もしもハインリッヒ5世に嫡男がいたら - プランタジネット朝

神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世は叙任権闘争に一応の解決を得ながらも、1125年に子供が無いまま39歳で死去した。

これによりザリエリ朝は断絶し、諸侯の選挙によって、ハインリッヒ4世の女系の孫にあたるホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒではなく、ハインリッヒ5世と対立していたザクセン公ロタール・ズップリンブルクがロタール3世としてドイツ王に選出された。これ以降、ホーエンシュタウフェン家とロタール3世の娘婿のヴェルフ家の間で王位争いが続き、教皇の干渉や諸侯の思惑も重なって、皇帝権は低下し、神聖ローマ帝国は国家というより単なる領邦国家の連合体になってしまった。

もしハインリッヒ5世に嫡男がいれば、ロタールやヴェルフ家が対立王として立ったとしても、ザリエリ朝の正統性により、それを抑えることは可能だっただろうし、またウォルムスの和約の後、皇帝のローマへの影響力が失われたため、教皇位は再びフランジパーニ家やピエルレオーニ家などのローマ貴族に左右されるようになり、教皇インノケンティウス2世に対して対立教皇アナクレトゥス2世が立てられ共に皇帝に支持を求める状況になっており、ある程度安定した皇帝権を維持できたかもしれない。

神聖ローマ帝国の解体が始まったのはズップリンブルク朝のロタール3世以降で、ザリエリ朝が継続していれば、この時期において同様に弱体であったフランス王のように、時間を掛けて中央集権化に成功したかもしれない。

一方、ハインリッヒ5世に嫡男がいた場合、むしろイングランドとフランスに大きな影響を与えであろう。皇后マティルダ(モード)は10年の結婚生活で子供ができず、ハインリッヒ5世には庶子がいたため、マティルダが石女(うまずめ)と思われたが、アンジュー伯ジョフロワと再婚した後は3人の男子を産んでいる。その長男が後のイングランド王にしてアンジュー帝国を築いたヘンリー2世なのだ。

イングランド王ヘンリー1世の嫡男ウイリアムは1120年のホワイトシップの遭難事故で亡くなっている。ヘンリー1世には多くの庶子が居たが、嫡子はウイリアムとモードだけであり、急遽、再婚して子作りに励んだが子供はできず、1126年に未亡人となっていた皇后モードをドイツから呼び戻して、後継者として諸侯に誓約させた上で、フランスの有力諸侯アンジュー伯ジョフロワと結婚させた。

アンジューは代々ノルマンディと戦争を繰り返している仇敵同志だったが、ヘンリー1世は甥のギヨーム・クリトー*2を支持するフランス王ルイ6世に対抗するために方針転換してアンジュー家と結び、嫡男ウイリアムとアンジュー家の娘を結婚させていたが、ウイリアムが亡くなり同盟が解消されていたため、同盟の回復とモードの後ろ盾とするためにこの婚姻を取り計らった*3。2人の仲は決して睦まじいとは言えなかったが*4、1133年には長男アンリが誕生し目的は果たしている。

*2 ヘンリー1世の長兄にあたる前ノルマンデイ公ロベールの長子で本来ならノルマン家の長系継承者である。1128年に子供が無いまま亡くなっている。
*3 この結婚の際にアンジュー伯フルクはジョフロワに伯位を譲ってエルサレムに行き、女王メリザンドと結婚してエルサレム王になっており、エルサレム王国のアンジュー朝が一足先にできている。
*4 モードより11歳も年下のジョフロワは美男伯と呼ばれ多くの愛人を持っていた。また皇后であったモードは伯爵夫人と呼ばれることを嫌がり、その後も皇后と呼ばせたため、皇后(女帝)モードとして名が残った。

とこらが 1135年にノルマンディでヘンリー1世が亡くなると、宮廷にいたヘンリー1世の姉の子であるブロワ伯家のスティーブンがアンジューにいたモード夫妻を差しおいて、急遽ロンドンに向かい諸侯の支持を受けて即位してしまった。両者ともノルマン王家の女系であるが、貴族の相続では女性が相続人になることはごく普通にあったが、女王の即位はエルサレム王国ぐらいで西欧にはまだ例が無かったことと、モードが幼少の頃からドイツで育ち*5イングランドに馴染みが少なかったこと、モードの夫であるアンジュー伯の存在をノルマン貴族が嫌った*6からだと思われる。一方、ブロワ家の次男であるスティーブンは少年の頃から叔父のヘンリー1世の宮廷で育っており、ノルマン貴族にとっても馴染みのある存在だった。

*5 正式な結婚は12歳の時点だが、8歳の頃に婚約してドイツに渡っている。22歳で夫を亡くし呼び戻されたが、25歳でジョフロワと婚約しアンジューに渡っている。
*6 この点では、ヘンリー1世の後ろ盾という思惑は逆に働いてしまったようだ。

1139年から1147年までモードは庶兄のグロスター伯ロバート等と共にスティーブン王と戦ったが決着はつかず、長期の内戦のためイングランドは荒廃した。しかし、ノルマンディの征服には成功しており、アンジューとノルマンディを受け継いだ長男のアンリは1152年にアキテーヌ女公アリエノール*7と結婚しフランスにおいて強力な勢力となった。

*7 フランス王ルイ7世王妃だったが、離婚してわずか2ヶ月後にアンリと結婚している。やはりアンリより11歳年上だった。

一方、スティーブンは長男のウスタシュを1153年に亡くして気落ちしており、次男が居たが、これ以上の抗争を避け、アンリを王位後継者とすることで和解し、翌年の1154年に亡くなった。

アンリは協定通りイングランド王ヘンリー2世として即位し、やがてブリテン諸島からピレネーまで、フランスの海岸部のほとんどを支配するプランタジネット朝アンジュー帝国を築くことになる。

もしハインリッヒ5世とモードの間に嫡男がいれば、モードはその後見人としてドイツに留まりアンジュー伯と結婚することはなかったろう。当然、アンジュー帝国は成立することはなく、フランス内の領土を巡ってイングランドとフランスが長期の抗争をすることもなかっただろう。その反面、その嫡男はイングランドの継承権を持ち、神聖ローマ帝国とイングランドの君主として君臨したかもしれず*8、間に挟まれるフランスと長期の抗争を行ったかもしれない。

*8 後の神聖ローマ皇帝にしてシチリア王のフリードリヒ2世が似たような状況である。もっともローマ教皇やフランス王は猛反対してスティーブンを支援しただろう。

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