トゥールーズ伯レーモン4世

トゥールーズ伯レーモン4世(Raymond IV de Toulouse 、1052年頃 - 1105年)は、トゥールーズ伯、プロヴァンス侯で第1回十字軍の主要な指導者の1人。エルサレム占領後、トリポリ伯領の基盤を創設した。レーモン・ド・サンジルとも。 彼は身体的特徴として、片眼だったと言われている。

レーモンはトゥールーズ伯ギヨーム4世の弟だったが、ギヨーム4世が娘(アキテーヌ公妃)を後継者に指名して亡くなった時、簒奪してトゥールーズ伯となった。このため、しばしば伯位を主張するアキテーヌ公の攻撃を受けた。

3度結婚しているが、最初の2回は近親結婚として無効とされており、それを理由に2度破門を受けている。このため、最初の妻との子である長子ベルトランは、庶子と見なされることが多い。

十字軍以前にもスペインイスラム教徒と戦っており、第1回十字軍の勧誘においても諸侯の中で真っ先に参加を誓ったと言われる。年齢的にも最年長であり、南仏諸侯のリーダーとみなされた。コンスタンティノープルではビザンティン皇帝に臣従を誓わず、むしろ友人としてボエモンに対する同盟を組んだと言われる。

1097年のアンティオキア包囲戦では、彼の配下のバルトロメオなるものが、聖槍を発見したとして、多いに十字軍の士気を揚げている。

アンティオキア攻略後、市内に兵を駐留させていたが、ボエモンに追い出されため、ボエモンの領土拡張を妨げるために独自の領土としてトリポリの所有を望んだ。しかし、兵達はエルサレム進撃を望んだため、一次中断し、ゴドフロワらと共に、エルサレムを攻略した。

当初、彼がエルサレム王に推戴されたが、キリストが磔になった地で王と呼ばれたくないとしてこれを断った。このためゴドフロワが王に選ばれたが、ゴドフロワもまた王と呼ばれることを嫌い聖墓守護者と称した。その後、アスカロンの戦いに加わったが、アスカロン占領をめぐってゴドフロワと争ったため、これを攻略することができなかった。このため、十字軍と決別してコンスタンティノープルに滞在した。ここで1101年の十字軍と合流したが、アナトリアで破れている。再びコンスタンティノープルに戻り、皇帝アレクシオス1世コムネノスの援助を受けてトリポリ攻略を目指したが、その途中で病死した。

彼の甥であるギヨーム・ジュールダンが包囲を続けたが、その後、ベルトランが取って代わり、1109年にトリポリを陥落させ、トリポリ伯国を創設している。

彼の配下であったRaimundus de Aguilersが第1回十字軍の記録をレーモンの観点から記述している。

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