ジャン・フロワサール

反乱軍と会見するリチャード2世

ジャン・フロワサール(Jean Froissart、1337年頃 - 1405年頃) は中世年代記作家。フロワサールの年代記は百年戦争前半における重要な歴史資料であり、14世紀におけるイングランドフランスにおける騎士道文化を記した文化的傑作とも評価されている。

目次

生涯

彼の生涯はほとんど知られておらず、彼自身の著作における記述から覗えるのみである。彼はエノー出身で、父は紋章の絵描きだったとされている。当初、商人になろうとしたが後に事務官と成り、24歳ごろにエノー伯の娘でイングランド王エドワード3世王妃フィリッパに宮廷詩人兼歴史記録係として仕えた。

1361年から1369年までフィリッパに仕え、その間の覚書も後に年代記に含められている。彼はイングランドスコットランドウェールズフランスフランドルスペインと各地を旅し、1368年にはミラノでエドワード3世の次男クラレンス公ライオネルとミラノ公爵ヴィスコンティの娘との結婚式に出席した。この結婚式にはペトラルカチョーサーも出席している。

フィリッパの死後、様々なパトロンをもったが、特にブラバント公妃ジャンヌの庇護を受けた。1395年にイングランドに戻ったが、騎士道の終焉を見てひどく失望したといわれる。彼の死亡の場所、年は明らかではないが、1405年頃イングランドで亡くなったと考えられている。

フロワサールの年代記

全4巻からなり、1322年から1400年までの百年戦争前半における出来事がフランス語で記述されている。彼が自ら目撃したことや目撃者から直接聞き取った部分もあるが、以前に記述されたJean Le Belの年代記をコピーしている部分もある。

重要な史料ではあるが、フロワサールの記述は以下の点に注意する必要がある。

  • 記述はあまり正確とは言えず、特に戦闘における人数に誇張が見受けられる。
  • その時の彼のパトロンの立場により、記述が偏向する傾向がある。
  • フランドルに関しては詳細なことにまで多くの記述を割いている。
  • 貴族に好意的であり平民の反乱には冷淡である。

年代記は300万語に及ぶ膨大なものであるが、一部に重複した記述もあり、些細な出来事を繰り返し記述する傾向もある。しかし、彼の戦闘の記述は写実感にあふれており、当時の風習や様子が細かく読み取れるため、社会歴史学者の興味を引いている。

100を超える彩飾写本が作られており、それぞれの装丁者が色々な挿絵(細密画)を入れているが、最も有名なものが1470年にフランドルの貴族Louis of Gruuthuseが作らせた写本(BnF Fr 2643-6)で、112個の当時最も有名な画家による挿絵が付けられている。

挿絵には若ヒュー・ディスペンサーの処刑やニコポリスの戦いの後のオスマン・トルコ軍による捕虜の虐殺等、残酷なものも含まれている。

第1巻

第2巻

第3巻

  • 未遂に終わったイングランド侵攻の準備
  • フランス宮廷における最後の決闘裁判
  • リチャード2世と叔父たちの争い
  • オッターバーンの戦い(スコットランド)

第4巻

写本(BnF Fr 2643-6)の挿絵

アーカイブ

ページのトップへ戻る