薔薇戦争

薔薇戦争(1) - 背景

この争いは経過の陰惨さとは裏腹に、ゴシック調の美しい名前が付いているために随分と得をしているように感じられる。この名前でなく、単にイングランド継承戦争か、ランカスター家とヨーク家の王位継承争いと呼ばれていれば、人々の印象に残らないかもしれない。同じように王位を長期間に亘り争った、12世紀のスティーブン王とヘンリー2世の母マティルダ(モード)の争いには名前がなく、日本人で知っている人は少ない。

ヨーク家が白バラをシンボルとして使っていたそうで、ランカスター家の赤バラはそれに対応したものだが、実際に使われていたのかは分からない。はっきりしているのは、両家統合の象徴としてチューダー朝が白の周りに赤のバラを使ったことだ。

シェークスピアの史劇ヘンリー6世の中で、両家を支持する貴族がそれぞれ赤白の薔薇を手にしたシーンで知られるようになり、19世紀頃にサー・ウォルター・スコットの作品でこう呼ばれるようになったそうだ。

さてこの項では、直接的な戦争の説明ではなく、王位継承争いの原因と経緯について記述していこうと思う。遠因は、百年戦争中に、ランカスター家のヘンリー4世が従兄弟のリチャード2世から王位を簒奪したことから始まる。

百年戦争を開始したエドワード3世には、エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル、ランカスター公ジョン、ヨーク公エドムンド、グロスター公トマスの5人の息子がいた。長男のエドワード黒太子の唯一の生存する息子がリチャード2世で、父と祖父が相次いで亡くなり10歳で王位を継承したが、叔父たちが政務を握り、しばしば己の利益のために王家の金を使用した。まもなく、ワットタイラーの乱が起こり、14歳のリチャード2世が自ら出向いて乱を解決したが、その原因がランカスター公らが課した重税によるものと考えられ、リチャード2世は叔父たちに強い不信感を持ったと思われる。

そのため、リチャード2世は、成人して親政を始めると、叔父たちを遠ざけて、母方の親族や新興の出身者を取り立てて側近政治を行ったため、しばしば叔父たちや有力貴族層と対立した。

一方、子供はできず、王位の推定相続人が問題になった。イングランドでは女系相続があったため、クラレンス公ライオネル(既に死去)の娘の子であるマーチ伯ロジャー・モーティマ(彼の死後はその息子エドムンド)と見なされたが、ランカスター公ジョンは男系限定の継承(いわゆるサリカ法)を主張していた*1。

*1 つまり自分が推定相続人になる。既に息子(ヘンリー4世)も居たため、これで損することはない。

リチャード2世は一時は叔父たちと和解していたが、再び、貴族層と対立を深めると叔父のグロスター公トマスを処刑し、ランカスター公ジョンの息子ヘンリー(4世)を追放し、さらにランカスター公ジョンが亡くなるとその所領を没収しようとした。それに対してヘンリーは密かに帰国してリチャード2世打倒の兵を挙げ、リチャード2世を捕らえて退位させ(後に飢え死にさせられた)、自らヘンリー4世として即位し、ランカスター朝を始めた。

ここで、ヘンリー4世は、イングランド王位継承の慣習を男系限定に変更したのか、モーティマを辞退させて王になったのかを明確にしていなかった。これが、薔薇戦争の原因になる。

薔薇戦争(2) - ヨーク朝

一般的にはランカスター朝においては男系限定継承になったと思われていた。ヘンリー4世には男子がヘンリー5世、クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリーといたため問題となることはなかったが、フランス王位を得たヘンリー5世が幼いヘンリー6世を残して急死し、ベッドフォード公が1435年に亡くなると、既にトマスも亡くなっていたため、百年戦争の戦況の悪化もあって、政争が激しくなり緊張感が漂うことになった。

ヘンリー6世にはまだ子供が無く、1447年に政争でグロスター公ハンフリーが亡くなると、次の推定相続人が問題となった。

男系限定継承であれば、ヨーク公リチャードであるが、彼はグロスター公と同じく、対仏抗戦派であり、フランスとの宥和を図るヘンリー6世*2と王妃マーガレット・アンジュー*3とは対立していたため、側近であるサマセット伯(後に公)エドマンド・ボフォートを密かに推定相続人と考えていたようである。

*2 ヘンリー6世には祖父シャルル6世と同じような精神障害があり、自分で判断することができず、王妃や側近の言いなりだったと言われている。

*3 フランス王族アンジュー公ルネの娘で、ルネは名前だけだが、ナポリ王、アラゴン王、エルサレム王などを称しており、王女でもある。ルネの母ヨランドはフランス王シャルル7世王妃の母で、一番の支援者でもあり、王族であること以上に関係は深い。実質的に宮廷政治を主導していた。

ボフォート家というのはヘンリー4世の父ジョン・ゴーントが子供達の家庭教師だったキャサリン・スウィンフォードの間に生ませた子供たちの家系で、死ぬ間際にキャサリンと結婚し、子供たちを嫡出子としたが、ヘンリー4世はボフォート家に継承権はないと定めていた。ジョン、エドマンド・ボフォートの兄弟はヘンリー5世の従兄弟にあたる。

推定相続人としての地位が認められないヨーク公は、対フランス政策の違いもあり、百年戦争の戦況の悪化の中で王夫妻とサマセット公との対立を深めたが、1453年に王夫妻に王太子エドワードが誕生したため、ヨーク公の推定相続人の地位は完全に失われてしまった。

しかし、既に後には引けなくなっていたヨーク公は、イングランドは元々、女系継承があり、正統な継承権はエドワード3世の次男クラレンス公ライオネルの女系子孫であるモーティマ家で、現在のランカンスター家は簒奪者であり、母方のモーティマ家を相続した自分が正当な王位権利者であると主張したのである。

1455年のセント・オールバーンズの戦いから戦闘が始まり、ヨーク公は1459年9月のブロア・ヒースの戦いに勝利し、1460年にヘンリー6世を捕らえ、王太子エドワードを廃させ、自分を後継者とさせたが、王妃マーガレット母子の反撃にあい、同年12月のウェイクフィールドの戦いで敗れて戦死した。しかし、息子のエドワードが王位を宣言し、1461年3月タウトンの戦いに勝利して、同年6月にエドワード4世として即位した。王太子エドワードは母マーガレットと共にフランスに亡命した。

薔薇戦争(3) - テューダー朝

その後のいくつかの反乱を鎮圧して、1465年頃にはすっかり安定したと思われたが、1465年にエドワード4世が、かってのランカスター派で新興のウッドヴィル家のエリザベス(しかも結婚歴有り)を王妃(1464年に秘密結婚)にしたため、キングメーカーと呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルなどの憤慨をかい、1470年の反乱でヘンリー6世が復位した。しかし、1471年にエドワード4世はブルゴーニュ公の支援を受けて、弟のグロスター公リチャードと共に反撃し、ウォリック伯、エドワード王太子を戦死(処刑とも)させ、幽閉していたヘンリー6世も殺害(病死とも)した。

こうしてヨーク朝は確立され、エドワード4世にはエドワード(5世)、ヨーク公リチャードの息子がおり、1483年に亡くなる時には磐石かと思われたが、幼いエドワード5世の親族として王母エリザベス・ウッドヴィルとその兄弟が権力を牛耳ることを恐れたグロスター公リチャードのクーデターにより、エドワード5世は廃位*4され、ヨーク公リチャードと共にロンドン塔に監禁(後に行方不明)され、グロスター公リチャードが国王リチャード3世となった。

*4 エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルと秘密結婚をしたとされる時期には、他の女性と婚約していたため、これは重婚であり、よって子供達は庶子であり継承権がないと主張した。

しかし、反乱が続き王権は確立せず、これをチャンスと見たサマセット公ジョン・ボーフォートの女系の孫にあたるヘンリー・テューダーがフランス王の支援を受けてランカスター派を率いて上陸し、ボズワースの戦いでリチャード3世を敗死させ、ヘンリー7世としてテューダー朝を開いた。

テューダー家の王位主張は怪しく、元々、ボフォート家に相続権がなかったことに加え、男系限定継承なら、この時点ではヨーク系のリチャード3世の兄、クラレンス公ジョージの息子ウォリック伯エドワード・プランタジネットであり、女系継承ありなら、エドワード4世の長女エリザベスであり、彼女と結婚することで何とかテューダー家の権利は正当化されているのである。

この戦争の特徴は、とにかく殺していることで、非常に血生臭い印象がある。従来の中世の戦争では、騎士は殺さず捕虜にし身代金を取るものであったが、この戦争では報復合戦となり、さらにできるだけライバルとなる継承権者を減らそうとして殺し合ったため、薔薇戦争後には、貴族の家の数は半減し、王位継承権者もほとんどいなくなってしまった。しかし、こうして有力な貴族が激減したため、テューダー朝は絶対王政に向かうことができたのである。

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