ボードゥアン1世
ボードゥアン1世(Baldwin I of Jerusalem、不明 - 1118年4月2日)は第1回十字軍の指導者の1人で、初代エデッサ伯となり後に初代エルサレム王(在位:1100年 - 1118年)となる。
ボードゥアンはブローニュ伯ユーグの3男で、当初、僧籍に入る教育を受けていたが途中で還俗し、長兄のロートリンゲン公ゴドフロワの下でヴェルダン伯となる。
第1回十字軍時には兄のゴドフロワ、ユーグ、従兄弟のボードゥアン・ド・ブールと共に参加した。ハンガリーでは、部隊の安全な通過のためにボードゥアンが人質としてハンガリー王の元に留められた。コンスタンチノープルでは、逆にビザンティン皇帝の息子(後のヨハネス2世コムネノス)を人質として預かったときに、ボードゥアンがその対応を行った。ビザンティン側から十字軍を記録した皇女アンナ・コムネナの手記によると、「配下の兵士が皇帝の玉座に対して無礼な働きを行ったとき、それを咎めた」とされ、礼儀と規律に厳しかったことがうかがえる。
小アジアで他の十字軍から分かれ、同様に領土を欲するノルマンのタンクレッド(ボヘモンの甥、後にアンティオキア公国摂政)と共にキリキアへ向かったが、途中でタンクレッドと争うようになり、タンクレッドはアンティオキアに戻った。一方、ボードゥアンはエデッサの領主ソロスに誘われて、その後継者となり、まもなくソロスが暴動で殺されると替わってエデッサを支配した。(エデッサ伯国参照)
1100年に「聖墳墓の守護者」だった兄のゴドフロワが死んだ時、ボードゥアンはエデッサ伯国をボードゥアン・ド・ブールに譲り、エルサレムに入ってエルサレム王ボードゥアン1世となった。
エルサレム総司教だったダゴベルトは、エルサレムを教皇領とすることを望み、これに反対したが、エルサレムではなくベツレヘムで戴冠することで妥協した。
1101年の十字軍ではラマラで大敗したが、その後アッコン、ラマラ、トリポリ、シドン、ベイルートなど領土を広げた。1118年にエジプト遠征中に食中毒により亡くなった。ボードゥアン1世は3回結婚しているが子供は無く、エデッサ伯を継いでいたボードゥアン・ド・ブールが2代目エルサレム王となった。