ルノー・ド・シャティヨン

ルノー・ド・シャティヨン(Raynald de Chatillon、1125年頃 - 1187年7月4日)はフランス騎士。1147年に第2回十字軍に参加し、1153年にアンティオキア公国のコンスタンスと結婚し、アンティオキア公となる。ハッティンの戦いで捕らえられ、サラディン自ら彼を処刑したといわれる。対イスラム強硬派としてキリスト教穏健派、イスラム教徒両方から嫌われた。

ルノーはシャンパーニュの中流の貴族シャティヨン家に生まれ、一旗あげるために、1147年に第2回十字軍に参加した。1153年にアンティオキア公国のコンスタンスと結婚し、アンティオキア公となる。アンティオキア公時代はアンティオキア公国#強盗騎士ルノー・ド・シャティヨンを参照のこと。1160年にヌールッディーンの捕虜となり、アンティオキア公位を失った。

1176年に多額の身代金で解放され、エルサレム王軍の指揮官となり、1177年にサラディンを破る。その後、ボードゥアン4世とサラディンの間に和平が結ばれたにもかかわらず、1181年にイスラム教徒の商人や巡礼者を襲撃し、さらに紅海に船団を出して海賊行為を行い、イスラムの聖都メッカメジナを襲う姿勢を見せた。

これに怒ったサラディンは、1183年にルノーの義理の息子であるオンフロワとエルサレム王女イザベルとの結婚式を襲撃した。ルノーの立場は弱くなるが、ギー・ド・リュジニャンと連携しトリポリ伯レイモンと対抗した。1186年にイスラム教徒の商人への襲撃を再開したことにより、サラディンとの和平が破れ、ハッティンの戦いとなる。大敗の中で捕らえられ、サラディンの手により断首された。

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