バウンティ号の反乱

バウンティ号の反乱(Mutiny on the Bounty)は、18世紀のイギリスの軍艦バウンティ号で起きた艦長に対する反乱事件。当時の話題となり、その後多くの文学作品、映画などを生んだ。

バウンティ号は、タヒチ島からパンノキ西インド諸島に運ぶ任務のために、貨物船を買い上げて臨時の軍艦としたもので、軍艦としては小型だった。

乗組員は艦長ウィリアム・ブライと上級仕官3人、士官6人、下士官26人、水夫10人の計45人だった。ウィリアム・ブライは33歳で、艦長になるのは初めてだった。

1787年にイギリスを出航し、喜望峰を周ってインド洋に出て、1788年10月にタヒチ島に到着した。航海中にブライは航海長のジョン・フライアを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャンをNo2に抜擢している。

1789年4月までパンノキやその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在し、その期間中、クリスチャンはタヒチの女性と結婚し、多くの船員も現地生活を楽しんだ。3人の船員が脱走の罪で逮捕され、鞭打ち刑を受けた。

1789年4月4日にタヒチ島を出航し、4月28日にフレンドリー諸島(トンガ)で反乱がおきた。途中の死亡者を除き、当時の乗組員44人のうち反乱者はクリスチャン以下12人だった。ブライ艦長以下19人は救命艇に乗せられ追放され、非反乱者のうち13人は船に残された。

ブライの指揮する救命艇は41日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の難所トーレス海峡を通り、チモール島にたどり着いた。

一方、反乱者を乗せたバウンティ号は トゥブアイ諸島に3ヶ月滞在したが、その後、タヒチ島へ向かった。16人の船員がタヒチ島に残り、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男六人、女11人、赤子1人)を乗せて、フィジークック諸島を経て、1790年1月に、イギリスの海図に載っていないピトケアン島にたどり着いた。現在バウンティ湾と名づけられた場所でバウンティ号は燃やされ、現在でもその残骸が残っている。

1790年3月15日にブライ達はイギリスに戻り、反乱を報告した。1790年11月にパンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の捜索のために出航した。1791年3月にパンドラ号はタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕した。その後もバウンティ号の捜索を続けたが、8月30日にグレートバリアリーフの近くで、暗礁に乗り上げ沈没した。31人の船員と4人の囚人が死に、残った89人の船員と10人の囚人が、1792年にイギリスに戻った。10人のうち、4人が無罪、2人が有罪だが恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になった。

ブライも軍法会議にかけられたが、無罪となり、職務に復帰した。彼の経歴は傷つかず、すぐに別の船プロビデンス号の艦長として、1791年に同様の任務を行い無事成功し、後に提督(中将)に昇進している。

1808年にアメリカ船トパーズ号が、ピトケアン諸島にやってきたとき、唯一、水夫ジョン・アダムスのみが生き残っていた。その他の者は、病気、自殺、事故、喧嘩により既に死亡していた。クリスチャンは殺されたと言われている。彼の子孫は現在も残っている。1825年にアダムスは恩赦となり、1838年ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。

反乱の原因ははっきりしない。ブライ艦長の部下の扱いが苛酷だったと考える者もいるが、彼の行った処罰は当時の平均と比べて厳しくは無い。タヒチ島で楽園の暮らしを送った後のため、船員の不満が起こり易かったことも原因の1つと考えられる。

また、反乱が成功した要因としては、上級士官の数が少なかったこと、海兵隊を乗船させていなかったことが挙げられる。ブライはその後の航海で、上級士官数を増やし海兵隊を乗せている。

その後のピトケアン諸島

1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、多くがニュージーランド等に移民し、現在は47人しか残っていない。現在の島の村長、ステーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫である。

2004年9月に7歳の女児に対する性的虐待の容疑で7人の島民が起訴され、再び注目を集めた(ピトケアン島性的虐待裁判)。

作品

  • 映画『バウンティ/愛と反乱の航海』(1984年)

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