エレアノール・ダキテーヌ

エレアノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine、1124年ー1204年3月31日)は、アキテーヌ公領相続人で、フランス王ルイ7世妃、イングランド王ヘンリー2世妃。イングランド王リチャード1世ジョンの母親で、当時の欧州で最も強力な女性と呼ばれた。アリエノールと表記されることも多い。

アキテーヌ宮廷愛トルバドゥールで知られる南仏文化の中心地で、彼女はその雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時としては高い教育を受けて育った。 彼女の兄が早世したため、彼女はアキテーヌ公領の相続人として、1137年、15歳でフランス王太子ルイと結婚した。

1147年に第二回十字軍が派遣されるとき、彼女はアキテーヌ軍を引き連れ、夫ルイ7世と共に参加した。フランス軍が小アジアでセルジューク朝軍に惨敗したとき、エレアノールが危険な場所で休息したがった為だと非難された。 アンティオキアに入り、彼女が叔父のアンティオキア公レイモンを支援し、エデッサ伯領を奪回することを主張したのに対し、ルイ7世はこれに反対し、彼女を拘束して、エルサレムに向かった。ダマスカスへの攻撃は失敗に終わり、二人はフランスに帰ったが、1152年に離婚(婚姻の無効)した。間には娘が二人いる。

離婚してわずか6週間後の1152年5月18日に、エレアノールは11歳年下のアンジュー伯、ノルマンディー公アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と結婚する。その後13年の間に息子5人と娘3人を産むが、ヘンリーとの仲は悪化し、1168年ごろにアキテーヌに戻った。1170年のトマス・ベケットの暗殺はエレアノールを激怒させた。 1173年に若ヘンリー王がヘンリー2世に反乱をおこすと、エレアノールはこれに加わろうとしたが、ヘンリー2世に捕まり以降15年に渡り監禁された。1189年若ヘンリーが死亡すると、リチャードの反乱を支援した。リチャードが即位後、第三回十字軍に遠征した際、摂政を務めた。 1204年、息子のジョン王の治世中に死亡した。

彼女は奔放で多くの愛人を持っていたといわれる。また、息子の中ではリチャード獅子心王が最もお気に入りで、彼のロマンティシズムは母親譲りと思われる。

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