チェーザレ・ボルジア評伝

チェーザレ・ボルジア評伝(1) - チェーザレか死か

チェーザレ・ボルジアはボルジア家の一員として欧米では歴史的に非常な悪評価を受けているが、日本では「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」(塩野七生)のせいか、苛烈、冷酷なところもあるが、イタリア混乱期に天下統一を目指した織田信長ばりの英雄と見なされることが多いようだが、それも少し過大評価に思える。

伝統的なボルジア評は、ユリウス2世などボルジア家に苦しめられた人々の一方的な評価であり、道徳的な面での様々な噂や毒殺*1についての真偽は明らかにしようがない。また道徳的観念は時代背景により変わるもので、同時代の他の地域や近代において非常な悪徳であっても、ルネサンス期イタリアにおいては、それほど問題ではなかったりする*2。

*1 伝統的にカンタレラという毒薬を使ったとされるが、その存在が証明されたことはない。
*2 このため、ボルジア家の姦通や近親相姦やソドミーの噂については触れないことにする。

近年では再評価が行われて、ルクレッツィアは美しい顔で相手を毒殺するフェム・フェータルから家族に利用された犠牲者に、アレクサンデル6世は世紀の悪人から、フランスの侵入により混乱するイタリアの舵取りを行った辣腕の政治家に、チェーザレは冷酷で残忍な殺人鬼からイタリア統一を目指した英雄と見なされることもあるが、真実はその中間あたりだろうと思う。

「皇帝(チェーザレ)か死か」をモットーとしたチェーザレ・ボルジアは、両極端な二面性の狭間で怒り苦しんだ人のように思える。

教皇の子というのは本質的に矛盾を孕んだ存在だった。

・中世において倫理的に侮蔑され、身分社会の中で場所のない庶子の立場と全欧州の宗教皇帝を自認していた教皇の息子という二面性
・宗教皇帝を称しながら、軍事的にはローマの豪族・民衆にも怯える教皇と言う立場の二面性
・教皇は莫大な金銭を自由にでき王侯以上の暮らしができるが、地位は世襲ではなく子には何の保証もないという二面性
・結婚を秘蹟と呼び*3、婚姻外の性交を非難し、禁欲を要求される聖職者の長が子を持つ矛盾

*3 従って結婚・離婚は重要な宗教行為であり、その許しを得る為に、ルイ12世は多大な利益提供をし、ヘンリー8世に至っては国教会を作っている。

有力な枢機卿の子として育ち、若くして教皇の子、大司教、枢機卿となり、彼の前に出る人々は敬い阿諛追従はしても、腹の底では「破戒僧の私生児」と嘲笑っていることを普通の人なら、さほど気にもせず現在の富裕を楽しみ、教皇の座を目指すか、財力を蓄え影響力を増加して繁栄が続くように図るだけだが、なまじ感受性が高く理知的な人物であれば、自分という人間の存在意義について悩むことになるだろう。

その結果、出した答えが、軍事的な実力を付け世俗で確固たる地位を確立することで、既に、聖界の王侯とも言える枢機卿になっていたチェーザレが世俗の地位を目指すなら、王か皇帝しかないだろう。

もちろん本気でいきなり王になれるとも思わなかっただろうが、毛利元就ではないが「棒ほど願って針ほど叶う」と言う様に目標は高く持った方が良い。

狭義のイタリアは北部を指し、ロンバルディア、トスカナ、ロマーニャを併せれば、父の教皇からイタリア王位を受けることも可能であり、本来はイタリア王が皇帝という伝統があり*4、神聖ローマ皇帝も選挙制なので、皇帝に成ることも不可能とは言えなかった。

*4 ドイツ中心の神聖ローマ帝国になってからも、イタリア王に戴冠した後、皇帝に戴冠するのが伝統だった。

しかし、その為には父の教皇の存命中に出来る限り、勢力を伸ばさなければならず、その無理の為に謀略、謀殺、暗殺、騙まし討ちを多用することになり、冷酷、裏切り、残虐と言ったボルジア家の決定的な悪評を作ってしまったようだ。

ルネサンス期のイタリアは他の西欧地域と比べると格段にモラルが緩く、ボルジア家やマキャベリが君主論で書いた行為(マキャベリズム)はイタリアにおいては程度の差はあれ、普通に行われていたことだったが、それが、イタリア戦争によって全西欧の注目を集め、活版印刷術により「君主論」が世に広まった結果、他の西欧地域、特に宗教改革後はその悪徳ぶりが強く印象に残ったようだ。

チェーザレ・ボルジア評伝(2) - アレクサンデル6世

アレクサンデル6世(1431 - 1503年8月)*5は世に言われる程、悪人でも有能*6でもなく、普通に好色で欲深で子煩悩な、割と平凡な人物だったように思える。

*5 悪徳なルネサンス教皇の代表とされる。在位1492 - 1503年
*6 欧米ではボルジア家は悪の代名詞のように使われてきたが、マキャベリや近年の再評価では、道徳的には問題があるが、優れた政治家との評価もある。

1456年に25歳で枢機卿になったのは、叔父カリストォス3世が教皇になった為の親族登用(ネポティズム)で本人の能力は関係なく、38年間に渡り副教皇だったのも、教会の職は基本的には終身制で、ネポティズムで若年に就任した為、長期間の在任となっただけである。

その地位を維持し財力と影響力を蓄積したのも、教皇になるのは難しい外国人(アラゴン)だったため、歴代の権力闘争*7から少し距離を置けたからだろう。

*7 カリストゥス3世(1455-1458)、ピウス2世(1458-1464)、パウロ2世(1464-1471)、シクストゥス4世(1471-1484)、イノケンティウス8世(1484-1492)に仕えた。

教皇に選ばれた時も、有力なジュリアーノ・デラ・ローヴェレ*8やアスカリオーニ・スフォルツァ*9などが互いに牽制する中で、短期的な中継ぎとして、最古参の枢機卿で比較的高齢なロドリーゴ・ボルジアが選ばれた面がある*10。

*8 シクストゥス4世のネポティズムにより強い影響力を持っていたが、その分、敵も多かった。後のユリウス2世
*9 イル・モーロの弟だが、ミラノの影響力は減少していた。
*10 亡くなったイノケンティウス8世より一つ年上だった。買収合戦が取り沙汰されるが、誰でも良かったからこそ、最も高い値を提示した者に投票したのだろう。

アレキサンデル6世が教皇に選ばれた時に、ジョバンニ・メディチ枢機卿(後のレオ10世)が警句*11を発したとされるが、当時、若干17歳だったことを思えば、単に支持しなかったから報復を恐れただけで、さほどの洞察があった訳ではないだろう。

また、戴冠時に喜びのあまり失神しかけたというのも、凡人が思いがけない地位に就けて舞い上がっているとしか思えない。

*11 「我々は、これまで世界が経験したことの無い強欲な狼の下にいる。逃げなければ、皆、狼に飲み込まれるだろう」。実際は単に「逃げろ」と言っただけのようだ。

彼の悪徳とされる物の多くは、代々のルネサンス教皇、特にシクストゥス4世以降に顕著だったもので、票の買収にしろ、聖職売買や親族登用、そして奔放な性道徳も、段々と激しくなって*12、彼の後に反動として少し控えめになった為、彼が最悪となっただけである*13。教皇子午線にしても、スペインとポルトガルの調停が必要だっただけで、両国は条件を変更したトルデシリャス条約を勝手に結んでいる。

*12 彼は五代の教皇のやり方を身近で観察して、教皇庁の生き字引と言える位に熟知しており、より狡猾に大胆に行うことができた。
*13 特にユリウス2世は反ボルジアの塊であり、彼の宣伝による部分も大きい。

政治家や陰謀家としても凡庸な模倣者で、教皇の権威を過信し、ミラノとナポリ*14とフランスとの交渉で自家に最大の利益を上げようとしたようだが、単に信用されなくなっただけだった。イタリア伝統の勢力均衡政策*15を目指したのかもしれないが、彼には大ロレンツォのような信用はなく、ミラノのイル・モーロは危険を承知でフランスを引き込み*16、シャルル8世は教皇を無視してローマに侵攻した*17。

*14 教皇選挙でも協力を受けたミラノとは娘のルクレッツィアをペーザロ伯ジョバンニ・スフォルツァと結婚させ、末子のホーフレをナポリ王太子アルフォンソの庶子サンチャと結婚させた。
*15 ローディの平和体制は、イタリア内では五大国の勢力均衡で、対外的には五大国が協力して対抗する方針であり、それを推進する大ロレンツォはルネサンス期の人間としては誠実な方だった。
*16 フランス王位の推定相続人だったオルレアン公ルイ(12世)は、ビスコンティ家のミラノ公位の継承権を主張しており、イル・モーロとしても、フランスを引き込むことは気乗りしなかったはずである。
*17 フランスは既に教皇の権威から離れたガリカニスムを指向していた。

教皇は屈服して、フランス王のナポリ王位を認め、オスマンの王子ジェムと息子のチェーザレ・ボルジア枢機卿を人質として差し出す羽目になった。ジェムはその後、急死し、ボルジアの毒殺も噂されたが真相は不明であり、チェーザレは逃亡した*18。

*18 当時のイタリアではシャルル8世を出し抜いたと見られたが、騎士道精神の残るフランス人からすれば、教皇やチェーザレは名誉を持たないと侮蔑したであろう。

その後、シャルルを追い出せたのも、イタリアにおける急激なフランスの勢力拡大に不安になったベネチアが主導した面が強く、神聖同盟の名称は教皇庁に華を持たせたに過ぎない。

とは言え、シャルル8世を追い返したことで、教皇は主導権を取り戻すことができ、フランスに協力したミラノを切り捨て、一層、ナポリから利益を引き出すことを目指した*19。さらにガンディア公を継承していた三男ホアンを教皇軍司令官に任命し、ローマ近郊の平定を企てたが、オルシーニ討伐には失敗し*20、ローヴェレ枢機卿のオステアもスペインの協力を得て何とか取得する有様だった。

*19 ルクレッツィアをジョバンニ・スフォルツァと離婚させ、ナポリ王アルフォンソの庶子(サンチャの同母弟)ビシュリエ公アルフォンソと結婚させた。
*20 副将のウルビーノ公グィドバルド・ダ・モンテフェルトロは捕虜になっている。

チェーザレは弟や父の不甲斐なさに業を煮やしたのだろう。

1497年6月にホアンが死体で発見され、殺害者の捜査が行われたが、やがて翌年2月に突然、捜査を打ち切っている。教皇はホアンの死に嘆き悲しんでおり、突然の中止は容疑者が身内であることを示唆していると思われた。

チェーザレ・ボルジア評伝(3) - ルイ12世

ホアンの死以降、チェーザレの強力な意志が、アレクサンデル6世の行動を動かし始めたようである。ホアンを教皇軍司令官とし世俗の王侯を狙わせ、チェーザレを枢機卿として教皇を狙わせるのが教皇の狙いだったはずで、1498年8月にチェーザレが還俗して、12月にフランス王ルイ12世と提携したのはチェーザレの意図であろう*21。

*21 教皇にとっては教会政治の方が重要であり、教皇を目指せる枢機卿や大司教の地位を捨てる発想はなかっただろう。

教会のプリンス(君主)と呼ばれる枢機卿と大司教の地位を投げ捨てた以上、単に教皇領の2、3の都市の領主ではなく、大規模な領土の取得を目指しており、その為にフランス王との提携は必要だった。

フランス王との協定は、ルイ12世が現在の妻ジャンヌと離婚することの承認*22とミラノ公国の継承*23への援助を得ることと引き換えに、チェーザレにフランス爵位と王女の妻と政治的・軍事的援助を与えることが要点だった。

*22 婚姻の無効には教皇の承認が必要だった。これにより、ルイ12世はシャルル8世の王妃だったブルターニュ女公アンヌと結婚することができる
*23 ルイ12世のオルレアン家はヴィスコンティ家の継承権を主張していた。ミラノ公国 - ヴィスコンティ家 参照

教皇はナポリ王国に拘っており、ルイ12世との協定でもチェーザレとナポリ王女カルロッタ*24との結婚や教皇の承諾なくナポリを攻めないことを要求しているが、チェーザレはフランスの支援を受けるにはナポリを切り捨てる必要があることを理解していたと思われる。

イタリアでは庶嫡の差が少なく、教皇の権威を持ってすれば可能と考えたかもしれないが、フランス宮廷から見れば、王女と"破戒僧の庶子"の婚姻など問題外の要求であり*25、また因縁深いナポリ王国の攻略を放棄するはずはなかった。

*24 現ナポリ王フェデリーコの長女だが、本来、フェデリーコは王位から遠かった為、王妃の侍女としてフランス宮廷に滞在していた。
*25 これまでも見てきたように、教皇の庶子と結婚した王侯の子はいずれも庶子であり、王子・王女ではなかった。

チェーザレの花嫁は4ヶ月かけてやっとナバラ王ジャン・ダルブレの妹シャルロット*26に決まった。王女ではないが、王の妹で名門アルブレ家の娘であり、ヴァランス公位とフランス王族格と支援の約束を貰って満足するしかなかった。

*26 妻の権利でナバラ王であるため、シャルロットは王女ではない(ナバラ王国の消滅 参照)。その上、チェーザレはアルブレ家の相続権の放棄まで承諾する必要があった(一種の貴賎結婚と見なされていた)。ちなみに第一希望のカルロッタと同名の為、選ばれたのかもしれない。ヴァランス公も前職のヴァレンシア大司教と同じくイタリア語ではヴァレンティーノであり、結構、安直である。

チェーザレは1499年5月からのルイ12世のミラノ攻略*27に付き合った後、11月に念願のロマーニャ攻略に取り掛かった。既に教皇はロマーニャの各都市の代官(僭主)の解任を命じており、大義名分を持って攻勢に出ることができた。フランス王から借りた兵と教皇庁の金とコネで集めたコンドッティエーレ(傭兵)からなる1万を超す大軍で、カテリーナ・スフォルツァのイモラ、フォルリを第一の目標にしたのは手頃だったからだろう*28。

*27 イル・モーロがハプスブルクに亡命し、あっさりと終わった。
*28 かってのジロラモ・リアリオと同じ立場(教皇の庶子で教皇軍司令官)を意識して、小手調べとしてジロラモが所有していた2つの都市を奪い、はるかに上回ることを証明したかったのかもしれない。

孤立無援のカテリーナではあるが、つい先日まで聖職者だったチェーザレなら勝ち目はあると踏んで徹底抗戦に踏み切った。落城まで一ヶ月かかったものの、譜代でもない借り物の大軍を指揮するだけでも大変であり、チェーザレの器量は並以上と言えた。

しかし、皇帝マキシミリアンの援助を受け、イル・モーロスイス傭兵を連れてミラノに復帰を図った為、フランス兵はミラノに引き上げてしまい、チェーザレも一旦、戻るしかなかった。他人の兵を借りることの不安定さを思い知っただろう。

チェーザレ・ボルジア評伝(4) - ロマーニャ平定

1500年6月にアレクサンデル6世の宮殿に落雷があり、3人が死亡し、教皇自身も怪我をしたことが、チェーザレを急がせる理由となったようだ*29。

*29 チェーザレの征服は全て父が教皇であることを前提にしており、教皇が亡くなる前に、しっかりした基盤を築く必要があった。

8月にルクレッツィアの夫、ビシュリエ公アルフォンソが殺害されたのは、どう見てもチェーザレの仕業だった。ナポリ王国との縁を少なくし*30、ルクレッツィアを新たな同盟者と再婚させる為だろうが、アレクサンデル6世の意図ではなかっただろう。

*30 ルイ12世のナポリ侵攻を支援することで、一層の繋がりを得る。

1500年の聖年で多額の資金が入り*31、また4月にイル・モーロがノヴァラで捕らえられミラノが再び平定されたことにより、8月からチェゼーナ、リミニ、ペーザロ、ファエンツァの攻略に取り掛かることができた。

*31 聖年には欧州中から多くの巡礼客がローマを訪れて金を落としていく為、直接的な寄進と間接的な税収により莫大な金額が教皇庁に入る。

チェゼーナは調略のみで、リミニ、ペーザロ*32は領主が逃げ出し、ファエンツァのみが1501年4月まで抵抗した*33。

*32 ペーザロの領主はルクレッツィアの最初の夫だったジョバンニ・スフォルツァ
*33 マンフレディ家は住民の支持を受けていた為、根強い抵抗を行った。開城した際に、アストール・マンフレディと弟は助命されたはずだが、1年後に死体で発見されている。

次にボローニャのカステル・ボロネーゼを得るが、ここで警戒したルイ12世の干渉があり、ボローニャへの侵攻を中止し、ピサやフィレンツェ周辺での作戦もフランス王の干渉で中止し*34、フランス王のナポリ攻めに従軍する。

*34 兄パオロがフィレンツェに処刑されて恨みを抱いているヴィッテリは不満で、後の反乱の原因の一つとなった。

既に1500年11月にフランスとスペインでナポリ王国を分割する協定(グラナダ条約)が結ばれていた。

スペイン(アラゴン)とナポリの関係は微妙で、元々、ナポリを征服したアラゴン王アルフォンソ5世が庶子のフェランテナポリ王国を与えたのだが、アラゴンはアルフォンソ5世の弟ファン2世、そしてフェルナンドが継承しており、彼等から見れば、庶子には継承権はなくナポリはアラゴン王が所有すべきであった。一方、イタリアでは庶嫡の別は緩く、フェランテはアルフォンソ5世の子である自分の方がアラゴン全土の王に相応しいという本音があり、一応、親族としての誼は通じていたが、決して仲は良くなかった。

従って、スペインはナポリ王を積極的に救援するつもりはないが、フランス王がナポリを所有することを認めるはずはなく、ルイ12世がスペインを誘ったのは、その後のトラブルを避けるためだった*35。一方、ナポリ王フェデリーコ*36は、頼みの教皇に裏切られた形で為す術が無かった。

*35 マキャベリはスペインを引き込み、不必要にライバルを作ったのはルイ12世の失敗と述べているが、いずれにしろスペインは介入したはずで、現時点では妥当な判断だろう。
*36 1494年のフェランテの死後、アルフォンソ、フェランテ2世と慌しく交代し、シャルル8世の撤退後にナポリを回復したが、直後にフェランテ2世が死去し、叔父のフェデリーコが王となった。

1501年7月の出兵前に教皇の承諾を得て、フランス、スペイン、教皇軍がナポリに侵攻し、あっさりとナポリは征服された。チェーザレは自分の征服作業を中断して、フランス王の手伝いをすることに苛立って「カプアの虐殺」を行ったとも言われるが、チェーザレの意図だったかは不明である。

その後、ナポリと同盟していたコロンナを9月に征伐し、同年12月に妹のルクレツィアをベネチアへの抑えとなるフェラーラ公国の世継ぎアルフォンソと結婚させている*37。

*37 中小国ではあるが、エステ家は名門であり、その世子との結婚はボルジア家にとっては重要な進展だが、フェラーラは渋々だった。

恐らく、フランス王の干渉を避けるためと城攻めに要する時間を省く為に、1502年6月にカメリーノ侵攻と号しながら、電撃的にウルビーノに侵攻し、驚いたウルビーノ公グィドバルドは戦わずに逃亡した。

これは戦わずに済む効率の良い方法だったが、ウルビーノ公は教皇の傭兵だったことも多く、他の僭主のように代官を解任されてはいなかった。つまり、大義名分のない騙し討ちで*38、配下の傭兵達は次は自分かもしれないと恐れることになった。

*38 一応、カメリーノを支援しようとしたことを理由としているが、ウルビーノ公は要求に応じてチェーザレの下に兵を送っており、明らかに理不尽だった。

チェーザレ・ボルジア評伝(5) - マジョーネの反乱

1502年8月にチェーザレはミラノでルイと会見した*39。

ミラノには、ウルビーノ公を始め、チェーザレに領土を奪われたペーザロ、カメリーノの領主や、次の標的との不安を持つボローニャのベンティボリオ、マントヴァのゴンザーガ、フィレンツェの特使などが集まって、フランス王の出馬を要請していたが、ルイ12世はチェーザレを手厚く持て成して*40、彼らを失望させた。

*39 この時、イル・モーロの失脚により失業していたレオナルド・ダ・ヴィンチが軍事土木技術者としてチェーザレに雇われ、翌年4月頃まで仕えている。
*40 この時点でチェーザレを切り捨てるメリットはなく、スペインとの戦いに協力させる為にも友好を演じたのだろう。チェーザレがフランスの損失となる行為をすれば干渉はするつもりである。

これに失望したチェーザレの傭兵ヴィテロッツォ・ヴィッテリ(チッタ・ディ・カステロ)、ジャンパオロ・バリオーニ(ペルージャ)、オリヴェロット・ダ・フェルモ(フェルモ) 、パオロとフランチェスコ・オルシーニが中心となり、これにパンドルフォ・ペトゥルッチ(シエナ)、ジョバンニ・ベンティボリオ(ボローニャ)らが加わり、マジョーネで会合し、チェーザレに領土を奪われた旧領主達を糾合して蜂起する計画を立てた*41。

*41 ジャンパオロ・バリオーニは「ドラゴンに一人々食われていく」と説いたと言われる。

1502年10月に一斉に反乱を起こし、ウルビーノとカメリーノには旧領主が復帰した。兵力の半ば以上が離反したチェーザレに打つ手が無いように見えたが、チェーザレは慌てず、要衝イモラに腰を落ち着け、フランス、ベネチア、フィレンツェ*42との外交交渉を行うと共に、潤沢な資金に物を言わせて新たな傭兵を募集した。

*42 マキャベリが外交官としてチェーザレに会ったのはこの頃だが、既にフィレンツェは大国(パワーズ)とは言えなくなっている。

戦闘は反ボルジア連合が有利だったが、フランス王は現時点ではチェーザレを必要としており、ベネチアはロマーニャに強力な国家が出来ることを望まず、チェーザレの没落を望んでいたが(ウルビーノ公の復帰を支援している)、オスマンとの戦争(1499-1503)は終わっておらず、フランス王や教皇と対立する気は無かった。

連合軍の目的はチェーザレを破滅させることではないし、教皇が健在な限り、それは危険だった。チェーザレが際限無く教皇領の領主を討伐することに危機感を抱いて、自分達の手強さを味あわせ、以降、彼の行動に枷をかけることが目的だった。

元々、金次第で雇われるコンドッティエーレである為、自分達の領土に手を出さない保障を得られれば、従来どおりチェーザレに雇われることに異存はなく、各参加者の事情は其々の為、自分に有利な和睦を得ることを狙って、当初から足並みは揃っていなかった*43。

*43 ヴィッテリは主君のように命令するチェーザレに怒り、ボローニャは次の標的として強い危機感を持っていたが、オルシーニやシエナには切迫した危機感はなく条件闘争だった。

フランスは勿論、ベネチアも支援しないことが明らかになると、まずオルシーニがチェーザレと交渉を進め、最終的に他のメンバーも合意して11月の終わりに和睦が結ばれた。条件は反乱以前の領土に戻し、反乱軍は処罰されない、要するに全てを反乱以前の状態に戻すということで、ウルビーノ公らは再び亡命することになった。

このような和睦は通常なら、双方にとって次の戦いまでの時間稼ぎで、持続するものではないが*44、反乱軍が戦闘では有利な状態での和睦であり、手強い所を示して目的を果たせたと考えたのかもしれない。

*44 現状で満足なら最初から反乱は起こさないし、起こされた方は処罰無しでは示しが付かない。

チェーザレはせっかく集めたフランス兵を大部分、返してしまい、12月23日に腹心の一人と見られていたラミーロ・デ・ロルカを突然逮捕し処刑した。

チェーザレ・ボルジア評伝(6) - シニガリアの謀殺

12月31日に反乱の主要メンバーだったヴィテロッツォ・ヴィッテリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ 、パオロとフランチェスコ・オルシーニがシニガリアで突然、逮捕され、その配下の軍は壊滅させられた。

この辺の事情は、当時、近くにいたマキャベリですら疑問に思っており、後世の人間としては推測*45するより仕方が無いが、総合的な材料がある点でマキャベリより有利な立場とも言える。

*45 この時代、皆、本音と建前が違い、記録等は相互に矛盾する物が多く、様々な憶測が可能である。

チェーザレは明らかに中世的国家ではなく、中央集権的な近世国家を目指しており、過渡期として傭兵や外国の援軍を使用しても、最終的には職業軍人と徴兵による直属軍を考えていた。この為、其々が領主/僭主であるコンドッティエーレは、利用できる間は利用しながらも最終的には全て討伐するつもりだったと思われる。

時間的制限を意識し始めたチェーザレは時間の掛かる都市/城砦の攻略より、詐術を使った急襲や謀殺を好んでおり、この機会に一気に片付けることを意図したのだろう。コンドッティエーレがいなくなれば、フィレンツェなどの共和制の都市国家は抵抗する武力を失う効果もあり、自軍は子飼いの隊長とロマーニャの兵と、しばらくはフランス兵とスペイン兵で賄うつもりだったようだ。

おそらく和睦の時点で、チェーザレは「シニガリアの謀殺」を計画しており、フランス兵を返したのも、反乱軍を安心させる為だろう*46。手元の兵は少なくなったが、かなりの兵を分散して配置しており、反乱軍が再襲撃することも想定していただろう。

*46 食糧不足で、大軍をいつまでも手元に置いておけないという事情もあった。

ロルカの件は、マキャベリは「厳しい統治への恨みを彼一人に背負わせた」とするが、何故この時期に?という疑問がある。ロルカをいずれ処刑しようと思っていたが*47、ロルカとパオロ・オルシーニの仲が悪かったため、このタイミングで処刑すれば彼らの好意を得られ油断させられると読んだのかも知れない。ロルカが反乱軍と内通していたとの憶測もあるが、その場合、処刑することは反乱軍に警戒心を与える為、街の広場に晒すことはしないだろう。

*47 色々、良くない噂のあった人で、小麦の横流しをして食糧不足を一層悪化させたとも言われる。

シニガリアは本来、ウルビーノ公の領地だが彼の妹の子*48の所有で、和睦交渉の際に、傭兵隊長たちが和解の証として奪取することになっていた。しかし、ヴィッテリは不服で渋々参加し、バリオーニは参加しなかった。

*48 フランチェスコ=マリア・デラ・ローヴェレで、後にウルビーノ公を継承する。

ウルビーノ公の退去と共にシニガリアも降伏に同意したのだが、城砦を預かった傭兵ドーリア*49が、チェーザレ本人への降伏を希望した為、チェーザレが直々に出向くことになったと言う。

*49 「プレヴィザの海戦」に登場する、あのアンドレア・ドーリアで、当時は傭兵としてローヴェレ母子が逃亡した後の城砦を守備していた。

「シニガリアの謀殺」は傭兵隊長たちがチェーザレの暗殺を計画していて、チェーザレはそれに気付いて先手を打っただけという論がある。

確かに、ヴィッテリは自分の死の危険を家族に仄めかしており、事件の後、ドーリアが引渡しをせずに逃亡したのは、暗殺計画の一味だったからとも考えられる。

権謀術策のルネサンス期であるため十分有り得るのだが、教皇が健在な中でチェーザレを暗殺すれば激しい報復が予想でき、あえて和睦した後にやりたいことではないように思えるが、チェーザレさえ倒せば報復は怖くないと見たのかもしれない。

いずれにしろ、チェーザレは反乱を許すつもりはなく、ここでの謀殺を計画していた。あらゆる事態を考慮して兵を配置し、12月31日に、警戒されない程度の兵を率いてシニガリアに入り、出迎えた隊長たちと親しげに会話しながら、そのまま宿舎に入り、伏せてあった兵に4人を逮捕させた。ヴィッテリとオリヴェロットはその場で処刑され、オルシーニの2人はローマに連行され、オルシーニ一族の討伐の後に処刑されている。

その後、迅速に反乱メンバーの領地(チッタ・デ・カステロ、フェルモ)を平定し、教皇領のほとんどは彼の勢力範囲となった。既にペルージャ、ボローニャ、そしてシエナでは僭主が追放されチェーザレに従う意向を示し、フェラーラとは同盟しており、マントヴァとも友好関係だった。五大国のうち、ナポリとミラノは消滅し、フィレンツェもフランスの影響下にあり、チェーザレのロマーニャ公国は新たな大国に成り上がろうとしていた。

しかし、正式に和睦して再び契約した相手を謀殺したとして、チェーザレの悪評は決定的になった。

「ロルカのような忠実な部下でさえ殺される、助命されたマンフレディ兄弟も殺されている、妹婿のアルフォンソも殺害している、たぶん弟のホアンを殺したのもチェーザレだろう、最近、枢機卿やローマの金持ちが死去して、その財産が教皇庁に入っているが、きっとチェーザレと教皇が毒殺しているに違いない」と人々は囁いた。さらに1503年5月に教皇の秘書フランチェスコ・トローチェがローマから逃亡し、捕えられ処刑されたことで、様々な噂が飛び交った。

もっともオリヴェロット・ダ・フェルモ*50のようなのが、僭主の座を維持できているのだから、ルネサンス期においては悪評が即、不利になる訳でもなく、狡猾な手腕が感心されてもいる*51。しかし、イタリア以外の地域、特にフランスでは、このような行為は名誉を持たないと軽侮され憎まれることになる。

*50 自分を歓迎してくれた伯父や街の有力者を皆殺しにしてフェルモの僭主となっていた。
*51 嘘や騙まし討ちを武略と評価する日本の戦国時代に似ているようだ。

フランス王の意向に従わねばならない状況は変わらず*52、チェーザレはスペインと接近することで*53、フランス王の影響力を低下させようとしていた。

*52 フランス王の干渉でパンドルフォ・ペトゥルッチが早くも3月末にシエナに戻っており、また、4月の「チェリニョーラの戦い」でフランスはスペイン軍に敗北し、ルイ12世はチェーザレにナポリ遠征の従軍を命じている。
*53 元々、ボルジア家はアラゴン(バレンシア)の出身である為、スペインの方が親しみがあった。

チェーザレ・ボルジア評伝(7) - 没落

1503年8月12日にアレクサンデル6世チェーザレは同時に発病した*54。

18日に教皇は死去し*55、反ボルジア勢力は一斉に蜂起した。チェーザレは死線を彷徨い何とか命は取り止めたが、その間にロマーニャの各都市には旧主が復帰し、わずか一ヶ月余りで、残ったのはフォルリ、イモラ、チェゼーナ、ファエンツァ*56だけだった。

*54 コルネート枢機卿の宴席から数日後に発症した為、毒殺しようとして誤って自分達が飲んでしまったとの根強い憶測があるが、疫病の感染が有力である。
*55 教皇の死に際に悪魔が現れて、連れて行こうとしたと大真面目に噂されている。また、腐敗の進みが速く、死体が黒ずみ膨れ上がった為、一層、毒殺説を強めることになった。
*56 フォルリ、イモラは旧主(カテリーナ・スフォルツァ)が嫌われており、チェゼーナ、ファエンツァには旧主がいない。

病床の中から命令して教皇庁の金庫の金を押さえたが、ローマ近郊にはコロンナ、オルシーニが復帰し身辺に危険が迫る中*57、教皇選挙(コンクラーベ)の為と説得されて、寝たきりのチェーザレは担架で運ばれてネピに退去した。

*57 とりあえずコロンナとは対オルシーニで同盟することに成功した。

フィレンツェとベネチアは公然とロマーニャの旧主達を支援したが、フランス王はチェーザレとコロンナ(親スペイン)の同盟を非難しながらも、チェーザレへの支持を9月1日に表明している。

9月22日の教皇選挙では比較的、好意的なピウス3世が選出され*58、チェーザレもローマに戻ることができた。

*58 ローヴェレ枢機卿とフランスのダンボワーズ枢機卿が有力候補だったが、前者には敵が多く、一方、イタリア人はフランス人の教皇を避けたい気持ちが強く、不利と見たダンボワーズが高齢(64歳)で無難なピウス3世を支持した。チェーザレが影響力を示せなかったのが却って幸となったと言える。

ロマーニャではチェーザレの部下が善戦しており、残った領土を防衛するだけでなく、しばしば取り返してもいたが、ナポリでの戦闘の為、フランス兵もスペイン兵も引き上げてしまい、残った兵の多くは脱走し、チェーザレには送る兵がなかった。

さらにベネチアの傭兵ダルビアーノとジャンパウロ・バリオーリがローマに向かっており、これにオルシーニも加わった為、手持ちの兵が少ないチェーザレはサンタンジェロ城に逃げ込まなければならなかった。

10月18日にピウス3世がわずか1ヶ月の在位で亡くなり*59、11月1日の教皇選挙では仇敵だったジュリアーノ・デラ・ローヴェレがチェーザレと協定を結んで支持を受け*60、満場一致で選出されユリウス2世と名乗った。

*59 当然、暗殺説があり、シエナ僭主パンドルフォ・ペトゥルッチの毒殺との噂があった。
*60 チェーザレはボルジア家の親族や関係者などスペイン系の枢機卿に影響力を維持していた。

ユリウス2世は表面上はチェーザレの教皇軍司令官職を認め、協定通り支持する姿勢を見せ、チェーザレはフィレンツェが通行許可を出さない為、教皇軍の船でオステアからジェノバに向かい、同盟国のモデナ・フェラーラを通ってロマーニャに向かうことにしたが、11月19日にオステアで教皇の命令により逮捕された*61。

*61 協定を無視して、ロマーニャ公国を教皇庁に返還するよう命令し、拒否されると命令違反として逮捕した。

教皇は抵抗を続けるイモラやチェゼーナの引渡しを交換条件として要求し、ローマに戻されたチェーザレは拒否し続けていたが、12月に腹心のミゲル・ダ・コレッラ(ミケロット)がフィレンツェに敗戦し捕虜となった為、気落ちして了承した。しかし、ロマーニャではチェーザレの解放が先と要求し、怒った教皇はチェーザレの全財産の没収を宣言し、ボルジア派の枢機卿は恐れてナポリのスペイン軍の下に避難した。

しかし、12月29日にスペイン軍が「ガリリャーノの戦い」でフランスに勝利したことで状況は変わり*62、スペイン系の枢機卿の要求により、1504年初頭に、全てを失ったチェーザレは解放され、当初はフランスに向かうと思われていたが、ナポリのスペイン軍の元に向かった。

*62 過去の経緯により、ユリウス2世は親フランスだったが、スペインの機嫌を考慮する必要が出てきた。

スペイン軍の将ゴンザロ・デ・コルドバはトスカナ侵攻*63にチェーザレを利用する計画があり、歓迎し協力する意向を示したが、スペイン王から逮捕命令が出て*64、5月にチェーザレが出立の挨拶に訪れた時に彼を逮捕し、8月にスペインに護送した。

*63 元々、ピエロ・デ・メディチを使うつもりだったが、ガリリャーノで戦死したため、代わりにピサやアレッツォなどの支持を得ていたチェーザレを利用しようと考えたようだ。
*64 表面上の理由は、弟ガンディア公ホアンの殺害容疑を未亡人が訴えていた為だが、実際は教皇の要請に応じた。

再起への希望を持った後だけに、この裏切りには意気消沈したチェーザレだが、スペインでも希望は捨てておらず、ルイ12世に手紙を書いて、フランスの公爵としてフランスに戻ることを願ったが、フランス王はチェーザレが解放後にスペイン軍の下に行ったことを咎めて、既にヴァランス公領を没収しており、願いを拒否した。

スペインは相継ぐ勝利で評判を高めたコルドバ将軍の動向を疑っており、チェーザレの起用を検討していたが、フェルナンド王が自らナポリに出向いた為、チェーザレの出番はなかった。

解放を待てないチェーザレは、1506年10月に外部の手引きで、幽閉されていた塔から飛び降りて脱出に成功し、足と手を骨折しながらも12月に義兄のナバラ王ジャン・ダルブレの元に辿りついた。

ナバラはスペインと戦っており*65、チェーザレを将軍として起用したが、1507年3月の戦闘で戦死した*66。享年32歳。

*65 ナバラ王国の消滅 参照
*66 かっての神通力は無くと言うより、元々、チェーザレは攻城戦の指揮や戦争の総指揮だけで、直接戦闘は部下に任せており、ほとんど経験がない。

チェーザレ・ボルジア評伝(8) - 評価

チェーザレの評価は難しい。道徳的な事は置いても、活躍した期間が1499~1503年(24~28歳!)の4年間に過ぎないのだ*67。

わずかな期間にあれだけの征服を成し遂げたと言っても教皇領内であり、大義名分、資金、フランスの援助、全てを父の教皇の権力により得て、教皇庁の資金で集めた傭兵とフランス王から借りた大軍で、1つか2つの都市を有する小領主達を攻めただけであり*68、大部分の相手は最初から戦闘をせず逃げ出しており、フォルリとファエンツァが抵抗しただけだった*69。

*67 わずか4年弱で、これだけの事を達成したのは驚きであるが、難しいのはこれからである。
*68 とは言え、聖職者として軍事訓練を受けていなかった24歳の若者が、譜代でもない傭兵と借り兵で構成される大軍を指揮するだけでも大変なことではある。
*69 ファエンツァには6ヶ月弱かかっている。これに懲りて手強い相手への城攻めは止めたようである。

五大国のような強力な相手とは戦っておらず、戦争の華である会戦も行っていない。戦意の高いファエンツァには苦戦し、傭兵の名門であるウルビーノ公は騙まし討ちで戦わずに占領しており、「マジョーネの反乱」では戦闘は不利で「シニガリアの謀殺」で一気に片をつけている。

相手の戦意を失くさせ戦わずして勝つのは、イタリアのコンドッティエーレらしい戦い方であり、孫子でも推奨しているが、他の地域では戦争は神の裁定を受ける神明裁判との考えや騎士道精神が残っており、戦闘以外の手は卑怯だとの考えが根強い。

部下の受けが良かったと言っても難戦はなく、常に資金は豊富で、支払い不能になったことも飢えたこともなく、軍規厳正を実行できるのも十分な報酬を与えているからである*70。

*70 略奪は報酬が払われなかったり、その一部として行われることが多い。

新たな領地を良く治めたと言っても3-4年であり、住民は征服後は息を潜めて様子を窺っており、不満が発生するのは、その後である。彼の軍備をロマーニャの税収で維持しようとすれば極端な重税となり不満が発生したはずで、そうならないのは教皇から無尽蔵の資金が流れていたからである。

ボルジアの毒殺の悪評については真偽は不明で、単に反対派の中傷のようにも思えるが、歴史上、怪しい死は多く事実無根とも言えない*71。ただ、毒殺は道徳上、悪だとしても、数百・数千人の死傷者を出す戦争の代わりに、人1人を毒殺することで済むのであれば、必ずしも非常な悪徳とは言えない*72。

*71 魔法のような毒薬は無いにしろ、例えば、身体の調子を崩す程度の毒でも、疫病が流行っている状況では、罹患率を非常に高くするだろう。
*72 文化の高い世界ほど、暗殺や謀略が多いものである。

しかし、暗殺や謀殺や策略は一見、効率の良い方法に見えるが、信用する人がいなくなり、また通常は名誉を重んじる人間も人を欺く者なら騙しても構わないと考えるため、長期的には不利な手段である*73。

*73 通常ならユリウス2世の違約は非難されただろうが、相手がボルジアなら当然という雰囲気があった。

結局、彼は教皇の力(権威と金とコネ)と卑劣な手段を使って「騙して殺して奪っただけ」という厳しい評価が伝統的だが、あながちボルジア憎しの偏見とも言えない。

チェーザレの没落は仕方がなかった。マキャベリに語ったように「教皇が死去した時のあらゆる対策を考えていたが、同時に自分が死にかけているとは思ってもみなかった」訳で、自分自身が死にかけ、生き延びてもしばらく身体の自由も利かないようでは、どうしようもなかった。

ユリウス2世を支持したことをマキャベリは致命的な判断ミスとしており、ルーアンの枢機卿(ダンボワーズ)を支持すべきだったと述べている。しかし、フランス人の教皇では、フランス王の力が強くなりすぎ、チェーザレの活躍する余地が無くなる可能性があり、一方、ローヴェレなら自分を使わざるを得ないと期待していただろう。

もし、チェーザレが第三の候補を支持すれば、親フランスだったローヴェレはダンボワーズと連合して、どちらかが教皇となり、チェーザレは教皇とフランス王を敵に回すことになる。

恨まれる方は恨みを過小に見積もるものであり、チェーザレはローヴェレ枢機卿の恨みを過小評価し、自分の利用価値を過大評価していたように思える。

一方、ユリウス2世はチェーザレを軽く見ており、教皇の権威と資金があればチェーザレ程度のことは自分でもやれると考えており、実際、後に軍人教皇と呼ばれている。

フランス王に身を任せた方がマシだったかもしれないが*74、フランス王の好意も失っていたため、やはり幽閉された可能性がある(イル・モーロの二の舞になったかもしれない)。

*74 直前にナポリでフランス軍が敗北しており、負けた方に行くほうが歓迎される可能性は高い。

スペインの下に行ったのは、ボルジア家がバレンシア起源でスペインの方が親しみがあり、さらに勢いのある方が活躍の場が多く好ましく感じたのだろう。

スペイン王にも裏切られたのは、シニガリアの対処などで、あまりにイタリア的、マキャベリズムな姿勢が、イタリア外の王侯から、利用するより滅ぼした方が良いと警戒された面もある*75。フェルナンド王は将来的にはチェーザレを利用しようと考えていたが、現時点では教皇の機嫌を損ねたくはないため逮捕に同意したようだ。

*75 スペイン女王イザベルはチェーザレを嫌っていたと言われる。

アレクサンデル6世が後5年、10年長生きすれば、イタリア戦争の中で、チェーザレは(ユリウス2世より上手く)スペイン王、フランス王、神聖ローマ皇帝、ベネチアの強大国を操り、スペインの代わりにフィレンツェ、ミラノを支配下に置いて、イタリア王に成れた可能性はあり、教皇の死去時に傀儡の教皇を立て、かってのフランス王とアヴィニョン教皇のような関係を維持できたかもしれない。

せめて、教皇死去の際にチェーザレが健康体であれば、ローマを軍事力で押さえて、自派の枢機卿を新教皇に選出し、ロマーニャ公国の防衛ぐらいはできただろう。

結局、チェーザレは能力としては可能性があったが、活躍した期間が短か過ぎ、彼の成功は「例を見ないほどの幸運に守られた」からであり、没落は「信じられない不運が重なった」からで、適切な評価をすることは不可能だと言える。

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