十字軍

十字軍(1) - 発端

西欧中世の最大イベントである十字軍の全容は簡単には書きようがないが、その発端、動機について触れてみたいと思う。

発端はセルジュークトルコ朝に侵攻され、小アジアを失ったビザンティン帝国が西欧(カトリック圏)の援助を求めたことに発するが、1054年の東西教会分裂以来、東西社会の関係は良好ではなく、単に援助を求めても断られるか、東西教会の再合同などを要求される可能性があった。そこで、陰謀渦巻くお公家さん社会と言われる*1ビザンティンでは、11世紀の初頭に、ファティマ朝の狂信的なカリフ(ハーキム)により聖墳墓が破壊され、キリスト教の巡礼者が襲われたり、エルサレムへの巡礼を拒否されたこと*2を挙げて、キリスト教社会が団結して聖地からイスラム教徒を追い払おうと呼びかけたのである。

*1 英語でビザンティン(byzantine)は、「ずる賢い、陰謀をたくらむ」の意味で使用される。
*2 既にカリフは遠い昔に代わっており、この時点では、エルサレムの巡礼は可能になっていた。

もちろんビザンティンとしては、この理由付けにより西欧から無料で援軍を得ることを期待したのだが、一方、この依頼を受けたローマ教皇庁はこれを絶好の機会と考えた。その理由としては、

1. キリスト教の長として、イスラム教徒を追い払い、かってのローマ帝国の地を奪回し、聖都エルサレムを自らの管理化に置くという「宗教的」な望み
2. ビザンティンに恩を売って「東西教会の再合同」に繋げようとの思惑
3. これを理由に君主・諸侯に号令を掛けることが可能となり、教皇権を強化して、神聖ローマ皇帝を凌いだ「凡ヨーロッパ的権威の頂点」となる
4. 西欧では戦争が絶えず、教会は「神の平和」令を掲げて争いを調停しているが、本来、戦う人である諸侯・騎士たちは私戦を権利と見なして止めようとしなかった。彼らをイスラム教徒と戦わせることでヨーロッパを平和にする。

などが挙げられる。

こうして、1095年のクレルモン公会議で西欧を挙げての一大遠征軍が呼びかけられ、聴衆たちは熱狂して「神はそれを望みたもう」と歓呼したという。

さて、十字軍に参加した人々の動機は何だったのだろうか?以前に「死生観」で記したように、現世に加えて、殉教や巡礼による死後の利益が期待できてお得だからだが、主に次のような理由が挙げられる。

1. キリスト教徒としての宗教的情熱。中世の人々は、敬虔とは言えない人ですら、現代人の感覚からすると非常に信仰深く、神を恐れ、敬った。
2. 領土、富への欲求。特に諸侯・騎士の次男以下は自らの領土を手に入れることを切望していた。
3. 騎士的な名誉・冒険を求めて。中世の人々は狭い世界に押し込められており、特に農民は一生で地元の教会の鐘が聞こえない場所に行くことは何回もないといわれ、外の世界への憧れがあった。
4. ご近所が皆行くのにウチだけ行かないと世間体が悪いという横並び意識

十字軍(2) - 参加者達

クレルモン公会議では、ウルバン2世がフランス人だったこと、皇帝ハインリヒ4世とは相変わらず対立していたことにより、主にフランス人に呼びかけられており、フランスの有力諸侯と教皇の封建臣下となっていた南イタリアのノルマン人が参加している。

主要な人物を挙げると初代聖墳墓守護者となった下ロートリンゲン公ゴドフロワ・ブイヨン、南フランスの大諸侯トゥールズ伯レイモン・サンジル、南イタリアのロベール・ジスカールの息子でタラント公ボエモン、北フランスの雄フランドル伯ロベール2世、ノルマンディー公ロベール、フランス王の弟ヴェルマンドワ伯ユーグがおり、それに継ぐクラスとしてブロワ伯エティエンヌ2世、ブローニュ伯ウスタシュなどがいた。参加していない大諸侯のうちブルゴーニュ公とアキテーヌ公は1101年の十字軍に加わっており、全く参加していないのはブルターニュ公ぐらいであった。

彼らの動機は様々で、諸侯で最初に参加を表明*3したのはトゥールズ伯レイモン・サンジルで、さぞ信仰深い敬虔な人物と思うだろうが、結婚問題で2回破門されている。彼はその前にレコンキスタにも参加しており、おそらく、彼自身の破門による地獄落ちの恐怖と破門で悪化した教会との関係の改善を願ってのことと考えられる。また、相続問題の理由もありそうで、彼の長子ベルトランは最初の正妻との間の嫡男だが、教会はその結婚を無効としているため、教会的には庶子であり継承権はないとする立場である。そこで、彼が現在の妻子(正妻と嫡子)を連れて聖地へ行くことで、教会の機嫌を取りベルトランのトゥールズ伯相続を確実にしようとしたのではないだろうか*4。

*3 十字の布を取って参加を誓い、これを服に縫い付けて行軍したため、十字軍(Crusader)と呼ばれるようになった。

*4 ベルトランはトゥールズ伯となるも、常に対立者に悩まされ、結局、嫡出である弟にトゥールズを譲って、レイモン・サンジルがレバントに建てたトリポリ伯領を継承している。

南イタリアのボエモンの目的は明らかにロベール・ジスカールの頃から何度も攻撃を仕掛けていたビザンティン帝国領の攻略であり、ノルマンディー公ロベールは元々、放浪癖のあるロマンティストで、イングランドを弟のウイリアム2世から取り返せなかった鬱憤などもあって、聖戦遠征に憧れたのであろう。ゴドフロワ・ブイヨンはブローニュ伯の次男だったのが、母方の叔父を継いでロートリンゲン公になろうとしたが、中々、認めらず苦労したようで、病気に罹ったのをきっかけに現世に見切りをつけたように思われ*5、ブローニュ伯ウスタシュは弟のボードウィンと共にゴドフロワ・ブイヨンに誘われて3兄弟で参加している。後にエデッサ伯からエルサレム王となるボードウィンは、妻の権利でヴェルダン伯だったが、子供はできず、妻が亡くなれば領地を失うため領土獲得を切望していた。ブロワ伯エティエンヌ2世はウイリアム征服王の娘である妻アデラ*6の強い勧めで参加している。

*5 妻子の存在なども不明で後継者はいなかった。
*6 ノルマンディー公ロベールの妹で、後に息子のスティーブンがヘンリー2世の母モードとイングランド王の継承を争う。エルサレム陥落前に帰ってきた夫を家に入れず、そのまま1101年の十字軍に送り出したと言われる。

当初、教皇は庶民には精神的・金銭的な支援を期待したが、直接、彼らが参加することは考えていなかったようだが、ここにアミアンの隠者ピエールという謎の名説教師が現れる。彼はイエス自らが、十字軍を呼びかけるよう自分に命じたと述べて、町々をロバに乗って回り、勧誘説教を行った。これに感動した人々は、次々と十字を取り参加を誓い、その数はフランス・ドイツで数万人に達したとされる。

十字軍(3) - 民衆十字軍

人には群集心理があるため、強力な指導者のいない群集は非常に危険な存在である*7。通常の軍隊では、小隊、中隊、10人隊、100人隊といった風に小分けして、それぞれに指導者を付けるといった方法を取るが、民衆十字軍にはそういうものがなく、群集が指導者格の人間の後についていくだけであり、興奮すると自儘に行動し、指導者達にも止められなくなることがある。

*7 現在でもサッカーの結果や確たる理由もなく暴動が発生することがある。むろん背景には何らかの社会的不満がそれをキッカケとして噴出している訳だが、群集でなければ電信柱を蹴るくらいで済んでいただろう。

隠者ピエールがドイツの勧誘説教をしている間に、フランスの群集は待ちきれず、文なしゴーティエ*8という騎士に率いられて出発してしまい*9、一方、ドイツで勧誘した群集は手近なユダヤ人の集落を襲いながら行進し始めた*10。

*8 彼のサーネームはSans-Avoirの地名から来ているのを後に「文なし」と誤解されたという説がある。しかし、民衆十字軍に参加するくらいの貧乏騎士だから、名前をもじってあだ名となった可能性もある。

*9 単に自儘に行動したという訳ではなく、中世では大人数が一箇所に長期間留まるだけの食料を供給できず、移動しながら各地で入手する必要があるためでもある。

*10 当初はユダヤ人に改宗を迫ったのだが、信者にとっては現世は一時、死後は永遠であるため、簡単に改宗する人間はほとんどおらず、虐殺と略奪を繰返すことになった。

通り道の住民からすれば、彼らは流民の群であり、食料を食い尽くすイナゴの群のようでもある。それでも、ドイツ・フランスでは言葉が通じるが、ハンガリー・ビザンティンでは民衆レベルではほとんど言葉が通じないため、各地で衝突が起こり、互いに大きな被害を出し、民衆十字軍はキリスト教徒との争いで1/3~半数が失われてしまった。ビザンティン皇帝も扱いに困り、諸侯十字軍を待つようにと言いながら、首都近辺はもちろん帝国領内にも留めず、小アジアに送り出すという矛盾した行動を取っている。

小アジアではドイツ系、フランス系で2つに別れて行進したが、ルーム・セルジューク朝の見えすいた計略*11にかかって壊滅した。現代では、この民衆十字軍の評価は非常に低いが、当時は彼らは純粋な信仰者と持ち上げられ、ピエールやゴーティエも英雄視され伝説化している。

*11 ニカイアが既に別働隊によって陥落したと偽の情報を流し、略奪に遅れまいと急いだ十字軍を伏兵で待ち伏せた。群集心理を上手く利用しているが、正規軍ならまず偵察を出して情報の確認をするだろう。

十字軍(4) - 各勢力の思惑

一方、諸侯十字軍は大きな問題はなくコンスタンチノープルに到達するが、ビザンティン皇帝アレクシオス1世は彼らに臣従と征服した領土をビザンティンに返す約束を誓わせた。皇帝にしてみれば、回復すべきビザンティン領内で十字軍士に自儘に行動されては困るため当然の予防措置であるが、協力して異教徒と戦うつもりできた十字軍側は不満であったが、とりあえずは、ビザンティンの道案内と補給は必須であるためやむなく誓った。

さて、イスラム側では、アッバース朝のカリフは既に名目的に崇拝されるだけの存在で、セルジューク朝が大勢力を誇っていたのだが、1092年にスルタンのマリク・シャーと宰相ニザームルムルクが相次いで亡くなり、後継スルタンが短命だったり、継承争いをして、あっという間に各地で一族や実力者が事実上自立し、割拠していた。

彼らにして見れば、キリスト教徒もその群雄割拠に加わる新たな一勢力に過ぎなかった。少数精鋭だった当時の西欧において諸侯十字軍の数万人は大軍であるが、イスラム世界全体から見れば、やはり一勢力の出現に過ぎない。彼らはライバル勢力が十字軍との戦いで消耗するのは一向に構わず、当初は、これを利用できないかと考えていた。実際、当時、エルサレムを奪回したばかりのエジプトのファティマ朝は、対セルジュークとして十字軍と同盟を結ぶことすら考えており、一方、セルジュークの諸勢力は十字軍の目的がエルサレムであることを知ると、あまり抵抗せずに通過させてしまっている。

ビザンティンに直接、接するのは小アジアを有するルーム・セルジューク朝で、諸侯十字軍が最初に攻撃したのは、その首都になっていたニカイアだが、スルタンのキリジ・アスランは、民衆十字軍があまりにも弱かったため、十字軍を甘く見てしまったようで、諸侯十字軍がビザンティンに集結しているにも係わらず、小アジアにおけるライバルのダニシュメンド朝との戦いに向かってしまっていた。

主力がおらず防衛できないと見た守備側はビザンティン軍に密かに降伏し、十字軍が気づいた時にはすでにニカイアにはビザンティンの旗が立っていた。これは元々、良くはなかった両者の関係を悪化させた。当時、陥落時には3日の略奪が慣習になっており、ニカイアやビザンティン側はそれを避けた訳だが、十字軍にしてみれば当然の権利を奪われた訳であり、連絡なく勝手な行動を取ったビザンティンの行為を裏切りと見なしたのも無理はない。

ビザンティンはわずかな道案内役の小部隊を十字軍につけただけで、十字軍が戦いながら通過した後、ビザンティン軍がやってきて占領するのである。ビザンティン側は十字軍を自分たちが雇った傭兵と見ており、武器・兵糧の補給と報奨金を払えば十分と考えていたが、十字軍は、キリスト教徒の大義のためにビザンティンを救援しているのだから、ビザンティンこそ率先して共に戦うのが当然と思っており、両者の溝は深まるばかりだった。

十字軍(5) - 戦闘

第1回十字軍の主要な戦闘はわずかしかない。トルコ側*12の主要な戦法は軽騎兵による騎射であるが、彼らの短弓は民衆・歩兵の粗末な防備には通用したが、騎士の甲冑にはあまり効果がなかった。接近戦では十字軍が有利だったが、トルコ側は一撃離脱戦法を繰り返すのが基本であり、しかも劣勢になれば軽騎兵の速度を生かして撤退するため、双方とも敵に決定的な打撃を与えることができないのである。

*12 イスラム側と書くとキリスト教徒 対 イスラム教徒の戦いと見られがちであるが、こう書くと単に西欧のフランクとトルコが戦っていたに過ぎないことが分かり易いだろう。

通常の戦争では、常にコスト効果が意識されるが、十字軍はその常識が通用しないのである*13。ヨーロッパからはるばるやってきた十字軍は最初からコストを度外視しており、異教徒との戦いでの死を厭わない、イスラム側から見ると狂気の兵なのだ。十字軍に勝ったところで得られるものは何もなく、従って、いたずらに戦って自軍の損害を増やすよりは、ファビアン(消耗)*14戦術で、奇襲と補給の撹乱をしながら追い払うのが得策なのである。

*13 そもそも、1都市とその周辺部を得るためにヨーロッパ中から大軍を集めること自体、コスト効果の点では馬鹿げている。それに対して、イスラム側は通常の戦争をしているのである。

*14 カルタゴのハンニバルに対してローマのファビウス・マクシムスが取った持久・消耗戦術

最初の主要な戦闘は、十字軍がアナトリアを行進中に、キリジ・アスランとダニシュメンドの連合軍が攻撃したドリュラエウムの戦いである。別々に行進中のボヘモンの部隊を連合軍が奇襲したのだが、ボヘモンが重装騎士を民衆・歩兵の外側に配置して守備したため、攻めきれず、やがて他の十字軍部隊が救援に到着して、最後は教皇特使アデマールの別働隊が連合軍を後方から襲ったため、トルコ側は輜重を捨てて撤退した。

その後は、大きな抵抗はなかったが、夏の暑さと食料不足に苦しみながら3ヶ月*15かけてアナトリアを通過した。そこでエデッサのアルメニア住民たちの要請を受けて、領地を切望していたブローニュ三兄弟の末子であるボードウィンが本体から離れて現地に行き、十字軍国家の1つであるエデッサ伯領を建てている。以前から指導者争いはあったが、この辺から徐々に各人の思惑・本音が見えてくるのである。

*15 当初、ブロワ伯は妻のアデラへの手紙で5週間でエルサレムに着けるだろうと書いていた。食料を調達・略奪しながら行軍しているため時間が掛かっている。

十字軍はアンティオキアに到着したが、ここで方針について争いが起きた。アンティオキアは総主教のいる大都市であり、戦略的な拠点としても宗教的な意味でも重要な場所であった。ボエモンはこの重要な地を所有することを狙っており*16攻城を主張したが、レイモン・サンジルやブロワ伯等の十字軍の半ばは、時間のかかる包囲戦を避けて、一刻も早くエルサレムに到着することを望んだ。ゴドフロワ・ブイヨン等の他の指導者たちは、長期的見地から、後の補給やルーム朝からの反撃を食い止めることを考慮してボエモンに賛同したと思われる。ここに第1回十字軍最大の激戦であるアンティオキア攻防戦が始まる。

*16 ボエモンはイタリア南部を領するロベール・ジスカールの長子なのだが、母親が離婚(婚姻の無効)されているため跡を継げず、十字軍での領地取得とビザンティン攻略を望んでいた。

十字軍(6) - アンティオキア


アンティオキアの領主は、トルコの各勢力に支援を依頼した。シリアはシリア・セルジューク朝が支配していたが、先代の死後、2人の息子がダマスカス、アレッポに分裂して争い、イラク北部はモスルが大勢力を占めていた。アンティオキアは形式的にはシリア・セルジューク朝を宗主としていたため、ダマスクスとアレッポの太守はそれぞれ別の時期に救援に出たものの十字軍の部隊との遭遇戦で勝てず、単独では無理と判断して引き返した。

一方、十字軍側は道案内のビザンティンの将軍が一方的に撤退してしまった*16。食料に不足*17する中、包囲は8ヶ月に及んだが、その武名で知られているモスルの太守ケルボガが大軍を率いて救援に向かっていることを知ったボエモンは、アルメニア人の城兵を買収して陥落させた。この際にイスラム教徒の大量虐殺が起きている*18。しかし、数日後に、モスルのケルボガに加えて、ダマスクス、アレッポの連合軍が到着し、逆にアンティオキアを包囲した。

*16 ボエモンが勧めたという説がある。その上で、これをビザンティンの裏切りとして責め、以前の誓いは無効になったと主張している。
*17 馬を食べ、一部の者は死んだ敵兵の死体を食べ始めたと言われる。
*18 これまでも、略奪の際に虐殺することもあっただろうが、都市での大量虐殺は初めてであり、これを見るとニカイアでのビザンティンの行動は狡くとも適切な判断だったと言わざるを得ない。

新たに食料を集める暇がなかったため、長期の籠城は不可能だった。ここで都合良く、聖槍*19が発見され、十字軍は大いに勇気付けられ、決戦を挑むことになった。一方、優勢と考えたトルコ連合軍では、勝利の後、ケルボガがシリアを支配するのではないかとの不安が高まり、元々、定常的に争っているだけに喧嘩が絶えなかった。十字軍が城から出撃してきたのを見て、ケルボガは当初、疲れ果てて絶望の末にやむを得なく出てきたと甘く見て、充分に引き付けてから攻撃しようとしたが、ボエモンの率いる十字軍の士気は予想外に高く、ケルボガの軍と激戦となった。ダマスクス、アレッポの軍は被害を恐れて日和見をしており、ボエモンの突撃の前にケルボガ軍が崩れ始めたのを見て、撤退してしまった。

*19 イエスを刺した、別名ロンギヌスの槍である。当然、半信半疑の者が多かった。特にこの時代にはコンスタンティノープルに聖槍があり、幹部たちは既にそこで見ているのである。しかし、一般の兵士たちは勇気づけられ、幹部たちも敢えて否定することはしなかった。しかし、ケルボガを打ち破った後、槍の真偽について口論が起きている。

こうして勝利した十字軍だが、この後、この街の所有についてボエモンとレイモン・サンジルが激しく対立した。また、食糧不足は続き、近隣のマッラを攻略した際、住民を虐殺した上、大規模な人肉食いが起きたと言われる。調停役だった教皇特使アデマールも疫病で亡くなり、兵士たちはエルサレムへの進軍を主張した。

十字軍(7) - エルサレム陥落

半年後の1099年1月に遂に、ボエモンを残して*20、十字軍はエルサレムに向かって南下を開始した。とはいえ、途中でレイモン・サンジルがトリポリの攻略を目指したり、各部隊がそれぞれ略奪に出かけたりで、6月にやっとエルサレムに到着した。この時点で、十字軍に残っている主なメンバーはレイモン・サンジル、ゴドフロワ・ブイヨン、ノルマンディ公ロベール、フランドル伯ロベール、タンクレッドのみで、人数にして1万数千人であった。

*20 ボエモンはこの地にアンティオキア公国をたて、早速、ダニシュメンド朝やビザンティンと小競り合いを始めることになる。

エルサレムはここ25年セルジューク朝傘下だったが、ちょうど1098年にファティマ朝が取り戻したばかりだった。ファティマ朝は十字軍と交渉すると共に、援軍を準備した。包囲する十分な食料供給も攻城兵器もない十字軍は強攻するしかなかったが、十字軍らしく、城壁の周りを賛美歌を唄いながら行進すると聖書のエリコの壁のように崩れるとの夢のお告げを受け、それを実行した*21。ファティマ朝の援軍が近づいていることを知った十字軍は総攻撃をかけ、結果的に強攻が成功したということは、エルサレムの防備は聖地だけに、さほど堅くなかったようである。

*21 当然、崩れなかったがそれでがっかりする訳ではない。当時の人間でも直接、崩れるとは思っておらず、攻撃により容易く防御側が崩れるというアレゴリとして受け止めているため、充分に勇気づけらているのである。

この後、有名な虐殺が起こり、イスラム教徒とユダヤ教徒は総督とごく一部を除いて皆殺しとなり、その血は膝まで届いたと記録には書かれている。聖地を冒涜する異教徒*22と感じていたのだろうし、また一旦は生かした者もその後、殺しているところを見ると聖地での聖戦で利益のために異教徒を生かす(奴隷として売る、または身代金を取る)ことを恥じたのかもしれない。この地の支配を巡って、ゴドフロワ・ブイヨンとレイモン・サンジルが争うが、前者が聖墳墓守護者に選ばれる。しかし、イエスが荊の冠をかぶった地で金の冠をかぶるのを不敬として、王を名乗ることはなかった。

*22 ユダヤ教とイスラム教の聖地でもあるのだが

やがて、アスカロン近郊でファティマ朝の援軍と会戦して勝利し、エルサレム一帯を確保した。十字軍の大半はこれで誓いは果たしたとして帰り、数百人しか残らなかったが、この成功がヨーロッパに伝わると熱狂をもって新たな巡礼者がやってきて、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団などの聖地騎士団が創設され、エルサレムの防備にあたった。また、ジェノヴァ、ベネチアなどのイタリア海運都市も港に居住区を確保し、交易や人員・物資の運搬を担った。

エルサレム陥落前に帰ったブロワ伯とヴェルマンドワ伯やブルゴーニュ公とアキテーヌ公のような参加しなかった他の諸侯たちは非難をあび、これに巡礼者や新天地での領土獲得を狙う者が大挙して聖地に向かった。これは1101年の十字軍と呼ばれるが、小アジアで、ルーム朝、ダニシュメンド朝、アレッポの連合軍に敗れて壊滅した。しかし、生き残りは十字軍国家に加わり、レイモン・サンジルは、後にトリポリを攻略して十字軍国家トリポリ伯領をたてている。

十字軍(8) - 十字軍国家

一般的に第1回十字軍は唯一の成功した十字軍と称される。エルサレムを得たからだが、あれだけの人数と費用と意気込みをかけて、主要都市2つとその周辺を奪っただけで、分裂しているイスラムの主要勢力の1つも潰せていない。ビザンティンはアナトリアの海岸部を回復してほぼ予定通りかもしれないが、アナトリアからシリア・パレスチナの全域を回復できてもおかしくないはずだった。

結局、エルサレムを奪うことができたのは、皮肉な言い方をすれば、十字軍が狂信的でかつ強くなかったからだと言える。内部の統合には強大な敵がいれば良いというが、十字軍がイスラム世界全体に脅威を及ぼす力を持っていれば、イスラム教徒はカリフなり、大セルジュークのスルタンなりを担いで、1つにまとまって戦っただろう。しかし、諸侯十字軍ですら、常に食料不足のヨレヨレの軍隊であり、そのクセ、交戦すると狂気のように戦うため、イスラム教徒としては、一致して戦うほどの相手ではないが、一勢力で倒せる相手ではなく、戦いたくない相手として押し付け合った結果、エルサレムに到達させてしまった。ファティマ朝はシーア派のカリフであり、スンニ派のカリフを擁するセルジューク諸勢力にとって、彼らが被害を受けることは一向に構わないのである。

エルサレムはイスラムにとっても聖地とはいえ、メッカ、メディナから遠く離れた第3の聖地であり、それほどキリスト教徒が欲しいなら、無理に取り上げることもないといった雰囲気なのだ。エルサレムを取り返せば、再び、西欧から狂気の集団が大挙して押し寄せてくる可能性*23があり、エルサレムが意外に長期間、維持できたのはそのせいもある。

*23 実際、第3回十字軍がやってきた。西欧の三大君主が率いる最大・最強の十字軍になるはずだった。

十字軍国家ができたことで、既に群雄割拠状態だった中東はまさに戦国時代に突入した。アレッポは、その位置のためもっとも十字軍国家と戦ったが、同時にダマスカス、モスルと戦い、ダマスカスはアレッポ、モスルに対抗するため、しばしばエルサレムと同盟した。十字軍国家のエルサレム、エデッサ、アンティオキア、トリポリは互いに戦争をすることはなかったが、決して仲良くはなく、協力・援助をしないことも多かった。ビザンティンは力を回復し、ルーム朝、ダニシュメンド朝、アンティオキアなどと盛んに交戦し、当初の約束通り、十字軍国家をビザンティンの宗主下に置くことを望んでいた。エジプトのファティマ朝はエルサレムの奪回を望んで、アスカロンやラミュラ近郊で、エルサレム王国と例年のように戦った。大セルジュークのスルタンはペルシアから東方に注力し、代わりに形式的な存在だったアッバース朝のカリフがバグダッドで権力回復を目指し始めた。

まさにバトルロイヤル状態で、一勢力が強くなり過ぎないようにバランス機能が働くため、定常的に戦闘や中小都市の奪い合いが起きているが、著しく強くなる勢力もなければ、主要な勢力が併合されることもなかった。このバランスを崩したのは、モスルの太守ザンギーであり、彼はアレッポの太守を兼ねることにより一段抜き出た存在となった。彼の関心の大部分はダマスカスの併合にあったが、ダマスカスがしばしばエルサレムと同盟したことやアレッポの地理的位置から十字軍国家と戦闘することも多く、特にエデッサを征服したため、イスラム勢力の十字軍への反撃の第一歩を示した武将と後世に見られたが、実際は、勢力拡大のために近郊の勢力と戦っていただけである。

但し、戦争を仕掛けるには大義名分が必要で、十字軍国家と戦う時は聖戦(ジハード)と称し、イスラム勢力に対してはジハードへの参加を名目に自分の傘下に入ることを要求し、断られるとジハードのためのイスラム勢力統一を名分とするといった具合に、上手くジハードを利用した。人間性から言えば、泥酔して奴隷に殺された*24ことから分かるように、冷酷、暴虐な敬虔とはほど遠い人物だった。

*24 イスラムでは基本的にアルコールは禁止である。また身近な奴隷はむしろ忠誠心を持っているもので、それに殺されるのは、よほど人間性に問題があったと思われる。

十字軍(9) - サラディン

ザンギの死によりその勢力は解体したが、2人の息子がモスルとアレッポを分割した。後者を継いだヌレディン(ヌール・アッディーン)は有能な人物で、まもなくモスルを宗主下におき、第2回十字軍*25に攻撃された時に同盟を結んだダマスカスの併合にも成功している。ヌレディンの詳しい事績はWikipediaに譲るとして、彼は周りの全ての勢力と戦っており、ビザンティンとはしばしば同盟している。彼がアンティオキア公国の多くとエデッサ伯領の残った全てを奪ったため、しばしば第二の十字軍への反撃とされるが、特に意図した訳ではなく、むしろジハードの名目を維持するためにエルサレム王国本体を完全に滅亡させることは避けたのである。

*25 この1148年の十字軍は何も成果を挙げなかったばかりか、エルサレムと友好的だったダマスカスを攻めて、ヌレディン側につかせてしまうが、それ以上にイスラム側が新たな大規模十字軍の到来を恐れなくなり、これがサラディンのエルサレム奪還につながっている可能性がある。十字軍国家の歴史は、これ以前と以降で分けて考えることができる。

さて一方、十字軍国家は1187年にエルサレムが奪われるまで、衰退の一歩を辿ったと思われがちだが、エルサレム王国に限って言えば、常に西欧から十字軍/巡礼者を迎えていたためそうでもない。ボードゥアン3世、アモーリー1世は比較的、有能な王であり、特に北方でザンギー朝が強力になると、活路を衰退したファティマ朝に見出し、ヌレディンが派遣したシール・クーフとその甥サラディン(サラーフ・アッディーン)と競った。

しかし、ヌレディンと同時期にアモーリー1世も亡くなり、後継のボードゥアン4世はライ病に冒されており、本人は有能だったが、体の自由は効かず、子供も作れないため、王国は混乱に陥ってしまった。一方、争いに勝ってエジプトの宰相となったサラディンは、ファティマ朝に代わるだけでなく、ヌレディンとも対抗できる勢力となっていた。サラディンは敬虔だが、理性的な人物であり、彼もまた十字軍を利用している。彼はファティマ朝の宰相に任命されたにも係わらず、カリフを廃して取って代わり、ヌレディンに取り立てられたにも係わらず、彼と対抗し、彼の死後にはその子供たちを屈服させ、支配下に入れているため、客観的、倫理的に見ると恩を仇で返す下克上人間である。そこに大義名分を入れるため、意図的にイスラムの大義を唄ったのであり、その結果、サラディンを非難する者はおらず、イスラムの英雄として今日でも知られているのである。

しかし、積極的に十字軍国家を潰すつもりもなく、エルサレムがイスラム教徒を保護し全ての信者に解放する姿勢を見せたならば、宗主下の国としての存続を許しただろうと思われる。むしろ、エルサレム側の挑発がヒッティーンの戦いを引き起こし、エルサレム陥落を招いたといえる。

ここにルノー・ド・シャティヨンという人物がいる。野獣のような男で、シャンパーニュの貴族シャティヨン家の出身といわれるが、それも定かではない*25。第2回十字軍の頃にきてアンティオキア公に仕え、女性相続人コンスタンツェの夫レイモン・ド・ポワチエがヌレディンに捕らえられ処刑された後、その後釜としてアンティオキア公となったが、ビザンティン領のキプロスを襲ったり、野盗のようなことを繰返した挙句、捕えられ、アレッポで17年間、捕囚として過ごした。つまり誰も身代金を払わなかったということだ。その彼が1176年に多額の身代金で解放されたのは何らかの意図*26が働いたのだろう。

*25 コンスタンツェとは秘密結婚で、貴族たちはルノーを下賎な者として認めようとしなかった。
*26 ビザンティン帝マヌエルが払っている。彼の妻マリーがコンスタンツェの子でルノーは一時期、継父だったからとされるが、彼女がマヌエルの妻になったのは1161年で、既に15年間経っていることを考えると何か特別の意図があったとしか思えない。マヌエルはイタリア征服やビザンティン主導の東西教会合同を図ったり、エルサレムと組んでエジプト征服を狙うなど積極的な対外策を打ち出している。

その後の彼は復讐鬼と化して、イスラムの村や隊商を襲っている。特に海賊として紅海を荒らしまわり、メッカ、メディナも襲うと豪語していたことが、サラディンやイスラム教徒を怒らせた。決定的になったのは、ボードゥアン4世が和平を結んでいたにも係わらず、大規模な隊商を襲ったことで、その中にはサラディンの叔母または姉妹、あるいはそれらに仕えていた者がいたといわれており、サラディンは強硬に返還と賠償を求めたが、ルノーと組んだ新王ギー・ド・ルジニャンは拒否し、これがヒッティーンの戦いの直接の原因となった。

十字軍(10) - 第3回以降の十字軍

1187年のヒッティーンの戦いは十字軍の決定的な敗北であり、エルサレム王国はギー・ド・ルジニャンが捕虜となり、エルサレムはもちろん、新たに到来したモンフェラート侯の1隊が守るティールを除いて全てを失った。

西欧はエルサレム陥落に愕然とした。第2回十字軍のお粗末さにはあきれ返ったが、それでもエルサレム王国は健在であり、これまでにエルサレムが攻撃されたこともなく、現状維持が続くと思っていた人々には突然のできごとだった。

ここに、久々に大勧誘が起こり、当時の西欧三大君主、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ、フランス王フィリップ2世、アンジュー帝国*27リチャード1世獅子心王が参加した。まさに西欧の総力を挙げての第3回十字軍である。

*27 普通はイングランド王と称されるが、イングランドはアンジュー帝国の一部でしかない。

ここで少し面白いのは、フランス王がパリから陸路でブルゴーニュを通ってジェノヴァに行き、そこから船に乗ったのに対して、イングランド王はノルマンディからフランスを横断しマルセイユから船に乗っているのである。現代の地理からすると一見、不思議だが、南フランスはアンジュー帝国の勢力圏だからである。

ところがバルバロッサは小アジアの川で溺死し、フランス王はアッコンの包囲に参加したのみで、陥落後さっさと帰還してしまい、獅子心王1人*27でサラディンと戦うことになってしまった。彼は仇名通り、勇猛で、少ない軍勢でよくサラディンに打ち勝ったが、すでにエジプトからシリア・パレスチナを統一しているサラディンに決定的な勝利をすることは不可能であり、ヤッファなどいくつかの小都市を奪うのが精一杯で、横目でエルサレムを通り過ぎるしかなかった。それでもサラディンの進撃を止め、残り少なくなった十字軍国家領土を維持し、キプロス、アッコン*28などを加えた成果はあり、また、イスラム側が十字軍国家を完全に潰すと面倒な十字軍が大挙して押し寄せることを再び警戒するようになったため、この後、100年弱、十字軍国家は生き延びることになる。

*27 彼がフランス王やドイツ勢を率いたオーストリア公と喧嘩したためだが・・
*28 アッコンは以降、エルサレム王国の事実上の首都となり、レバント貿易で栄えた。

一方、サラディンは後悔したであろう。なまじエルサレムを落としたため、十字軍を呼び込んでしまい、エネルギーを大きく消耗させられてしまった。これがなければ、小アジア・イラクはおろかペルシアまで統一できたかもしれない。

サラディンの死後、アイユーブ朝は子供達に分割相続され、弟のアル・アディルが統一したが、常に内部分裂に悩まされることになった。

イスラム勢力が分裂していた第1回十字軍の頃とは違い、エルサレムを奪い維持するには、アイユーブ朝に決定的な打撃を与えなければならないことが第3回十字軍で判ったため、第4回以降の十字軍はアイユーブ朝の本拠地エジプトを目指した。しかし、ベネチアはアル・アディルとの関係が良好だったため、矛先を変えることを画策し、第4回十字軍はビザンティンの内紛に乗じてコンスタンティノープルを攻略した。彼らがエルサレムに向かわないため、教皇イノケンティウス3世は第5回十字軍を勧誘した。ハンガリー王はエルサレムに迫ったが、エルサレムは城壁を破壊して、住民は逃げ出してしまった。これ以降、城壁のないエルサレムには戦略的価値がなくなる。

第5回十字軍のドイツ、イタリア勢は、エジプトの港湾都市ダミエッタの占領に成功したが、カイロへの進軍中にナイルの氾濫で進退不能となりエジプト側に降伏した。第6回十字軍は破門された皇帝フリードリヒ2世が、シリアとの内戦で和睦を望んでいたアイユーブ朝のスルタン、アルカミールとの交渉*29により、1229年にエルサレムの他、パレスティナの海岸沿いの中小都市を得たが、皇帝は教皇との争いで手が回らず、休戦協定が切れた後、1244年に、モンゴルに滅ぼされて流浪してきたホラズムの一派によりエルサレムは奪われ略奪された。

*29 なまじエルサレムを保持しているため、次々と大規模十字軍が来るのであり、エジプト側も返したいのが本音であるが、ジハードを名目にしたこともあり、容易く返還するのも問題があった。実際、イスラム側で批判を受けている。

エルサレムが再び奪われたことにより、十字軍の機運が起きたとは言え、その熱はそれほど強くなく、第7回十字軍は聖王ルイ9世の個人的情熱に近く、参加した者もフランス貴族ばかりである。やはりダミエッタの占領には成功したが、カイロへの進撃は失敗し、これもまた全員が捕虜となっている。第8回十字軍にいたっては、健康を害していたルイ9世の死ぬ前の願いであり、参加者は、シチリア王となっていた弟のシャルル・ダンジュー、シャンパーニュ伯でもあるナバラ王、ギエンヌ公としてフランス王の封臣であるイングランド王の太子エドワード(1世)などフランス傘下の者ばかりで、シャルル・ダンジューの意向でチュニジアのスルタンを攻めたが、疫病が流行りルイ9世も死亡した。その後、エドワードとシャルル・ダンジューはアッコンへ行き、これを第9回十字軍と呼ぶことがある。

十字軍(11) - 終焉

一方、レバントでは、アンティオキアとトリポリは弱体化しながらも存続しており、エルサレム王国はアッコンを中心として、ティール、シドンなど海岸部にいくつかの都市を所有し、イタリア海運都市の支援*30により存続していた。また、キプロスはルジニャン家が王となり、エルサレム王国と密接に関係し、本土のバックアップや避難所として利用された。これらの十字軍国家は独力ではアイユーブ朝と戦うことはできず、アイユーブ朝の内部抗争と時々、到来する十字軍の力で存続していた。

*30 支援というより彼らの貿易拠点として存在しているといった方が良いかもしれない。

ここに新たな勢力がやってくる。モンゴルのフラグである。十字軍は当初、対イスラムでモンゴルとの提携を考えていたが、モンゴル側は対等な同盟などは全く考えずイラクに侵攻し、ルーム・セルジューク朝、アルメニアなどと同じく属国として十字軍国家もモンゴル軍に加わった。モンゴルは破竹の進撃でアレッポ、ダマスカスも攻略したが大ハーンのモンケの死によりペルシアに引き返し*31、残った部将も1260年にマムルーク朝に完敗した。マムルーク朝はモンゴルに加わった十字軍国家を許さず、まずアンティオキアを落とし、西欧の様子を伺いながら、第8回、9回十字軍が脅威とならないことを確認した上で、1289年にトリポリ、そして1291年に最後の拠点アッコンを落として、レバントの地に十字軍国家はなくなった*32。

*31 当初は後継争いに加わろうとしたが、フビライとアリクブケに絞られていることを知り、ペルシアで自立を図った。
*32 もっともキプロスはその後も存在し、しばしば十字軍を呼びかけている

これ以降も教皇は常に十字軍を叫んでおり、エルサレム回復を考える君主も存在したが、教皇の権威は世俗君主との対立、十字軍の乱用等により低下し、アナーニ事件で失墜しており、各王は中央集権化やそれを巡る争いで忙しかった。西欧が一丸となる雰囲気になることは二度となく、イスラムと戦う必要があった勢力が十字軍の名前を利用して支援を募るくらいであった。オスマントルコが勃興すると、その戦いでは十字軍がしばしば名乗られ、西欧から多くの支援を受けることもあったが、既にエルサレムを目指すものではなく、またオスマン帝国がコンスタンティノープルを得た後、初期の躍進が止まると共に、対オスマン戦はハンガリーやオーストリア、ベネチアなどの地域的争いと見なされるようになった。

精神的には十字軍は正義の軍として、西欧では何らかの行動を正当化する時に~十字軍と使われるようになり、非キリスト教徒に対する植民地化の正当化にも使われた。近年では、十字軍の行動が残虐なことや領土・交易などの利益目当てとして批判されることも多いが、純粋な宗教的行為としての十字軍活動は今日でも称賛的に使用されることが多い。

文化・社会的影響としては、西欧社会は孤立をやめ、イスラム、ビザンティンの文化・物資が流入してルネッサンスにつながり、またオリエントへの興味が高まり、大航海時代、植民地化につながっている。一方、それに伴う社会的変革として、騎士、貴族層の没落、荘園制・農奴制の衰退、商業の発達、都市の隆盛となり、近世の絶対王政に向かうことになる。

一方、イスラム世界(ビザンティンも)では、当時は、これを宗教上の争いとは受け止めておらず、トルコ対フランク+ビザンティンやエジプト対フランクの領土戦争と見なしていた。オスマントルコがヨーロッパに侵攻している頃までは、イスラム世界の範囲もインドからインドネシアまで拡大しており、ヨーロッパに対して優越感を持っていたため遺恨もなかったのだが、オスマン帝国がヨーロッパ諸国から領土を奪われ、イスラム世界が植民地化されたことにより、アラブナショナリズムの勃興と共にキリスト教徒に対する反感が強まった結果、イスラム側でも十字軍をイスラム教に対するキリスト教の攻撃と見なすようになり、今日の対立につながっているのである。

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