ギヨーム・ド・ティール

ギヨーム・ド・ティール(Guillaume de Tyr、1130年 - 1185年)は十字軍時代のティール大司教でエルサレム王国の歴史を記述した歴史家。

1130年頃に十字軍の第2世代としてエルサレムで生まれた。両親は、フランスイタリア系の豊かな商人だったと考えられている。

当初エルサレムで教育を受け、後のボードゥアン3世の学友となった。その後、聖職者として西欧で教育を受け、1165年にエルサレム王国に戻りアッコンの司教座聖堂参事会員になった。その後、ティールの助祭長となり、王国の外交官としても活躍した。1170年にボードゥアン4世の教育係となり、ボードゥアンの皮膚の病に最初に気づいている。また、この頃からエルサレム王国の歴史の記述を始めている。

1174年にボードゥアン4世が即位するとギヨームは大法官に任命され、1175年にティール大司教となった。1177年には病気のエルサレム総大司教に代わって、モンフェラート侯ギヨームの葬儀を取り仕切った。1179年に第3回ラテラン公会議に出席し、十字軍を要請するが成功しなかった。1180年に戻り、エルサレム総大司教の最有力候補者と考えられたが、王国の宮廷派と貴族派の派閥争いのあおりを受け、貴族派のトリポリ伯レイモンの被保護者と見なされていたギヨームは宮廷派の王母アニエスに嫌われ、選出されなかった。

その後もティール大司教を勤め、歴史を記述していたが、1185年ごろ亡くなったと考えられている。

彼の主な著作は23巻からなるエルサレム王国の年代記であり、十字軍以前のシリアの歴史からはじまり、第1回十字軍、エルサレム王国成立を経て、彼の死の1180年代で中断している。

彼の著作では、王母アニエスをはじめとして宮廷派の人物が悪く書かれているが、彼がエルサレム総大司教座などをめぐって政治的に宮廷派と対立した点に留意すべきである。

アーカイブ

ページのトップへ戻る