マティルデ・ディ・カノッサ

マティルデ・ディ・カノッサ (Matilda di canossa、1046年ごろ-1115年7月24日)はトスカナ伯で、所領のカノッサ城でいわゆる「カノッサの屈辱」事件が起こった。

彼女の父トスカナ候ボニファチオは、トスカナからロンバルディア一帯を所有する大貴族で、彼女は兄姉を早くに失い一人娘だったため、1052年に父が亡くなった時、8歳で女性相続人となった。ロートリンゲン公ゴドフロワ4世(ハンチバック)と結婚し、娘を産んだが、娘はまもなく亡くなったと言われる。1076年に夫と母親を亡くし、一人で所領を治めることになった。

ローマ教皇神聖ローマ皇帝との争いでは一貫して、ローマ教皇側を支持し、1077年にローマ教皇グレゴリウス7世がアウグスブルクでのドイツ諸侯会議へ向かう途中、ハインリヒ4世の接近を知りカノッサに避難してくると、これを保護し「カノッサの屈辱」事件となる。

ハインリヒ4世が反撃を始めると、教皇派として皇帝派と戦うが、1080年にモデナ近辺の戦いで敗れ、トスカナを失う。1081年にさらに大部分の所領を失うが、グレゴリウス7世とドイツ諸侯との連絡役として活躍する。1085年にグレゴリウス7世が亡くなると、後を継いだウィクトル3世を支持し、1090年にバイエルン公ヴェルフ5世と結婚する。ハインリヒ4世は再びイタリアに侵攻してきたが、1092年にカノッサ近くで、敗れ撤退する。マティルデは、1095年ごろヴェルフ5世と別れ、1115年に後継者が無いまま亡くなり、その所領は教皇領、皇帝領となったが、領域内の各都市はその後、自立の方向に向かい、北イタリアの都市国家郡が形成されることになる。

マティルデの娘が生きていたという説もあり、ルネッサンスの巨匠ミケランジェロは、マティルデの子孫を称していたという。

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