スロイスの海戦

スロイスの海戦、フロワッサールの年代記の挿絵

スロイスの海戦(1340年7月24日 )は百年戦争における主要な海戦の1つ。ゼーラント(現オランダ)のスロイスの港においてイングランド海軍がフランス海軍を壊滅させて、以降の制海権を握った。

目次

背景

1337年に宣戦して以降、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入したが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。1340年には資金も枯渇したため、戦略を変えてアルテべルデの指導の元でフランドル伯を追放して自治政府を作っていたフランドル都市連合と同盟を結び、妻のフィリッパをブルージュに残して新たな兵と資金を集めに一旦、イングランドに戻った。一方、フランスはノルマンディジェノヴァ傭兵からなる大海軍を集結させ、イングランド海岸や船舶をしばしば襲っており、イングランド侵攻を狙っていると噂されていた。エドワード3世は大臣を挿げ替え、議会を開いて資金を得て、可能な限りの船と兵を集めてフランドルに向かった。

戦闘

フランス海軍はゼーラントのエクリューズ(スロイス)に集結しており、エドワード3世が黒太子エドワードに当てた手紙によると、その数は190隻であった。船将はフランス海軍の提督であるHugues Quiéretと陸軍司令官Nicolas Béhuchet(本職は財務担当の法曹家)とジェノヴァの傭兵隊長バルバベラだった。

イングランド艦隊は200隻といわれるが、これには兵以外にも王妃の侍女など非戦闘員が多く乗っており、少なからぬ輸送船が含まれていたと考えられている。イングランドの歴史書の多くはイングランド艦隊は戦力では劣勢だったとしている。

イングランド艦隊が近づいて来た報告を受け、海戦の専門家であり精鋭のガレー船部隊を有するバルバベラは、迎撃して海上での戦闘を提案したが、Béhuchetはこれを却下して、港に碇を降ろしたまま、船を鎖でつなぎ合わせて巨大な要塞にして迎え撃つことに決定した。註:当時の海戦(ガレー船時代の海戦戦術参照)において、雑多な船の寄せ集めで統一的な行動が取れないこと、戦力的に優勢であることを考えれば、これは常識的な作戦である。

これに不満なバルバベラは配下の20隻ばかりのガレー軍船を引き連れ出撃して、イングランド艦隊の一部と交戦し、エドワード3世を負傷させ、イングランド船1〜2隻を拿捕して戦場からの離脱に成功した。

エドワード3世は、すぐに怪我から立ち直り、24日の朝、港に駐留するフランス艦隊と対戦した。イングランド艦隊は風上から太陽を背にした優位な位置を占め、一隊を正面から、他の一隊を側面から攻撃させた。当時の海戦は敵船に乗り込んでの奪い合いが主体で、そのまま白兵戦となったが、イングランド軍優位のまま夕方まで続き、フランドル艦隊(約50隻)が参戦したことでイングランドの勝利は確定した。

結果

フランス艦隊はほぼ全てが破壊されるか捕獲された。溺れ死ぬ者も含め人的被害も多かったと言われる。2人のフランス軍指揮官は戦死した(捕らえられて処刑されたとも)。イングランド側の損害は少なかったとされるが、かなりの被害を受けたとの見方もある。

以降、イングランドは制海権を握り、イングランドからの兵、物資、資金の輸送が容易になったため、本格的な侵攻が可能となった。また、フランスに対する初めての大きな勝利であり、それまではフランス王も諸国の君主諸侯達もエドワード3世のフランス王位の主張を軽く見ていたが、この勝利により現実味がでてきた。

勢いづいたイングランド軍の攻勢は成功せず、同年中に両国は休戦条約を結んだが、これは新たな戦いの準備のためであり、1341年のブルターニュ継承戦争デイヴィッド2世スコットランドヘの帰国により本格的な長期の戦争に入ることになった。

参考文献

  • Guizot, François Pierre Guillaume,A Popular History of France from the Earliest Times, Volume 2, [Project Gutenberg]

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