聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団( Knights Hospitaller)は、11世紀に起源をもち、本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務とした騎士修道会だが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロードス騎士団マルタ騎士団とも呼ばれる。

目次

設立

1023年ごろアマルフォの商人が、エルサレムの洗礼者聖ヨハネ修道院の跡に、病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことに始まる。第1回十字軍の後、プロバンスのジェラールの努力によって、1113年に教皇パスカリス2世から、騎士修道会として正式な承認を得た。当初は、病院・宿泊所としての役割が強かったが、やがて、1119年に設立されたテンプル騎士団と同様に軍事的要素を強めていった。この時代は聖ヨハネ騎士団か病院(ホスピタル)騎士団と呼ばれる。

騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、聖ヨハネ騎士団だけで、2つの大要塞と140の砦を守っていた。 1187年にエルサレムが陥落した後も、トリポリやアッコンを死守していたが、1291年、遂に最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落した後は、キプロスに逃れた。この後は、海軍(海賊)勢力となり、イスラム勢力と戦ったが、キプロス王が彼らの存在を恐れたこともあり、1309年にビザンティン領であったロードス島を奪い、ここに本拠地を移した。これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになる。

ロードス島

1312年にテンプル騎士団の資産が没収されたとき、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられた。また、中東のイスラム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、西欧から多額の寄進を受けることができた。

ロードス島を本拠地として、イスラム海賊と戦ったとされるが、実際は、その近辺を通るイスラム船をさかんに襲撃した。当時の船は商船も武装するか護衛船を付けるのが普通だったため、これをイスラムに対する聖戦、船の漕ぎ手に使役されるキリスト教徒奴隷の解放と大義名分を掲げることができたが、イスラム教徒から見れば海賊行為で、双方同じようなことをやっていたと言って良い。

騎士団の構成員は騎士が500人程度で、母国語によって8つ(フランス、イタリア、イングランド、ドイツ、アラゴン、カスティーリャ、オーベルニュ、プロバンス)の騎士館グループに分かれていた。各グループ毎に騎士館長(戦闘の際には部隊長となる)がおり、全体を騎士団総長が統率した。

1444年にエジプトのスルタン、1480年にオスマン帝国メフメト2世の襲撃を受け、これを撃退した。西欧では久しぶりのオスマン・イスラム勢力に対する勝利として、騎士団の評判は高まったが、1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵で来襲した。騎士団側は雑兵まで含めて7千人ばかりで必死の防戦を繰り広げたが、衆寡敵せず、遂にロードス島を明け渡しシチリア島に撤退した。

マルタ島

再び、本拠地をなくした騎士団だが、教皇クレメンス8世と皇帝カール5世の斡旋によりシチリア王からマルタ島を借りるすることになった。賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽である。1565年に再びオスマン帝国の大船団に襲われることになるが、スペインの救援により撃退することができた。続く1571年のレパントの海戦でもマルタ騎士団の船が参加している。 マルタ島でも同じように(対)海賊行為を行い、マルタ島はイスラム奴隷売買の中心地となった。

16世紀にプロテスタント運動が盛んになると、西欧各地の騎士団領は没収されるようになり、その力と存在意義は次第に失われていき、17世紀になると、ロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれるようになった。

1798年、ナポレオンがエジプト遠征の際にマルタ島を奪ったため、根拠地を失った騎士団はロシアを頼り、1801年にロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選んだ。1803年には再びカトリックの総長に戻るが、以降、求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになる。1834年に本部はローマに移った。

現在

現在、その系譜を継ぐ主要な組織はマルタ騎士団国を参照のこと。

聖ヨハネ騎士団を扱った作品

  • 塩野七生『ロードス島攻防記』(1985年 新潮社)

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