大航海時代の幕開け

大航海時代の幕開け(1)- エンリケ航海王子

大航海時代が始まった理由というと、技術的進歩は別として、商業に熱心でないオスマントルコ帝国が勃興し、東方貿易が減少して香辛料などの価格が上がったことやレコンキスタのエネルギーの放出先などが挙げられるが、その発端は少し違うようである。

大航海時代を開始したのはポルトガルであることは間違いないが、既に13世紀中頃にポルトガルのレコンキスタは完了している。エンリケ航海王子が1415年に探検プロジェクトを開始するまで、実に150年の歳月があり、レコンキスタのエネルギーは既に落ち着いていたであろうし、一方、オスマントルコは未だコンスタンティノープルを陥落させていない。

ポルトガルは海とカスティラに挟まれていたため、領土的に発展の余地がなかった。イベリア半島にはまだグラナダのイスラム教国があり、レコンキスタは完了していないため、カスティラとの領土争いはキリスト教世界、特にローマ教会に咎められる可能性があり、一方、単独ではアフリカ側のイスラム教国を攻めるほどの力はない。

ポルトガルは地中海と北海との中継貿易地としてそこそこ繁栄したが、利益の大部分は地中海・イスラム貿易を握るジェノヴァ、ベネチアのイタリア商人と北海貿易を握るハンザ同盟が押えている。

そこで考えたのが、アフリカのサハラの南側と交易することである。イスラム圏との交流により、サハラの南側に人が住んでおり、また金を豊富に産出することは既に知られていた。

イスラム圏はサハラの北側までであり、南側には非イスラム、そしてひょっとすると伝説のプレスター・ジョンの王国のようなキリスト教国*1が存在するかもしれず、そこを経由して東方と香辛料などの取引ができるかもしれないと。

また、14世紀の半ばにはカナリー諸島が既に知られており、土地の少ないポルトガルにとっては新たな領土獲得の可能性も期待された。

*1 おそらく、主にエチオピアについての噂だと思われるが、アフリカには若干のキリスト教徒も点在しており、それらの噂も混じっていると思われる。

もっとも、エンリケ航海王子がプレスター・ジョンの王国の探索を探検の理由の1つに挙げたのは、彼が団長であるキリスト騎士団(イベリアにあったテンプル騎士団の財産を継承したもの)の財源を使って探検を開始するための口実*2だったと思われる。

*2 プレスター・ジョンは12世紀ごろからある伝説で、しかも当初は東方にあるという話で、15世紀に本気で信じられていたとは思えない。

探検を開始した時点(1415年)では、西欧側で知られていたアフリカの最南下点*3は西サハラのボハドル岬であり、当時は、その先は世界の果てで滝のように下に流れ落ちているとも考えられて、特に無学な船乗りには恐れられていた。

この時点では特に航海法が斬新になったわけではなく、従来通りに海岸沿いを航海しながら、既知の点から少し進んで確認して海図を作って戻るという作業をシステマティックに繰り返したのであり、エンリケ航海王子の指導力と意志と財力の賜といえる。もっともアゾレス、マディラ諸島の発見は外洋方面であり、航海術の進歩と関係している。

*3 カルタゴの航海者ハンノが紀元前にそのはるか南を探検しているのであるが、忘れ去られたままだった。

大航海時代の幕開け(2) - 金と奴隷

1433年にボハドル岬を超えることに成功し、その後は、1441年にブランコ岬を越え、1444年にベルデ岬に到達した。ここはサハラの南方で、当初の目的を果たしたわけである。

当時のセナガル・ギニアはマリ帝国の版図でイスラム教国であり、その点では目論見が外れているのだが、ここで金と奴隷などの取引*4が始まることになる。

西欧のキリスト教社会では、奴隷はあまり使われていなかった*5が、レコンキスタのあったイベリア半島ではイスラム教徒の戦時捕虜などが奴隷として使用されることがあり、また黒死病などで人口が低下していたこと、アゾレス、マディラなどの植民地での労働力のために奴隷の需要があった。

*4 もう少し南のシエラレオネに胡椒海岸(Pepper Coast)というのがあるが、これはギニア胡椒と言われるショウガの1種で、一時期、胡椒の代替品として結構、利用されていた。余談だが穀物海岸というのは一種の誤訳で、ギニア胡椒の別名がGrain of ParadiseでGrain Coastとも呼ばれたのを穀物と訳してしまったらしい。grainは粒状の意味で穀物に限らない。

*5 カトリックではキリスト教徒を奴隷にすることは禁じたため、従来の奴隷も農奴などになっている。辺境では非キリスト教徒やイスラム教徒を奴隷として使うことはあったようで、また、奴隷貿易自体はイタリア商人などがスラブ人をイスラム世界に売るなどしている。

当初は奴隷は目的ではなかったようであるが、1441年に最初のアフリカ黒人奴隷が連れてこられ、1444年にはラゴスに最初の奴隷市場が作られている。これらは奴隷狩りや交戦による捕虜ではなく、現地の奴隷を購入したものだが、奴隷貿易が盛んになるにつれ、ナイジェリアやアフリカ奥地などでの奴隷狩りや、現地部族同士を煽動して交戦させ、その捕虜を買い取るなど積極的に集められるようになった。

奴隷の多くは、新しい植民地、特に新大陸が発見された後は、新大陸に連れていかれたが、奴隷の1/3はアフリカで売られたとのことである。アフリカからの金の交換物としてヨーロッパの物産だけでは足らず奴隷が転売されたわけである。

1455年にニコラス5世が出した教皇教書では、新たに発見したイスラム教徒と非キリスト教徒(パガン)の土地、物品、そして人を奴隷として所有することをポルトガル王に独占的に認めている。これは、1453年にオスマントルコがコンスタンティノープルを陥落させたことにより、教皇のイスラム教徒に対する敵意と危機感が強くなり、一方、エンリケ航海王子はポルトガルの権益を他のヨーロッパ諸国から守るために、キリスト騎士団の立場を利用して教皇を説得して出させたものである。1481年の教皇教書ではカナリー諸島より南で発見した土地、物品をポルトガルが所有できるとした。

こう書くと教皇にすごい権限があったように見えるが、13世紀とは違い、この頃の教皇の権力はせいぜい応仁の乱後の室町将軍程度*6で、これらの教書も交渉のベース程度と見なされ、実際には当事者間で条約が締結され、教書がそれを後追い承認しているだけである。1481年の教書はスペインがポルトガルとの条約でカナリー諸島を得たことを反映したに過ぎない。

*6 つまり争いの調停を積極的に行うことで影響力を維持しようとしたが、両者がそれを拒絶した場合、押し付ける実力がなかった。

1482年頃に赤道を越え、1488年に喜望峰(当初の名は嵐岬)に到達した。これによりアフリカに南端があり、ここを回ってインド洋に行けることがほぼ確実になった。ポルトガルは、これまでイスラム商人とイタリア商人を介していた香辛料を独占的にインドと直接取引できる可能性が強くなったのである。

大航海時代の幕開け(3) - コロンブス


この間、カスティラ/スペインの活動はカナリア諸島を植民地にするくらいで大きな動きはなかった。カスティラにはレコンキスタが残っていたこと、百年戦争などヨーロッパの争いに巻き込まれ易いこと、アラゴン/シチリア王国が地中海貿易を行っていたことが原因として考えられるが、ポルトガルがインドと香辛料の直接取引ができる可能性が強くなって俄然ライバル心をかきたてられたようである。

そこに登場したのが西回り航海を提案したコロンブスである。既に東回りはポルトガルが開発しており、その独占権がポルトガルに与えられた形になっているため、スペインがポルトガルと争わずに乗り出すならば西回りということになる。

この頃には地球が丸いことはほぼ確実*7になっていたが、その距離は不明な点があった。また、基本的に航海は陸地に沿って行うもので、アフリカ航路探検は全て沿岸航海で、しかも少しずつ距離を伸ばしてきたのである。アゾレス諸島などの発見は大洋航路ではあるが、インドとなると、はるかに長い距離を無寄港で航海しなければならず、途中の海図、航路も全く分かっていないため非常に危険な冒険だといえた。

コロンブスは当初、ポルトガル王に提案していたが、ポルトガルとしては、既にアフリカ航路が確実になっている以上、リスクを侵す必要はなかったであろう。そこで、ライバルのスペインに話を持ちかけたのであるが、スペインも興味を示しながらも、この計画が非常に不確かなため、足掛け6年近くも検討し、諮問委員会はコロンブスのアジアまでの距離の見積りがあまりに少ない*8と判断して一旦は拒絶したが、1492年にグラナダが陥落しレコンキスタが完了したこともあり、スペイン両王は土壇場で気を変えて、フランスに向かったコロンブスを途中で呼び戻して許可したという。

*7 天測航法は実用化しており、既に赤道を越えて、星の位置が大きく変わることも実証されており、地球が丸いことの証明となっている。

*8 コロンブスは地球を随分小さく考えており(本当の大きさを知っていたらやらなかったであろう)、インドを新大陸の実際の位置より手前にあると考えていた。

1492年に出航し西に向かったコロンブスは、予定した日数で陸地に辿り着かず、不安にかられたものの、その3日後に今のバハマに辿り着き、原住民と接触し、キューバ、イスパニオラ島を回って、座礁した船を39人の乗組員と共にイスパニオラ島に残し、原住民10数名を連れて帰途についた。

さて、彼は何を発見したことになるのだろう?彼はそこをインドと考えていたとされるが、コロンブスはインドの地誌などはある程度、調査していたはずであり、インドとは思わなかったであろう。肝心の香辛料がないのである。コロンブスの記録では、当初は中国か日本と思っていたようで、キューバをジパングではないかと思い大量の金が存在することを期待していた。彼の関心事は、原住民の文明レベルが低く容易に奴隷/召使にできること、土地の肥沃さや天候などの入植性、そして金であった。つまりアフリカのように奴隷と金、そしてマディラ諸島(彼の妻の出身地)のように植民地として考えていたようである。

彼はこの時点では大陸を発見しておらず、アゾレス諸島のような大洋の中の諸島である可能性も高い。しかし、初期の目的から言って、あえてインドの一部に辿り着いたと主張したのだろう。バスコダ・ガマがインドに到達したのは1498年であり、スペイン王にとっても、この時点でインドに到着したと主張することは権利の先取の観点から望ましいはずである。また彼は太平洋の存在を知らず、そこからそう遠くない距離を西に航海すればインドに到着するとも思っていただろう。

結局、アメリゴ・ベスプッチ*9が確認して、新大陸という大発見につながったわけである。コロンブスは一種の奇才であり、山師か賭博師だともいえるが、その大雑把で見当はずれで危険な冒険が、平凡だが着実に成果を積み重ねた堅実なエンリケ航海王子の努力に匹敵するか、それを上回る成果を示したことは興味深い。

*9 彼はポルトガル王の依頼で調査している。つまりインドでないことを確認したのである。

コロンブスの発見を受けて、1493年にスペイン出身の悪名高いアレッサンドロ6世が子午線から東をポルトガル、西をスペインに分ける教皇教書を出した。地図に線を引いて、世界を2分割するという情景は映画的で人々の興味をそそり、稀代の悪教皇の為せる業として、また世界を自分の物と思っていたヨーロッパ人の驕りの象徴として注目されることがあるが、前述したように教皇教書とはそんな大層なものではない。

1481年の教皇教書でカナリー諸島より南をポルトガルにすると述べているため、この新発見におけるスペインの権益を守るために新たに出したに過ぎない。別にこれがなくても、スペイン王は権利を放棄するつもりなどなく、ポルトガルはスペインの権利を認めながらも線を西(西経46度)にずらすよう直接交渉して、両者間で1494年にトルデシリャス条約を結んでおり、教皇教書は交渉の叩き台の意味しかなかった。

これによって現在のブラジルがポルトガル部分に入ったわけだが、ポルトガルのカブラルがブラジルを発見したのが1500年である。おそらく、トルデシリャス条約以前にこの辺に陸地があるらしいことを知っており、それを隠して条約を結んだのだろう。

この両国以外では、フランスはイタリア戦争、イングランドは薔薇戦争後のチューダ朝が政権を安定させるのに躍起であり、イングランドの援助を受けたジョン・カボットがニューファンドランドなど北米を探検しているが、これらの国が海外に乗り出すのはもう少し先で、しばらくはポルトガル、スペインの海外植民地2強時代が続く。

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