ヌールッディーン
ヌールッディーン(Nur al-Din Zangi)はシリア等を支配したザンギー朝の君主。ザンギーの子で十字軍諸国やエジプト(ファーティマ朝)、ダマスカスと戦い領土を広げ、イスラム勢力の統一を計った。ヌレディンまたはヌール・アッディーンと表記されることが多い。
1146年、父のサンギーが暗殺された後、その所領を兄と分割し、アレッポの太守となった。イスラム勢力の結集を計り、セルジューク朝の諸地方政権と同盟を結んで、アンティオキア公国や所領奪回を目指すエデッサ伯と戦った。 1148年に第二回十字軍が襲来したが、彼らはエルサレム王国と親しかったダマスカスを攻め、ヌレディンとダマスカスを接近させてしまった。 第二回十字軍が成果を挙げず撤退した後、アンティオキア公国の所領の大部分を奪い、アンティオキア公レイモンを捕らえて処刑した。その後、エデッサ伯も捕らえられ、ヌレディンの支配は安定した。1154年にはダマスカスもザンギー朝の支配下に入り、シリアの大部分を支配下におさめた。1164年ごろまで、十字軍勢力と戦う傍ら、ビザンティン帝国と同盟し、セルジューク朝のスルタンと争った。
エジプトのファーティマ朝がエルサレム王国の攻撃を受け、支援を求めてくると、彼のクルド人将軍シール・クーフ(その甥がサラディン)をエジプトに派遣した。1169年にはサラディンがエジプトの宰相になり、これを完全に支配下に置いた。しかし、サラディンは事実上自立し、1171年、1173年のヌレディンのエルサレム攻撃にも参加せず、却ってエルサレム王国が両勢力の緩衝地帯として存続することを望んだ。1174年にヌレディンはエジプト遠征の準備をしていたが、熱病にかかり死亡した。彼の息子が後を継いだが、1185年にエジプト(アイユーブ朝)に併合された。
エルサレム攻略や第三回十字軍との戦いにより、イスラムの英雄としてサラディンが有名だが、その基盤はヌレディンが作ったといって良い。