ブルターニュ継承戦争

ブルターニュ継承戦争(Breton War of Succession、1341-1364年)は百年戦争初期において、ブルターニュ公の継承争いにより起きた戦争でイングランド王、フランス王が介入し、両者の代理戦争の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年のオーレの戦いで勝利したジャン4世[1]がフランスの支援を受けたシャルル・ド・ブロワを破って最終的に公位についたが、フランス王シャルル5世と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。

オーレの戦い

目次

背景

ブルターニュ人は古代にブリテン島から移住してきたケルト人で民族的な繋がりがあることと、中世になってブルターニュ公がイングランドのリッチモンド伯を与えられたことにより、イングランドとの関係は深かった。しかし、アルチュール1世が亡くなった後、アンジュー家に代わって公位についたドゥリュー家はフランス王との関係も良好だった。

ブルターニュ公ジャン3世の父アルチュール2世は最初の妻マリーとの間にジャン3世、ギー等の子供がいたが、2番目の妻モンフォール女伯ヨランド(元スコットランド王アレグザンダー3世の妻)との間にジャン等の子供達を持った。父の死後、公位についたジャン3世はヨランドとその子供である異母弟たちを嫌い、ヨランドの婚姻の無効を申請して、ジャンらの相続権を奪おうとしたが認められなかった。ジャン3世には子供が無く、跡継ぎとして同母弟のギーを指名していたが、1331年にギーは亡くなっている。このため、その娘ジャンヌが跡継ぎと見なされたが、後にジャンとも和解しており、1341年4月30日に亡くなった時には特に跡継ぎを指定しなかった。

このため既にモンフォール伯を相続していたジャン・ド・モンフォールとパンティエーヴル伯を相続していたジャンヌが共にブルターニュ公の相続権を主張した。

ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王フィリップ6世の姉であり、フィリップ6世は甥夫妻の相続を支持した。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、既に百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王エドワード3世をフランス王と認めて、その支援を求めた。

興味深いことにエドワード3世は女系継承によりフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王となったが、ブルターニュではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし、継承制度は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。

ジャン・ド・モンフォールの捕獲

ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都のナントリモージュ等の主要都市を押さえ、8月までにレンヌヴァンヌを含むブルターニュ公領の大部分を支配下におさめた。

1341年当時には、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にChamptoceauxの戦いで勝利し、ナントを陥落させジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。

ジャンヌ伯妃の徹底抗戦

しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して西ブルターニュのアンヌボン(Hennebont)に籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士を連れて包囲を突破しブレストに行き、援軍を引きつれて再びアンヌボンの包囲を突破し城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウイリアム、サー・ウォルター・マーニーの援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。

イングランド軍のカレー侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側に付いていたロベール3世・ド・アルトワが戦死している(母がブルターニュ公家出身)。

イングランドの直接介入

1342年11月にエドワード3世はブレストに到着しヴァンヌを包囲したが、1343年1月にローマ教皇の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として、1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。

1344年3月ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワはカンペールを包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵の内、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ叛逆者として処刑された。

シャルル・ド・ブロワ捕獲

1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。 エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を計ったが失敗し、まもなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。

ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロシュ・デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワはラ・ロシュ・デリアンで戦い、シャルル・ド・ブロワは敗北し捕虜となった。

終わらない戦い

こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの元で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。

両派の戦いは、その後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の騎士が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という騎士道物語のような事件も起きており、フロワサールの年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。

1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側のロングボウの脅威を減少させようとしたが、激戦の末、イングランド側が勝利を収めた。

1356年にランカスター伯ヘンリーはブルターニュに入り、レンヌを包囲した。包囲は1357年7月まで続き、ヘンリーは多額の補償金を受け取り包囲を解いた。この時にレンヌ籠城で名を上げたのがブロワ派のブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランである。ゲクランは、この活躍によりシャルル5世に抜擢されている。

1357年にジャン4世が成人しブルターニュ公になったが、同時にポワティエの戦いの後のイングランド、フランス間の和平協定の中でシャルル・ド・ブロワも釈放されたため、再び2人のブルターニュ公が存在することになった。ブルターニュでも和平の話し合いが始まり、一時はブルターニュを分割することで話がまとまりそうだったが、パンティエーヴル女伯ジャンヌは了承せず、1362年に戦いが再開された。

終結

1364年ジャン4世、イングランドのジョン・シャンドスが率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王とのコッシュレルの戦いで名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍がオーレの戦いで激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。

フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせてブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。しかし、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだため、1373年にジャン4世は追放され、1378年にはブルターニュはフランス王領に併合された。しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、シャルル5世の死後の1381年に和解が成立し、ジャン4世が復帰した。

脚注

  1. ^ イングランド側の記録ではジャン・ド・モンフォールをジャン4世とし、以降1代づつずれるが、ジャン・ド・モンフォールをブルターニュ公に含めないフランス側の表記の方が一般的なため、それに従った。

参考文献

  • T. F. Tout, The History of England From the Accession of Henry III. to the Death of Edward III. (1216-1377),[Project Gutenberg]
  • Guizot, Franc,ois Pierre Guillaume,A Popular History of France from the Earliest Times, Volume 2, [Project Gutenberg]

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