西欧の大航海時代に先立つこと数十年、東アジアにも大航海を行った人がいた。その名は鄭和、色目人のイスラム教徒で宦官である。
鄭和は雲南あたりの色目人で、この地域は明代になっても北元の支持地域であったため、明の討伐を受け、その際に少年の鄭和は捕らえられたが、利発であったため、宦官として当時、燕王だった永楽帝の宮廷に送られたようである。
元々、海に関係していた訳ではなく、通常の宦官の任務(本来は後宮の管理人であるが、明代では官僚や軍人としての役目が大きくなっている)をこなしており、最終的には最高職である太監に出世している。色目人のイスラム教徒で、この海域を知っているイスラム商人や船員に顔が利くため、大航海が企画されると責任者に選ばれたと思われる。
1405年から、大船62隻、乗組員は2万7800名余りという大船団を率いて、東南アジアからインドに航海し、最終的にはアラビア半島やソマリアまで行っており、メッカに代参もさせているらしい。一説ではマダガスカル島まで到達しているとの話もあるが、アラビア商人の交易範囲であり不思議はない。
この大航海(航海の距離だけでなくその規模が大きい)の目的は諸説あるようだが、中心となるのは、やはり中華王朝の伝統的な、中華王朝の威を世界に知らしめ、朝貢国を増やし、今上皇帝の徳を人民に認識させることで、本来、正統な甥、建文帝からの簒奪者である永楽帝の正当性を高める目的であっただろう。その副産物として、海外の珍宝や情報収集があったと思われる。他の猛獣や大型獣と共にキリンが運ばれているが、これは中国の聖獣麒麟(ビールのラベルでお馴染み)にちなんで名付けられており、麒麟は徳の高い皇帝の御代に現れるとされているため、永楽帝の目的にはピッタリの動物である。
かって西洋では鄭和はあまり知られていなかったため、近年になって紹介されると、コロンブスより70年も早くに大航海をした人がいると話題になり、大いに持ち上げられて、中には新大陸を発見していたのではないかと主張する人も出るようになり、それが逆輸入されてアジアでも時々、話題になるが、鄭和の航海は、コロンブスの新大陸航海やポルトガルの喜望峰周り航海と比較する類のものではない。
鄭和は既に、元代以前から確立していたアジア、インド洋の航路をそれまでの常識にない巨大な艦隊で、端から端まで、航海したことに意義があるが、航路自体はイスラム商人が日常的に行き来していたのである。あくまで、鄭和の航海は大軍団を引きつれて大遠征したことに意義がある。
それに対して大航海時代の幕開けで述べたように、ポルトガルの喜望峰周りは、何十年もかけてシステマティックに航路を開発しており、そこに意義があり、コロンブスは全く知られていない海域を航行し、その航路を開発すると共に、結果として新大陸を発見したことに意義がある。既知の航路を行くのと未知の海域を行くのは全く違っており、距離の問題ではない。
鄭和の艦隊が進んだ距離を反対方向にすれば、新大陸に着くといっても、途中に寄港して食料を補給できる場所も知られておらず、条件は全く違う。そもそも、中華王朝の威を世界に知らしめるために威風堂々と航海し、中国では珍しい物品を入手することが目的なのに、人気のない海域(太平洋)に行っても意味がない。
新大陸発見と言えば、既にバイキングがヴィンランドとして発見していると言われることがある。日本でも知られているし、ヴィンランド・サガなどで具体的なイメージも把握し易くなっているようである。これは、不思議でも偉業でもなく、地球儀で見るとグリーンランドはむしろアメリカ州であると言ってもよく、植民したとされるニューファンドランド島とも遠くはない。バイキングはグリーンランドまで植民していたのだから、行っていない方が不思議である。
グリーンランドの隣りの島に行ったということでなく、広大な新大陸が存在することを認識したことが重要なのであり、コロンブスはその航路を最初に航海したことが偉業なのである。
決して、鄭和やバイキングの業績を貶めている訳ではなく、比較する対象ではないということなのだ。