アルチュール・ド・リッシュモン

アルチュール・ド・リッシュモン(Arthur de Richemont、1393年8月24日 - 1458年12月26日)は百年戦争後半にフランス王軍司令官として活躍した軍人。ブルターニュ公ジャン4世の息子で当初パルトネ卿、リッチモンド伯(名目のみ)、後に甥(兄の子)のピエール2世の跡を継ぎブルターニュ公アルチュール3世(在位:1458年)となった。

リッチモンド伯はブルターニュ公に代々与えられてきたイングランドの爵位であるが、ジャン4世の死後はベッドフォード公ジョンに与えられていた。しかし、ブルターニュ公家では、その後も伯位を自称しアルチュールに与えたため、アルチュールはリッチモンドのフランス語読みのリッシュモンと呼ばれた。

概要

アルチュールはブルターニュ公になる以前からフランス宮廷において重要な存在であり、カリスマとなったジャンヌ・ダルクの支持者の1人であった。彼はその頑固さと癇癪で知られており、その為に1427年には宮廷から追放されているが、1433年に宮廷闘争の勝利により、シャルル7世の寵臣を追放して影響力を取り戻し、シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ善良公とのアラスの和約を取りまとめた中心人物の一人となった。

アルチュールは1410年から1414年の内乱ではアルマニャック派に属してブルゴーニュ派と対立した。1415年のアジャンクールの戦いでは負傷し、イングランド軍の捕虜となったが、1420年に解放され、トロワ条約を承認するよう兄のブルターニュ公ジャン5世を説得した。1422年にはイングランドからトゥーレーヌ公に叙爵されたが、1424年に王太子の陣営に戻った。1425年に王軍司令官に任じられ、1429年のパテーの戦いではジャンヌ・ダルクと共に戦った。1435年のアラスの和約の取りまとめに尽力した。この和約により、フランスとブルゴーニュは和平を結び、イングランドを敗北に導いた。1450年のフォルミニーの戦いでフランス軍を率い勝利し、ノルマンディを再征服した。

アルチュールはブルターニュ公の一族であるため、単なる軍人としてではなく政治的な動きも多く、フランス、イングランド、ブルゴーニュの間で揺れたり、その仲を取り持ったりと複雑な動きをしている。また、シャルル7世の宮廷においても、シチリア女王ヨランド派として宮廷闘争に加わっている。しかし、決定的な戦闘における勝利と王軍の改革に貢献し、百年戦争をフランスの勝利に導いた。

家族

アルチュールは3度結婚しているが、嫡子はいなかった。庶子にジャクリーヌという名の娘がおり、1443年に嫡出子に改めている。彼の死後、ブルターニュ公は甥(弟の子)にあたるフランシス2世が跡を継いだ。

  • マルガレート(1423年10月10日結婚、1441年死亡)、ブルゴーニュ公ジャン無怖公の娘で王太子ルイ(シャルル7世の兄)の未亡人
  • ジャンヌ・ダルブレ(1442年8月29日結婚、1444年死亡)、ドリュー伯シャルル2世・ダルブレの娘
  • カトリーヌ・ド・サンポール(1445年7月2日結婚、1492年死亡)、サンポール伯ピエール1世の娘

アーカイブ

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