ギー・ド・リュジニャン

ギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan、1159年 - 1194年)はフランス騎士。エルサレム女王シビーユと結婚し、エルサレム国王となるが、ハッティンの戦いサラディンに破れ、エルサレム陥落を導くことになる。

ギーはポワティエのリュジニャン伯の息子だったが、1168年に彼ら兄弟はサリスベリー伯と争い、当時アキテーヌ公代理だったリチャード(後のリチャード獅子心王)に追放された。ギーは弟のエメリーと共に1170年代にエルサレムへ行き、ボードゥアン4世とシビーユの母アニェス(ジャッファ伯)の元へ身を寄せた。アニェスはトリポリ伯レイモンとの勢力争いにおいて、最初の夫を亡くしているシビーユの後ろ盾を必要としており、1180年にギーとシビーユは結婚した。1182年にボードゥアン4世の摂政となるが、イスラム勢力との勢力均衡を望む貴族たちと対立し、同様の境遇である元アンティオキアルノー・ド・シャティヨンや新着の十字軍士と組んで、サラディンとの対立を強めた。

このため、ボードゥアン4世と貴族たちはシビーユとギーを離婚させようとしたが、シビーユは離婚を望まなかった。 1185年にボードゥアン4世が亡くなると、ボードゥアン5世が王位を継ぐが、まもなく亡くなった。シビーユは女王になるに及んでギーとの離婚を要求されるが、これを拒否し、ギーは共同統治王となる。 トリポリ伯レイモンの反対を押し切り、サラディンとの戦いを始め、1187年のハッティンの戦いで大敗し、自らも捕虜となった。共に捕らえられたルノー・ド・シャティヨンは殺されたが、ギーの命は助けられ、1188年に解放された。しかし、すでにエルサレムは陥落し、モンフェラート侯コンラードの守るティール等のわずかな地域を残すのみであった。

1190年にシビーユが亡くなると、エルサレム王国貴族はイザベルを女王にするが、ギーは王位の放棄を承知しなかった。 エルサレム陥落に衝撃を受け、第3回十字軍がやってくると、ギーは旧主であるリチャード1世の旗下に参じた。フランス王フィリップ2世はイザベルとその夫モンフェラート侯コンラードの王位を支持したが、ギーはリチャードの支持を受けて1192年まで王位を主張する。1192年にコンラードは暗殺されたが、これはリチャードかギーが暗殺教団に依頼したものだと噂が立った。しかし、シャンパニュー伯アンリがイザベルの夫となると、リチャードもこれを支持したため、ギーはキプロスを受け取り、王位を放棄した。

1194年にギーは亡くなった。弟のエメリーがキプロスを受け継ぎ、以降、リュジニャン王家によるキプロス王国が続くことになる。

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