プレスター・ジョン

プレスター・ジョン(Prester John)は、12世紀から17世紀にかけて流布された、伝説的な東方キリスト教国家の君主。長老ヨハネと言う意味の英語の表現。キリストの誕生を伝えた3人の賢者の子孫とされ、当初はインド、後にモンゴルなどの中央アジア、エチオピア等が推定された。 十字軍が苦戦する中で、東方からイスラム教徒を蹴散らす援軍が来ることを待望して、噂が広まったと思われる。

背景

古来からネストリウス派の布教により、東洋にもキリスト教国家があると考えられていた。それらの布教活動を行った人々の中には、長老ヨハネと呼ばれる人物の伝説もあった。

1144年、アンティオキア公国のレイモンからローマ教皇エウゲニウス3世への使者が、プレスター・ジョンのことを伝えた。それによると、「彼はネストリウス派キリスト教国の王と司教を兼ねた存在で、最近メディア、ペルシアを破り、十字軍を救援にエルサレムに向かったが、ティグリス川の洪水により引き返した。」とのことで、このため第二回十字軍のとき、この王の救援が期待された。

これは、1141年に西遼(カラ・キタイ)が、実際にサマルカンド近辺でセルジューク朝軍を破ったことが誤って伝えられたものと思われる。当然、西遼はキリスト教徒ではない。

ところが、1165年ごろ、プレスター・ジョンの手紙と称するものが西欧に広く出回ることになる。その手紙は、「3人の賢者の子孫でインドの王プレスター・ジョン」から、「ビザンティン皇帝マヌエル1世コムネノス」に宛てたとされるもので、この手紙は各国語に翻訳され、さらに尾ひれがついて多くの複製が作らた。今日でも数百通が残されている。これに対し、1177年にローマ教皇アレクサンデル3世は、プレスター・ジョン宛ての手紙を持たせた使者を派遣した。その後、使者がどうなったかは定かではない。このプレスター・ジョンの手紙は現代の研究では、当時の西欧人が偽造したものだと考えられている。

モンゴル

1221年、第5回十字軍に従軍したアッコンの司教が、「プレスター・ジョンの孫のダビデ王がペルシアを征服してバグダッドに向かっている」との報告をもたらした。これは実はモンゴルチンギス・ハーンのことであり、1245年と1253年にフランシスコ派修道士がモンゴルに派遣された。当時、西側に伝えられた話では、チンギス・ハーンの義父、ケレイトのオン・ハンがプレスター・ジョンだったが、チンギス・ハーンと争い殺されたいうものである。モンゴルに滅ぼされたナイマン遊牧民族のいくつかは、実際にキリスト教国であったため、このような話になったと思われる。この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、聖杯伝説などと結び付けられたりするようになる。

エチオピア

早くからエチオピアにキリスト教国(コプト派)があることは知られていたが、イスラム教国で遮られていたため、ほとんど接触がなかった。1306年にエチオピアから30人の使節が来欧し、15世紀ごろからエチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼ぶようになった。1520年にポルトガルが外交関係を樹立した際も、プレスター・ジョンを皇帝と同義語に使っている。

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