コンスタンツ公会議とフスの火刑

コンスタンツ公会議とフスの火刑(1) - 教会大分裂の終了

1414年から開かれたコンスタンツ公会議には3つの主要な目的があった。

1. 3人の教皇が並立する西方教会大分裂を終了させる
2. ウィクリフ派・フス派などの異端を根絶する
3. モラルの腐敗を正し、教会改革を進める

もちろん、最大の目的は1であるが、既に下準備はできていたようである。1410年にドイツ王*1に選出されたルクセンブルク家のジギスムントは教会大分裂の終了に力を入れており*2、主要諸国と高位聖職者の根回しを進め、ピサ教皇ヨハネス23世が支援を求めて接触してきた機会を捉えて、帝国都市コンスタンツでの公会議の開催に同意させ*3、またローマ教皇グレゴリウス12世の同意と代表団の派遣も取り付けた*4。

*1 選帝侯により選出されると、まずドイツ王・ローマ王となり、イタリアに行って鉄王冠でイタリア王になり、最後にローマに行き教皇により戴冠されて正式に神聖ローマ皇帝と呼ばれる。
*2 教皇は皇帝の権威を裏付ける存在でもあり、大分裂は皇帝の権威も低下させていた。大分裂解決の主導権を握ることで、皇帝のイニシアチブを取り戻そうとしていた。
*3 この時点で最も支持が多いのはピサ教皇で、ヨハネス23世は自分が唯一の教皇に選ばれることを期待していた。
*4 アヴィニョン教皇(既にアヴィニョンから追放されて実質、アラゴン教皇だったが)ベネディクト13世は同意せず代理人も送らなかった。

コンスタンツ公会議は1414年11月に開催されたが、既に3人の現教皇を廃位して新たな教皇を選出することの根回しが出来ていたようで、1415年3月には3人の教皇の廃位の方針が打ち出された。それを嫌ったヨハネス23世は逃亡し、欠席のまま廃位が宣言され、グレゴリウス12世は廃位は止むなしと考え、自分の正統性の認知に主眼を置いていたようで、自発的に退位を宣言することで会議の支持を得ている*5。また、一切、接触を拒否したベネディクト13世は廃位され、1417年に新教皇マルティヌス5世が選出されているが、これはグレゴリウス12世の死を待っていたようである。大分裂の解決に寄与した公会議主義が勢力を強め、ジギスムントは権威を高めることになった。

*5 つまり記録・歴史において、唯一の正統な教皇と認知されることを望んでいた。現在のカトリックの公式見解では、大分裂時代はローマの教皇が正統とされている。

3の教会改革は、所謂、総論賛成、各論反対で、誰もが改革の必要性を認めていたが、その方向性は百家争鳴であり、具体的な改革案と討議は行われず、「新教皇は改革を推進し、以降の公会議で検討すること」が宣言されただけだった。

その他には、「暴君の殺害」の正統性が議題となった。ブルゴーニュ公ジャン無怖公がライバルのオルレアン公ルイを暗殺した*6ことを正当化するために、その意を受けたフランスの神学者ジャン・プチが「暴君はどんな方法で殺害しても正当化される」と主張しており、また同様にドイツの神学者ヨハン・ファルケンベルクが「異教徒はどんな方法で除去しても正当化され、異教徒を支援する者も同様に除去できる」との論文により、異教徒のリトアニア*7やそれと連合したポーランドに対するドイツ騎士団の攻撃を正当化していたが、それらは過ちで異端的として、いずれも否定されている*8。

*6 ブルゴーニュ公国 - ブルゴーニュ派 対 アルマニャック派 参照
*7 小さな巨人リトアニアで述べたように、公式には既にリトアニアはカトリック国になっていたが、実際には、かなりの未改宗者が居たようである。
*8 ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団は、双方がその戦争の宗教的な正当性について激しい議論を続けており、コンスタンツ公会議での討議と結論を望んでいたようだが、「暴君の殺害」やファルケンベルクの主張が否定されただけで、抗争の是非についての討議は行われなかった。

さて、2は比較的単純な問題で、異端の根絶は当然であり、既にウィクリフの教えが異端であることは概ね合意が出来ており、議論の余地はなかった。しかし、議論するつもりでやってきたボヘミアのヤン・フスを火刑に処したことは、後に大きな影響を及ぼすことになった。

イングランドの神学者ジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年)は、聖職のヒエラルキーの否定や聖書の重視などを主張し、世俗への教皇の関与や教会・修道院財産を批判していた。13世紀の教皇最盛期であれば、一瞬の内に糾弾されて終いであるが、14世紀中頃はアヴィニョン教皇時代でその権威は低く、特に百年戦争でフランスと戦っているイングランドにおいては、フランス寄りの不公平な姿勢に不満が強かった。

王侯は、教皇・教会の世俗への干渉を嫌っており、教会財産が放棄されて世俗の手に戻ることは望ましいことだったため、ジョン・オブ・ゴーントなどの実力者がウィクリフの主張を保護・支援したが、教義的な面では保守的であり、教会における教皇の首長権や聖職者の存在について過激な変化を望んでおらず、そのような権威を否定する主張は、世俗における王侯の権威を否定し共和制・民主制に繋がるものとして警戒もあった。

1381年のワットタイラーの乱では、ウィクリフやその支持者の多くは批判的であったが*9、ロラード派*10の説教師ジョン・ボールが指導者の一人であったため貴族の支持を失うことになり、さらに、1401年にヘンリー4世が明確にロラード派を否定したため異端と見なされるようになった。

*9 ウィクリフの最大の支持者だったジョン・オブ・ゴーントが乱の標的とされている。
*10 ウィクリフの教えを奉ずる者はロラード派と呼ばれたが、その教理にはかなりの幅があり、統一的見解はなかった。

コンスタンツ公会議とフスの火刑(2) - ボヘミアのフス派

1382年に神聖ローマ皇帝、ボヘミア王カール4世の娘アンがリチャード2世妃になったことにより、ボヘミアとイングランドの交流が盛んになり、ボヘミアの神学者ヤン・フス(1369年 - 1415年)はジョン・ウィクリフの書籍を読み、その考えに傾倒し盛んにその教えを広めようとした。

しかし、ウィクリフ/フスの考えがボヘミアで受け入れられたのは、かなり政治的側面が強い。

ボヘミアはスラブ系のチェック人の国ながら、神聖ローマ帝国の一王国を形成しており、プシェミスル朝のオトカル大王はホーヘンシュタウフェン朝滅亡後の神聖ローマ皇帝を狙い、その後継者ヴァーツラフ2世はポーランド、ハンガリー王位を狙うなど中欧の盛国を誇ったが*11、男系が断絶し、女系のハプスブルク家や当時の皇帝ハインリッヒ4世のルクセンブルク家が争った結果、ルクセンブルク家のヨハン(盲目王)がボヘミア王となった。次のカール4世は皇帝に成ったが神聖ローマ帝国における立場は弱く、権力基盤であるボヘミアの統治に力を入れたためボヘミアは繁栄したが*12、同時に多くのドイツ人がやってきて重要な職を占め、地元のチェック人との軋轢も生じていた。

*11 中欧三国志大空位・選挙皇帝時代 参照
*12 多くのインフラ投資をしている。カール4世が創立したプラハのカレル大学は欧州北部初の大学であり、国際的な学究の場として賑わった。

次のヴェンツェルは父の生存中にドイツ(ローマ)王に選出されていたが、意志が弱く怠惰*13で、ドイツ王としての義務を果たしていないとして、1400年に選帝侯たちにより廃位され、ヴィッテルスバッハ家のループレヒトが選出されていた。ヴェンツェルはこれを認めず皇帝としての戴冠を目指していたが、本来、彼が支持していたローマ教皇グレゴリウス12世が協力的でないため、報復として教会大分裂において中立の立場を取り、ローマ教皇とアヴィニョン教皇を等しく扱うことをボヘミアの聖職者に命令したが、カレル大学*14ではフスを筆頭とするチェック人のみがこれに従った。

*13 後にアルコール中毒になったたようだ。
*14 この時代、学問をする人間は広義の聖職者だった。

このため、ヴェンツェルは1408年のクトナー・ホラ布告で大学においてチェック人を優遇したため、ドイツ人など5千人〜2万人の教師・学生が立ち去り*15、カレル大学は地方大学化しチェック人民族主義の牙城となった。プラハ大司教は影響力を失い、フスが学長となり、王の支持も受けてチェック人のカリスマと見なされるようになった。

*15 退去した人々は所々でボヘミアでは異端が蔓延していると批判し、その一部はライプチッヒに移り、新たにライプチヒ大学が創設された。

1409年のピサ公会議でアレキサンデル5世が教皇に選出され*16、ボヘミアはこれを支持したが、アレキサンデル5世はウィクリフの教えを異端とし、その書籍を焚書することを命じ、1410年にはフス等のウィクリフの信奉者を破門にした。しかし、この措置は既にフスを民族の指導者と見なしていた民衆の反感を呼び、フス派の勢いは強まる一方だった*17。

*16 ローマ教皇、アヴィニョン教皇が退位しなかったため、3人の教皇が存在した。
*17 一般民衆は細かい教義などは理解しない。チェック人の代表としてのフスへの支持と、彼を否定し強権を発動する教皇への反感によりフス派が広まった。

次のピサ教皇ヨハネス23世は、1411年にローマ教皇グレゴリウス12世を支持するナポリ王ラジスローに対して十字軍を呼びかけ、資金集めの為に免罪符(贖宥状)の販売をボヘミアでも行ったが、これに対して、フスは免罪符と十字軍を痛烈に批判し、彼を支持する民衆の一部は教皇教書を焼き捨て、免罪符の販売に抗議した*18。

*18 この辺の流れは、後のルターの宗教改革時と非常に似ている。

一方、カレル大学の神学部*19は45本のフスの論文を異端とし、プラハ大司教や教皇特使は教皇教書に従うようフスに呼びかけ、ヴェンツェル王は両派の和解の為に1412年にボヘミアで教会会議を開いたが成果は得られず、カトリックを支持する聖職者たちはプラハから追放された。これに対して教皇はプラハを聖務停止とし、フスは混乱を避けるために田舎に移って著作を続けていたが、1414年にプラハに戻った。

*19 ボヘミアでも神学者の多くはウィクリフの教義を異端と見なしており、フスを支持したのは貴族・民衆を含む世俗のチェック人である。

コンスタンツ公会議の発起人であるドイツ王ジギスムントはヴェンツェル王の異母弟であり、1411年に両者の間で協定が結ばれており*20、3人の教皇の廃位の意向は伝えられていたと思われる。このため、フスは自分達の教義を広め説得する機会と見て、ジギスムントから安全の保証を得てコンスタンツに向かった。

*20 ジギスムントをドイツ王・神聖ローマ皇帝として認め、男子のいないヴェンツェル王の後継者とした。

ジギスムントは当初はフスの逮捕に怒りを示しており*21、騙すつもりは無かったと思われる*22。教義における聖職者の強い反発を読み間違えていたのだろうが、反対しなかったのは、教会大分裂の終息が最大課題であり、それ以外で不一致を示すことを避けたのだろう。

*21 教会は異教徒・異端者に対する約束は無効としているため、ジギスムントの安全の保証も無効と見なしている。
*22 ボヘミアの後継者を約束されていたジギスムントは、フスの存在を脅威と感じて最初から処刑させるつもりだったという見方もある。

フスは、ほとんど議論を許されず、一方的に糾弾されたのは不本意だったろうが、ある程度の覚悟はしていたと思われる。1415年6月5日からのわずか3日余りの審議*23の後、自説の撤回を勧告されたが応じず、7月6日に有罪の判決が出され、再び異端の放棄を迫られたが拒否し、聖職を剥奪され、異端の帽子を被せられ、世俗の刑吏の下で火刑に処せられた。

*23 既にウィクリフの教えは異端として宣言されていたため、ここではフスがウィクリフの教えを支持しているのか、それらの考えを捨てる気は無いかが問われただけである。

フスの処刑の知らせにボヘミアの民衆は沸き立った。9月には貴族や都市市民を含むフスの支持者がフスの火刑への強い抗議を書面でコンスタンツ公会議に送付した。これに対して、ジギスムントがウィクリフ/フス派を根絶すると脅したため各所で暴動が発生し、ボヘミア中からカトリックの神父が追放された。

ヴェンツェル王は当初は曖昧な態度を取っていたが、ジギスムントの教唆によりフス派の弾圧を始めたため、指導者たちはプラハを離れて各地に散った。フス派は最初から、ウトラキスト派*24とタボル派*25の2大派とその他に分かれていたが、指導者たちは各地で会合を開き、ジギスムントの攻撃から相互防衛することを誓い合い戦争の準備を進めた。

*24 ウトラキスト派はカトリックとの相違が比較的少ないため穏健派とされる。
*25 カトリック独自の教義・儀式の多くを否定しているため過激派とされる。なお、タボル派の名前で呼ばれるようになるのは、もう少し後である。

1419年7月30日にフス派の急進的な司祭ヤン・ジェリフスキがプラハの市街を行進した後、市役所を占拠し、市長、参事会議員らを窓から投げ落として殺害した*26。これに対してジギスムントと教皇マルチヌス5世がボヘミアの異端に対する十字軍を呼びかけ、フス戦争が始まることになる。

*26 第一次プラハ窓外投擲事件。この知らせを聞いたヴェンツェル王はショックで心臓麻痺を起こし死亡したと言われる。

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