イングランドの無政府時代
イングランドの無政府時代(The Anarchy)とは、内乱に明け暮れたスティーブン王の治世時代 (1135-1154)を呼ぶ。
目次 |
発端
ヘンリー1世には、20人を超える庶子がいたが、相続権を持つ嫡子は二人きりだった。1120年嫡子ウィリアムを船(ホワイトシップ)の遭難事故で失った。この事件後、ヘンリー1世は後妻を迎えたが、子供は生まれなかったため、1127年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世に先立たれていた娘のマティルダ(通称「女帝モード」)を呼び戻し、後継者に指名し諸侯にこれを誓わせた。さらに、モードの立場を強化するために、有力フランス貴族のアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚させた。この婚姻は、従来、敵対していたアンジュー家を味方にする効果がある反面、イングランド及びノルマンディー諸侯の反感を買うことになった。
スティーブンの即位
1135年にヘンリー1世が死ぬと、王の甥(妹の息子)に当たるブーローニュ伯エティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーブンとなった。スティーブンはヘンリー1世が死ぬ間際に彼を後継者に指名したとした主張し、また、弟のウィンチェスター司教ヘンリーの協力により教会の支持を受け、マティルダへの誓いは強制された状態で行われたため無効とした。 イングランド及びノルマンディー諸侯は、イングランドで初めての女王に対する抵抗感とノルマンディーの代々の宿敵であるアンジュー伯に対する警戒心から、スティーブンの即位を支持した。 モードは誓約違反をローマ教皇に訴えたが、教皇とカンタベリー大司教はスティーブンを支持し、これを却下した。モードの伯父に当たるスコットランド王デイヴィッド1世 (スコットランド王)も1138年にスタンダードの戦いに敗れると引き上げてしまった。
モードのイングランド上陸
しかし、スティーブンの失政により、1138年、モードの庶兄グロスター伯ロバートが叛旗をひるがえし、ウィンチェスター司教ヘンリーも教会への干渉に反対し、支持を取り消した。1139年、モードは支持勢力を引きつれ、イングランドに上陸し、グロスター伯ロバートと合流した。1141年2月にリンカーン近辺で両軍は激突し、スティーブンは敗れ捕虜となった。モードはロンドンに入り、「イングランド人の女主人」"Lady of the English"と称した。しかし、彼女の高慢な態度は反感を呼び、まもなくオックスフォードに撤退を余儀なくされた。一方、スティーブンの妻マティルダは傭兵隊を率いて抗戦を続け、1142年9月にウィンチェスター近辺の戦いでグロスター伯ロバートを捕虜にした。このため、捕虜交換が行われ、スティーブンは王位に戻った。モードはオックスフォード城で包囲されたが、雪の中を密かに脱出した。この脱出行は後に伝説となった。
その後、戦いはだらだらと続けられたが、1147年にグロスター伯ロバートが亡くなると、モードはアンジューに帰った。一方、夫のジョフロワはノルマンディー攻略に専念し、1144年、ノルマンディー公を称したが、1151年、熱病にかかり、まもなく死亡した。この内戦で彼は一度もイングランドへ行っていない。
この内戦により、イングランドは無政府状態となり、アングロサクソン年代記では、この期間を「キリストとその聖者たちが眠っていた」と評している。
終息
1153年、スティーブンの嫡男ユースタシュが原因不明で急死した。気力を失ったスティーブンはモードの息子アンリとウォーリングフォードで和平協定を結び、自身の王位の承認と引き換えにアンリを王位継承者とした。 1154年10月25日にスティーブンがドーバーで死去し、協定に従いアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、ここにプランタジネット朝が成立した。
総括
この内戦は双方それなりに正当性を有していたため、日本の南北朝や応仁の乱と似た展開となっている。諸侯の士気は低く、各々の都合のみを考えて戦ったり寝返ったりしたため、戦いが長引き世は乱れた。
トリビア
スティーブンにはもう一人息子がいるにもかかわらず、アンジュー伯アンリを後継者としたため、アンリは実はスティーブンの子ではないかと噂が立った。実際、王位継承問題が起こるまでは、モードは夫のジョフロワとは仲が悪かった反面、従兄弟のスティーブンとは仲が良かったらしい。