西欧の成り立ち

欧州連合(EU)の元となった欧州共同体(EC)の原加盟国は仏独伊とベネルクス三国である。イギリスは大陸とは別の独自路線を取る伝統であるし、北欧も1つの地域として一線を画しており、スペインはフランコ体制で自由主義諸国とは相容れず、東欧は未だ冷戦中で共産主義下にあったため、原加盟国が上記6カ国になったのは自然ではあるが、見方を変えると、これらはカール大帝のローマ帝国の版図だった国々で、自分達こそが現在の西欧の原点であると、これらの国々が自負しているためでもある。

教科書や年表では西ローマ帝国は476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより滅んだとされるが、これは幼少の皇帝から簒奪したオドアケルが皇帝を名乗らず、皇帝位を東ローマ帝国に返還して、自らはその代官としてイタリア王となったために過ぎない。実際は国家としては400年頃から既に機能しておらず、なんとかイタリアを支配するだけであり、ローマ帝国という概念だけなら、これ以降もイスラムによる征服までこれらの地域のゲルマン国家は(東)ローマ帝国を名目的には宗主としていた。

ローマ的なものは急激に滅亡した訳ではない。その領域に国家を建てたゲルマン系の民族は、程度の差はあるが、ローマの制度を維持しながら、軍事、政治部門を自分たちのゲルマン部族制度に置き換え、徐々に融合させていったのであり、その過程がローマの衰退なのである。従って、ローマの概念はユスティニアヌスの時代には十分残っており、それが再征服を容易にした理由であるが、結果的にはローマを一層、衰退させてしまった。

ローマ的というのは言い換えれば地中海的ということであり、ギリシア、ローマ文明はエジプトやヘブライ、フェニキアなども含めて地中海文明だったといえる。

しかし、7世紀に急激に勃興したイスラム勢力により地中海が奪われ、ギリシア、小アジアはビザンティン帝国に残ったが、中東、アフリカ、スペインはもちろん、南フランス、イタリアの海岸部もイスラムに占領されるか、または頻繁な襲撃・略奪により衰退するかしており、ここに西欧は地中海から切り離されてしまった。一方、地中海文明の科学・技術的な面はイスラムが受け継ぐことになる。

西欧に残された部分は、ローマからは辺境とされたガリア北部、ブリタニア、そしてローマから蛮人の地とされたゲルマニアである。

西欧は文明地域である地中海から切り離された結果、長い中世のいわゆる暗黒時代を迎えるが、その理由としては次の要因が挙げられる。

  • フン・ゲルマン諸族の侵入による破壊および支配

  • イスラム勢力による地中海の占領

  • フランク王国の分裂から始まる9-10世紀の戦乱

  • 他の文明からの孤立

  • キリスト教による異教的または教義に反する科学・文化の抑圧


つまり、フン・ゲルマン部族の侵入により破壊と混乱が生まれ、その支配下によりローマ的要素は徐々に衰退し、イスラム勢力による地中海の占領により、西欧は文明地域である地中海から切り離されて、ローマにとっての辺境と蛮人の地のみが残り、カール大帝によるカロリング・ルネッサンスで一時期、復興するも、大帝死後の戦乱によりそれらも失われ、イスラムはもちろん、ビザンティンともあまり交流が行われず、影響力を強めたローマ・カトリックにより異教的なギリシア・ローマの文化・技術が抑圧され、神の意志を重視するあまり科学・技術などを軽視したことにより文明は大きく衰退し、それが十字軍による他文明との交流が始まるまで続いたのである。そして他文明との交流によりギリシア、ローマ文化が再流入したのがルネッサンスである。

ルネッサンス以降、ギリシア・ローマ文化を再認識した西欧は、自らの文明をギリシア・ローマから連続的に継続しているものと認識し、西欧史ではそのように教えているが、今日の西欧を形作る特徴の多くは、孤立により独自の文化・習慣を熟成させた、この中世に生まれ育ったのである。

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