワード3世はフランス王を主張していたため、ジャン2世をフランス王として認めていなかった。
*41 王太子としては父王の命令に逆らうわけにいかないため、三部会の決定という形で拒否したのだろう。条件が厳しすぎるのもあるが、王の早期解放を望んでいないようであり、この辺に親子間の亀裂が感じられる。

これに怒ったエドワード3世は、10月にカレーから略奪しながら進撃し、12月にはランスで戴冠を目指したが、ランスの守りは固く、既にジャックリーの乱や略奪傭兵団により各地は窮乏しており、十分な物資・食料を得られなかったため1ヶ月余りで包囲を解いた。ブルゴーニュではブルゴーニュ公から免除金を受け取り、1360年4月にはパリを囲んだが、王太子が挑発に乗らない*42ため1週間で包囲を解き、シャルトルに向かったが、途中で天候が悪化し激しい嵐に会い、これを神の怒りと感じたエドワード3世は再び和平交渉に臨んだ。

*42 シャルル王太子は既に悪王とも和解して備えており、戦闘を避けて城市の防衛に徹した。

1360年5月にアキテーヌの割譲*43と300万エキュの身代金に条件を軽減したブレティニィ条約が結ばれ、10月にカレー条約として正式に批准され両者は終戦し、ジャン2世は解放されてパリに帰還した。しかし、中世においては王が止められるのは王の戦争だけであり、フランス中に割拠する略奪傭兵団はそのまま占拠を続けており、ブルターニュでは交渉が行われていたがモンフォール派とブロワ派の継承戦争は継続していた。

*43 現時点で所有していたポンチュー、カレー、ギーヌも正式に割譲された。

百年戦争とは何だったのか(7) - 賢王シャルル5世

1361年にブルゴーニュ公が死去するとシャルル悪王が女系の長系だったが、同じく女系だが親等が近いジャン2世が継承し、後に息子のフィリップ(豪胆公)に与えた(ブルゴーニュ公国 参照)が悪王はこれを恨んで、略奪傭兵団の支援を再開した。

ジャン2世は略奪傭兵団を討伐するためにアルノー・ド・セルヴォル*44とラ・マルシェ伯、タンカルヴィル伯などを派遣したがリヨンで敗れて、略奪傭兵団は一層、傍若無人に暴れまわった。

*44 ArchPriest(主席司祭、大司祭)と呼ばれた傭兵隊長。毒をもって毒を制する手法だろう。マイケル・クライトンの「タイムライン」にも登場する。

何をやっても裏目に出るジャン2世は、1362年7月にパリに戻った際に、王太子がカレー条約に不満であることを聞き、さらに彼の代わりにイングランドで人質となっていたルイ(アンジュー公)が逃亡しフランスに戻ったことを知り大いに恥じ入り*45、捕虜として戻ることを決意し、1364年1月にロンドンに戻り大歓迎されたが、まもなく死去した*46。

*45 身代金のための人質というのは、質草が傷をつけないように丁重に扱われるのと同様に、名誉を持って扱われる。人質が逃げ出すのは、金を払わずに質草を盗み出すのに似た行為なのである。
*46 騎士道精神を重んじたからだが、王太子との考えのズレから自分が退いた方がフランスの為と考えたとも思える。自分の死が近いことを感じて名誉を優先したのかもしれない。

1364年に入ると悪王は略奪傭兵団を集めて、ノルマンディとブルゴーニュに侵攻する計画を建てた。

シャルル王太子は各地の略奪傭兵団を討伐するにあたって、戦上手なブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランを登用しており*47、一方、悪王はポワティエの戦いで活躍したガスコーニュの貴族ジャン・ド・グライーを黒太子の紹介で雇っており、彼等は5月にコシュレルで激突しゲクランが快勝した。悪王の企図は阻止され、王太子は勝利の報に祝福されて即位することができた。

*47 ブルターニュ継承戦争ではブロワ派としてレンヌ包囲戦の防戦に活躍したが、和平交渉で停戦になったため、1359年6月のムラン包囲戦から王太子の軍に参加していた。

ゲクランも同年9月のブルターニュ継承戦争の決着を着けたオーレの戦いで捕虜となったため、悪王はその後もしばらく戦いを続けたが、1365年にシャルル5世と和解した。

新王シャルル5世は父王とは正反対で、読書好きで武張ったことは好まず、騎士道精神とは遠い沈着冷静なリアリストだった。若年ながら既に国政の経験を積んでおり、急がず着実にフランスの国力を回復し再興する布石を打っていった。

例えばエドワード3世はフランドルの支配を狙ってルイ・ド・マールの娘マルグリッドと息子エドマンド(ヨーク公)の結婚を締結したが、シャルル5世はアヴィニョン教皇に承認しないよう働きかけ、弟のブルゴーニュ公フィリップとマルグリッドの結婚を決めるなど、外交・政略で徐々に優位を築いていた。

残る懸案は、フランス各地の城市を占拠している略奪傭兵団だが、その撤去は大変だった。彼等は戦争に慣れた歴戦の兵士でゲリラ戦も得意なため、まともに戦えば大きな被害を覚悟しなければならず、しばしば交渉によって退去させたが、自信のある傭兵団は多額の退去料や城市の買取を要求した。さらに、立ち退いた彼等は出国せず、他の傭兵団に合流したため、残った傭兵団の規模はさらに大きくなり、その被害は拡大した。

アヴィニョン教皇庁も略奪傭兵団に手を焼いており*48、オスマン・トルコへの十字軍に向かわせることを企画したが、経路の住民達の反対により頓挫していた。ちょうど、この頃、カスティラのペドロ残酷王と対立した庶兄のトラスタマラ伯エンリケがフランスからの援軍を求めていた。残酷王は妻のブルボン公女ブランシュをずっと幽閉した後に殺害したと見られており、フランス王としては敵対する理由があった*49。さらにフランスに割拠する傭兵団を国外に出し、エンリケを王位に就けてカスティラを同盟国にすれば一石二鳥であり、多額の身代金で釈放させたゲクランを起用した。

ゲクランは傭兵達を上手く取りまとめ*50、グラナダ王国への十字軍と称してアヴィニョンに行き、教皇に免罪と支援金を要求し*51、その後、エンリケと合流してカスティラに入った。残酷王は戦わずにトレドに引き、やがてポルトガルに亡命したため、エンリケ(恩寵王)はカスティラ王に即位した。

*48 教皇庁は略奪傭兵団が最も苦手だった。権威が低下したとは言え、普通の王侯はそれなりに敬意を払うが、無頼の傭兵は破門を恐れないからである。
*49 シャルル5世妃ジャンヌの姉であるため個人的にも侮辱や憤慨を感じていただろう。
*50 元々、ゲクラン自体が傭兵隊長と同様の出自で、似たような活動をしていた。また傭兵は国や(特別な恨みが無い限り)以前の敵対関係には拘らなかった。
*51 教皇庁では「普通は金を貰って免罪するのに、金を渡すのは前代未聞」と憤慨したが、傭兵達を恐れて要求を呑んでいる。

しかし、残酷王はアキテーヌに向かい、黒太子に援助を要請した。カスティラが親フランスとなるのを避けるため、イングランドは支援を了承したが、その費用は残酷王が支払うよう取り決めた。

封建道徳では主たる主君(リージュ・ロード)と戦うことは反逆とされるため、黒太子が傭兵を召集するとゲクランと共に居たイングランド、ガスコーニュの傭兵はアキテーヌに向かい黒太子の指揮下に入った。

1367年に黒太子はカスティラに入って「ナヘラの戦い」で軽騎兵主体のカスティラ軍に快勝し、ゲクランを捕虜にし残酷王を王位に戻したが、残酷王は約束の報酬を払わなかった(払えなかった)。憤慨して黒太子はアキテーヌに戻ったが、既に健康を害していた。

百年戦争とは何だったのか(8) - シャルル戦争

ペドロ残酷王からの支払いがなく、財政に窮したエドワード黒太子はアキテーヌに炉税を課したが、これに不満な現地領主のアルマニャック伯やアルブレ伯などがパリに訴えた。

カレー条約では、アキテーヌは宗主権ごとイングランドに割譲されており、シャルル5世に裁判権は無いはずであるが、パリの法律家たちは、カレー条約では領土の引渡しが完了した時点で、イングランド王が王位主張を撤回し、フランス王がアキテーヌの宗主権を放棄するとしており、未だ王位主張が撤回されていないため、依然としてフランスが宗主権を持つと主張して*52、1368年11月にシャルル5世は召喚を命じたが、怒った黒太子は「自分が好きな時に大軍を率いてパリに行く」と答えた。

*52 これは詭弁と言える。契約は両者が誠意を持って定めたプロセスを進めることが前提であり、締結した時点で、エドワード3世はフランス王として、そして同様にシャルル5世もアキテーヌの宗主として権限を行使すべきではない。例えば、エドワード3世はフランス王の主張を取り止めているため、自分が支援したブルターニュ公ジャン4世がシャルル5世にオマージュすることを認めているのである。

ゲクランはシャルル5世から借りた身代金で釈放され、1369年にカスティラでは再びエンリケ恩寵王とゲクランが勢力を回復して、3月に残酷王を殺害し*53、フランスはカスティラとの同盟を強化した。

*53 この辺の事情は分かり辛い。ゲクランとの交渉に来た残酷王を恩寵王が自分で殺害したとも、捕らえられた残酷王を処刑したとも伝えられる。

同年5月にシャルル5世は満を持して、アキテーヌの没収とカレー条約の破棄を宣言した。しかしフランス側の戦果はあがらず、8月にリモージュがフランス側に寝返ったが、健康を害していた黒太子は担架に乗って出陣し、これを攻略し懲罰として市民を皆殺しにした*54。

状況を打開するため、1370年10月にシャルル5世はゲクランをカスティラから呼び戻し王軍総司令官に任命し、また同じブルターニュの貴族オリビエ・ド・クリソン*55も登用した。

*54 病気で思うように動けず苛立っていたせいもあるだろう。この残虐行為によりノワール、つまり黒太子と呼ばれたとも言われる。これは寝返りを防ぐための見せしめを意図していたが、却って住民の支持を失い、無抵抗での開城を増加させた。
*55 「オーレの戦い」ではゲクランと戦っている。騎士の家のゲクランより家格は高く、対抗意識が強かったようだが、彼自身も優れた指揮官だった。ゲクランの死後に王軍総司令官に就任しており、シャルル6世の信頼も高かったが、彼の発狂の原因を作っている。

シャルル5世の基本戦略は相手主力との会戦を避け、補給を脅かし、疲れを待って撤退する所を追撃するというファビアン戦術だった*56。本質的に騎士・貴族はこのような戦いを好まないため、シャルル5世は戦略会議でゲクランとクリソンに問診したが、両者共にこの方針に賛同した*57。

*56 騎士道精神には反しており、現実主義者のシャルル5世ならではだろう。
*57 戦好きの2人が賛同することで、他の貴族に受け入れられ易くなった。当然、事前に打ち合わせていたと思われる。

ゲクランは小戦や城攻めの名手だった。騎士道に拘るフランス騎士がやり難い奇襲や策略*58を得意とした。城攻めにおいては城の防衛力の判断が的確であり、防御が強く士気の旺盛な主城は避け、防備が弱いと判断した城は必ず攻略した。その評判が高まると、やがてゲクランが陥落させると誓いを立てると、抵抗は無駄と感じて開城する城市が相次いだ。周辺の城市の開城に堪らず主城から援軍が出ると、それを的確に捉えて打ち破り、意気消沈した主城に安全な退去を条件とした開城を迫った。野戦でも1370年12月4日のロワールのサント県におけるポンヴァヤンの戦い*59での勝利など、瞬く間にフランスを有利に導いた。

*58 農夫や木こりに変装したり、あるいは捕虜とした敵の甲冑・衣服を着けて城に侵入したこともある。騎士道だけでなく現代の戦時法でも違法である。
*59 イングランド軍は主将のロバート・ノルズから別れた分隊で、総指揮官がおらず統一した行動が取れなかった。被害も大きくはなかったが、無敵の評判が失われ、その影響は大きかった。

1372年6月にはラ・ロシェルの海戦でフランス・カスティラ海軍がイングランド海軍を破り、ポワトゥー、サントンジュ、ポワティエ、ラ・ロシェルなどは雪崩を打ってフランス側の支配下に入った。

イングランド側は、エドワード3世は老齢で動きは鈍く、黒太子の健康は悪化しており、反撃の遠征軍も天候不良により引き返し、10月には黒太子はイングランドに帰国している。代わりに指揮を取るジョン・オブ・ゴーントは軍事才能に乏しく、熟練の指揮官たちは既に死亡や捕虜となっており*60、打つ手を失っていた。

*60 ジョン・チャンドスは戦死しており、グライーは捕虜となったまま身代金による釈放は許されず、ロバート・ノルズは解任されていた。

勢いづいたフランスはブルターニュと悪王の所有のノルマンディの領地を攻略し、ブルターニュ公ジャン4世は堪らずイングランドに逃亡した。その後のジャン4世とジョン・オブ・ゴーントの反撃も成果はなく、1375年に2年間の休戦条約が締結された。1376年にエドワード黒太子、1377年にエドワード3世、1380年にゲクラン、シャルル5世が死去しており、イングランドとフランスの戦闘は散発的で、ほぼ終結しており、イングランドに残っているのはギエンヌとカレーだけだった。

フランスは1378年にシャルル悪王の全フランス領地を没収し、さらにブルターニュを併合するが、ブルターニュの貴族はこれに反発し*61、ジャン4世を迎え入れて抵抗したため、シャルル5世の死後の1381年に取り消された。

*61 フランスの直接支配下に入るより、非力なブルターニュ公の下の方が自由だった。またブロワ派もジャン4世に男子が無い場合の継承権を持っており、併合には反対した。

百年戦争とは何だったのか(9) - ランカスター戦争

イングランドにギエンヌとカレーが残ったのは、イングランドからの支援を受けられるカレーを落とすのは困難であり、百年戦争以前の領土であるギエンヌを奪うと激しく反攻される可能性があるからだろう*62。

シャルル5世はエドワード3世の死後、シャルル悪王とブルターニュにケリを着けた後にギエンヌを奪うつもりだっただろうし、それは容易だったと思うが、ブルターニュの反抗が長引き、その間にゲクランもシャルル5世も死去し、跡を継いだシャルル6世は幼君で、後に精神異常を示してブルゴーニュ派とアルマニャック派の内乱に繋がったため果たせなかったのだろう。

*62 相次ぐ敗戦で、イングランドでは厭戦気分が高まっており、休戦には異存がなかった。

シャルル戦争後から1415年のランカスター戦争までの経緯は、謎の暴君リチャード2世ブルゴーニュ公国を参照されたい。

イングランド側もやはり幼君のリチャード2世であり、その後の君臣間の亀裂により、改めてフランスへ大攻勢をかける余裕はなく、1399年のリチャード2世の廃位とヘンリー4世の即位の後、ウェールズの反乱(オワイン・グリンドゥールの乱)やヘンリー・パーシー(ホットスパー)の反乱が起き、国内の鎮圧に手一杯だった。

しかし、反乱鎮圧の中心となった王太子ヘンリー(5世)は、相次ぐ反乱やパーシーとネヴィルのような貴族間の私闘を無くすには、戦争を再開して共通の敵を作り、そのエネルギーをフランスに向けるべきだと考えたのだろう。幸い、シャルル6世は精神異常を示し、その摂政権を巡ってブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が内戦に進展しており好機だった。

イングランドとフランスが同じような状況にありながら全く正反対の行動を取ったのは、英主ヘンリー5世と狂気王シャルル6世の差である*63。

*63 むしろヘンリー5世(29歳)と王太子ルイ(18歳)との差かもしれない。

ヘンリー5世は、これまでのエドワード戦争、シャルル戦争の経緯を十分に研究したようである。

エドワード戦争では二度の決戦(クレシー、ポワティエ)に完勝し、戦闘では概ね有利でありながらフランス王位は得られず、一旦、劣勢になるとカレー条約で正式に割譲を受けたアキテーヌも簡単に取り返されている。

その原因としては、次の点が挙げられる。

・北部においては、征服よりもフランス貴族や都市が味方になることを期待したが、フランドルやシャルル悪王のノルマンディ領地やブルターニュのモンフォール派が一時的に味方になっても信頼はできず、あまり戦力にもならなかった。

・開戦の主因がギエンヌだったためアキテーヌでの領土拡張に注力したが、イングランド本土から遠いため、一旦劣勢になると防衛し切れなかった。

・北部に征服地を広げなかったため、戴冠するためにパリやランスを狙っても占領できなかった。

・略奪傭兵団を使ってフランスの安定を乱し体力を奪ったが、イングランドに対する敵意を生み出すことになった。

そこでヘンリー5世は、略奪傭兵団に頼らず、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立の間隙を突いて、正攻法で北部のノルマンディを征服し、パリやランスを占領して実力で戴冠することを目指したようで*64、1415年にノルマンディに上陸し重要な港湾都市アルフルールを包囲したが、陥落に予想以上に時間が掛かり、カレーに引き上げる途中*65で「アジャンクールの戦い」が起こった。

*64 ノルマンディからパリは目と鼻の先である。
*65 クレシー、ポワティエ、そしてアジャンクールの全てが、引き上げ途中のイングランド軍をフランスの大軍が捉えるパターンである。

フランス側はブルゴーニュ公ジャン無怖公は参加しなかったが、弟のブラバント公アントワーヌやヌヴェール伯フィリップも参戦しており、数的には十分だったが、封建軍は総大将が王か王太子*66でなければ機能しないのである。一応、オルレアン公シャルルが王族筆頭として総大将格であるが、当時21歳で貫禄はなく*67、王軍司令官ドルー伯シャルル・ダルブレが作戦を立てても大貴族たちは従順に遂行したりはせず、思い思いに攻撃を仕掛けるのである。

*66 狂気王シャルル6世は勿論、王太子ルイも従軍していない。
*67 せめてジャン無怖公なら、もう少し貫禄はあるが、アルマニャック派は従わないだろう。

戦場は耕されたばかりの農地で前夜に雨が降ってぬかるんでおり、当初の騎士突撃は杭で守られたロングボウ兵に達せず、地面を一層、泥沼にし、下馬したフランス重装兵のプレートにはロングボウの矢は貫通しなかったが、混雑した中で泥地を長距離歩くことにより疲弊して足を取られ、イングランドの重装兵は元より、矢が尽きたロングボウ兵の剣や斧での攻撃*68にすら耐えられなかった。

*68 ロングボウ兵の軽装の方が泥地では動き易かった。

主要な貴族のほとんどが戦死か捕虜となり、フランス側は大打撃を受けたが*69、イングランド側の消耗も大きく、一旦、イングランドに引き上げている。

この辺は熟練の猟師のようで、手負いの獣にすぐに止めを刺すのではなく*70、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦でさらに疲弊するのを予想していたのだろう。1417年から本格的な征服を始め、重要な要衝カーンとフォレーズを陥落させ、1418年7月にはノルマンディの首府ルーアンを包囲した。

*69 イングランドは百年戦争前半のように簡単に身代金で釈放することはせず、フランスは人材不足に陥った。
*70 窮鼠猫を咬むと言うように手負いの獣は危険である。

予想通り内戦は収まらず、ブルゴーニュ派がアルマニャック伯を暗殺しパリを制圧しているが、ブルゴーニュ派も救援軍を派遣できず、1419年1月にルーアンは陥落し、ノルマンディの残りの地も順次イングランドの支配下に入り、7月にはポントワーズが陥落してパリ近郊までイングランド軍が迫った。

さすがに危機を感じたジャン無怖公は、シャルル王太子*71との和解を望んで、9月にモントロー橋で会見したが、ここで暗殺された。

*71 兄ルイ、ジャンの相次ぐ死により、1417年に王太子となった。

この事件はフランスを驚愕に陥れ、劇的な結果を生んだ。ブルゴーニュ公の跡を継いだフィリップ善良公は激怒して直ちにイングランドと同盟し、ブルゴーニュ派とイングランドはシャルル6世と王妃イザボーを確保し、1420年のトロワ条約により、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の結婚、王太子シャルルの廃嫡、ヘンリー5世をフランス王の後継者としシャルル6世の摂政とすることを取り決めた。これは国王シャルル6世が承認し*72、三部会の議決を得た正式な決定だった。

あれだけ苦労したイングランド王のフランス王就任は、シャルル王太子派の無思慮な行動により、一気に決着してしまった。

*72 シャルル6世がその内容を理解していたかは別問題である。

百年戦争とは何だったのか(10) - ヘンリー6世

長く続いたブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立に疲れていたフランス、特に北部の民衆はこの決定を好意的に受け入れた。1421年に息子ヘンリー(6世)も生まれ*73、絶頂状態だったヘンリー5世だが1422年に急死し、続けてシャルル6世も亡くなったため、状況は再び混沌としてきた。

ヘンリー5世の弟ベドフォード公ジョンがヘンリー6世の摂政となってフランスでの指揮を取り、1423年には新たにブルターニュを加えた三者同盟を締結し、1424年のヴェルヌイユの戦いでは、王太子・スコットランド連合軍に勝利している*74。

*73 さすがにエドワード3世の母イザベラの継承権では無理があり、シャルル6世の娘カトリーヌの血を引いた息子が必要だった。
*74 王太子派の王軍司令官はスコットランドのバカン伯ジョン・スチュアートが任命されていたが、彼を始めとしてスコットランド軍は壊滅に近い被害を受け、アランソン公など多くのフランス貴族も捕虜となった。

これに対して、王太子シャルルはブルージュで戴冠し王を名乗ったが、反対派からは侮蔑的にブルージュ王(ブルージュのみの王)あるいは単にドフィーネ(王太子)と呼ばれ続けた*75。

*75 母イザボーがシャルル6世の子ではなく王位継承権が無いことを仄めかしたとされ、また和平の場で卑怯な暗殺を行ったとして、反イングランド派においても人気が無かった。

双方もたつきながらも、イングランド優位で1428年10月からオルレアン包囲戦が始まったが、彗星のごとく出現した*76「神のお告げ」を受けたと称する農民の娘ジャンヌ・ダルクにより、続くロワール戦役、7月のランスでのシャルル7世の戴冠と状況を一気に覆した。

*76 陰謀論的には、ジャンヌの出現はシャルル7世の義母ヨランド・ダラゴンやその息子ロレーヌ公ルネの差し金とも言われるが、彼女は強い自我を持っており、その行動は彼女の意思で、それをヨランド達が利用したのだろう。

しかし、その後のパリ攻撃は成功せず、ジャンヌは1431年にルーアンで異端として火刑になり、同年にヘンリー6世はパリで戴冠している。戦争は膠着状態に陥り、シャルル7世はブルゴーニュ、ブルターニュとの和解交渉を密かに進めていた。

ようやく教会大分裂も終わり統一された教皇は、オスマン・トルコの勢力が強まる中で、十字軍派遣の為に英仏の和睦を願っており、シャルル7世を信用できない*77フィリップ善良公も教皇が主導する国際的な合意で保証されることを望んだ。

*77 シャルル7世はジャン無怖公を和平の場で騙し討ちしているのである。

アラスでの和平交渉は本来は国際使節が見守る中でイングランド、フランス、ブルゴーニュの和解を討議する場だったが、既にフランスはブルゴーニュと内密に合意に達しており、憤慨したイングランドの代表が退出した後に、両者は和平条約を締結した。シャルル7世をフランス王として認め、ブルゴーニュには現在の支配地を認めるという妥協案だった。

1435年のベドフォード公ジョンの死とアラスの和はイングランドにとって衝撃だった。ベドフォード公亡き後、イングランドを纏められる者はおらず、ブルゴーニュ派との共闘なしでは、フランスでの戦略は根本から変える必要があった。

アラスの和はイングランドではブルゴーニュの裏切りと受け止められ、主戦論が復活したが、ブルゴーニュの支援なくしては大陸におけるイングランドの立場は弱く、リシュモンとブルゴーニュの将軍の攻撃により1436年にパリから退去した。しかし、1436年のブルゴーニュ公によるカレー攻撃は、グロスター公ハンフリーや市民の協力で跳ね除けた。

1437年に16歳になったヘンリー6世が親政を始めたが、気が弱く精神に異常のあるヘンリー6世では指導力を発揮することは不可能で、ボフォート枢機卿やサフォーク伯ウィリアム・ドラポール等の和平派とグロスター公ハンフリーやヨーク公リチャード等の主戦派に分かれて対立した。

フランスでは若きヨーク公リチャードが活躍したが、今や住民達は完全にフランス側に付いており、農民達はしばしば隙を突いてイングランド兵を襲うこともあり、パリ奪回やフランス征服が不可能なことは明らかだった。

一方、フランスでは1440年に王太子ルイ(11世)と有力貴族によるプラグリーの乱が起きるが*78、王軍総司令官リシュモンの活躍で速やかに鎮圧されている。

*78 フランス側はもはや内輪揉めする余裕を持っている。

ヘンリー6世ら和平派は、1445年にフランス王族アンジュー公ルネ(ナポリ王、ロレーヌ公)の娘マーガレットと結婚することにより和平を望んだが、フランス王シャルル7世は婚資としてアンジュー、メーヌを受け取るだけで戦争を止めるつもりはなく、イングランド側では婚姻の条件を巡って主戦派の不満が強く、結婚を主導したウィリアム・ドラポールの失脚につながり、一層、混乱した。

フランス側は勢いづいて、1449年にルーアン、1450年にノルマンディ全土、1451年にボルドーを陥した。ボルドーはギエンヌの首府であり、アリエノール・ダキテーヌヘンリー2世と結婚して以来、三百年間に渡りイングランド王領だったため、市民の支持を受けてジョン・タルボットが一旦、取り返したが、1453年に再び奪われ、イングランドはカレー以外の全大陸領土を失い、一般的にこの時点で百年戦争は終わったとされる。

この報にショックを受けたヘンリー6世は精神不安定な状態が続き、和平派の王妃マーガレット、サマセット公エドマンド・ボーフォートらが政権を握り、主戦派のヨーク公リチャード、ウォリック伯リチャード・ネヴィル等と激しく対立し、1455年から薔薇戦争が始まる。

百年戦争とは何だったのか(11) - 総括

カレーがイングランドに残ったのは、イギリス海峡に面してイングランドとの最短距離にあり、海側を封鎖できなければ容易に陥ちないことに加えて、ブルゴーニュの勢力範囲にあり、ブルゴーニュ公としてはフランスとの対立が再燃した場合を考えて、敢えて強引に奪おうとしなかったからである。

こうやって辿ってみると、前半(エドワード戦争、シャルル戦争)と後半(ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内乱、ランカスター戦争)を一つの戦争としてまとめるのは、やはり無理があり、却って理解し難くなっているように思われる*79。

*79 例えば主要な決戦であるポワティエの戦いとアジャンクールの戦いの間には60年の年月があり、国際情勢や兵器技術などは大きく変わっている。

確かに前半において双方に遣り残し感はあり、内乱の両派から援助を請われたヘンリー5世がカレー条約の領土の割譲やフランス王位を要求したのは前半戦を踏まえてのことだが、戦いの構図は激変している。

前半に焦点となったギエンヌは後半ではあまり問題にされずノルマンディの征服が中心であり、前半では交渉条件に過ぎなかった王位要求が、後半では実現している。

前半ではジャン2世やフランスの騎士は元より、エドワード3世、黒太子、ゲクランなども戦闘においては現実主義だが、それ以外では騎士道精神に拘ったが、後半のブルゴーニュ派とアルマニャック派の内乱では暗殺や謀略が幅をきかせ、ランカスター戦争ではアジャンクールで捕虜を殺害するなど、もはや言及されることは少なくなっている。

面白いことにフランスが勝っている時はブルターニュ人が王軍司令官である。ベルトラン・デュ・ゲクランと違って、オリビエ・ド・クリソンとアルチュール・ド・リシュモンは名門の御曹司だが、フランスほど騎士道物語の影響が強くなかったらしく、現実的な作戦を立てられたようだ。ちなみに、ジャンヌ・ダルクも当然、騎士道の影響などは受けていなかっただろう。

フランス貴族の意識も変わっている。前半ではガスコーニュはもちろん、旧アキテーヌ領やノルマンディの貴族たちはエドワード3世を自分達の主君と見なすことに、あまり問題を感じていなかったが、後半では、ヘンリー5世を外国の王と認識しており、ブルゴーニュ公を通してイングランド王と同盟しているとの感覚が強くなっている。このため、アラスでブルゴーニュ公とイングランドの同盟が失われると、イングランドの立場は一気に悪化している。

兵器という面では、後半では初期的ではあるが、手筒(ハンドキャノン)*80や大砲と言った火器が使用され始めている。イングランドのノルマンディ征服が予想以上に早かったのは、大砲を含めた攻城兵器を用意したからで、一方、フランスは1440年頃から火器を充実させ、最後の戦いとなったボルドーをめぐる「カスティヨンの戦い」では決定的役割を果たした。

*80 小銃の走りだが、構造は手持ちサイズに縮小した大砲で、引き金もなかった。

戦略的には、前半はエドワード3世とバロワ朝フランス王が互いに外交、戦略を駆使した総力戦だった。いずれの王もそれなりに優秀で、エドワード3世、シャルル5世、エドワード黒太子は言うに及ばず、あまり評判の良くないフィリップ6世やジャン2世も見るべき点はある。

ところが、後半は、シャルル6世の発狂に端を発するブルゴーニュ派とアルマニャック派の内乱やシャルル王太子(7世)によるジャン無怖公殺害は完全にフランス側の自業自得の自滅で、ヘンリー5世の死とジャンヌ・ダルクの出現に助けられている。そして、イングランド側もヘンリー6世の精神障害により、主戦派と和睦派、そしてヨーク派とランカスター派の争いにより自滅しており、どちらがよりダメかを競う泥仕合だった。

百年戦争を通して、もし、黒太子が病気に罹らなければ、シャルル6世が狂気でなければ、シャルル7世がジャン無怖公を殺害しなければ、ヘンリー5世が早死にしなければ、ジャンヌ・ダルクが現れなければ、ヘンリー6世が精神錯乱でなければ、など色々な決定的要因(イフ)が存在し、それが異なれば戦況や結果は大きく変わっていただろう。

しかし、仮にイングランドの勝利でシャルル7世を捕えて幽閉しても、フランス王家の男系には、オルレアン家、アンジュー家があり、これらを全て幽閉または殺害すると、今度は最大の脅威となりえるブルゴーニュ家が継承のトップに来てしまう。一方、イングランドの継承権者はヘンリー6世だけで、グロスター公ハンフリーやヨーク公リチャードがイングランド王になってもフランス王を主張することは難しかっただろう*81。

*81 一応、エドワード3世の母イザベラの継承権を主張していたが無理があり、シャルル6世の娘カトリーヌの血統が必要だった。

それでも、ヘンリー6世とその子孫の英仏同君連合が継続すれば、王は主にフランスに居住して、イングランドはその後背地となった可能性が強く*82、イングランドの方がフランスに文化的に従属したかもしれない*83。尤も、ヨーク家が反乱を起こしてイングランドが独立した可能性もありえる。

*82 ノルマン朝やアンジュー帝国時代には、王はほとんどノルマンディなど大陸にいた。後にスコットランド王ジェームスがイングランド王になったが、ロンドンから統治してスコットランドが後背地のようになっている。
*83 リトアニアとポーランドもそうであり、イングランドにとっても百年戦争に負けて良かったと考える人も多い。

百年戦争の結果、イングランドとフランスにおける国家意識が形成されたと書かれることもあるが、島国であるイングランドはノルマンやフランスとの関係が深いにも係わらず、平民も参加する議会がある程度の権限を持っていたこともあり、百年戦争開始時には既に国家としての纏まりは持っていた。

一方、フランスは公益同盟の終結をもって、やっとブルゴーニュやブルターニュを併合し、国家の入り口に辿り着いた程度であろう。

とは言え、フランスは一級国としてイタリア戦争に注力しハプスブルク家と欧州の覇権を争うようになり、二級国に成り下がったイングランドは、フランスとハプスブルクのキャスティング・ボートを狙いながら、ブリテン諸島の統合に関心を強めていくことになった。両者が再びライバルになるのは、1689年の第二次百年戦争からである。

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