十字軍といえば唯一の成功した十字軍と言われる1096年の第1回と西欧三大君主(フリードリヒ1世、リチャード1世、フィリップ2世)が参加した1189年の第3回が有名であり、それ以降は、エルサレムに向かわない本道から外れた寄り道十字軍と見られがちだが、最も十字軍運動が盛んだったのは、この第3回十字軍から1229年の第6回十字軍までの約40年間なのである。
第1回十字軍の一応の成功により、しばらく続いた熱狂も1101年の十字軍の不首尾などもあり、時間と共に沈静化したいったが、同時にエルサレムへの巡礼は定常化し、騎士や兵士はしばらく聖地に滞在してイスラム教徒との戦いに参加した。また、領土を欲する騎士・貴族の次男以下や傭兵などの領地、財宝、金銭を求める冒険者たちもやってきて一攫千金を目指した。十字軍というのは回数で表される大規模な遠征隊だけでなく、小規模な遠征隊や十字軍国家*1に滞在して戦う人たち全てを指すのである。イタリア海運都市*2の海軍・商船は東地中海の制海権を握り、レバントに人や物資を送って十字軍に貢献したが、中東や東方の産物を持ち帰り大いに繁栄した。
*1 第1回十字軍で設立されたエルサレム王国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エデッサ伯国。そしてキリキアの小アルメニアやキプロス王国を含むこともある。
*2 この時点ではジェノヴァ、ベネチアだけでなくピサも重要だった。
十字軍への熱気が再び高まったのは、十字軍国家が西欧の植民地であることが普通となった中で、1144年にアレッポ・モスルの太守ザンギーによりエデッサが奪われたからであるが、ここで十字軍の目的が問い直されることになった。
十字軍の目的が聖地の確保であることは明白であるが、この時点でエルサレムは健在で直接的な脅威も受けておらず、エルサレムから遠く離れた現在のトルコ南部に位置するエデッサを取り返すことに十字軍として意味があるのかということである。
そこでローマ教皇庁は十字軍の目的を拡張し、異教徒の討伐とカトリック圏の拡大を導入して*3、北方十字軍とレコンキスタを正式に十字軍として認め、ドイツ、北欧やスペイン、南フランスの騎士にはそちらに参加することを勧めた。
*3 元々、最初から教皇庁の意図には含まれていたが、第1回十字軍で明示された目的はエルサレムの確保だった。
しかし、それにより十字軍への熱意は分散されることになった。また、現地諸侯はアンティオキアやエデッサでの戦いや、あるいはザンギー朝ヌレディンの本拠地アレッポを攻撃することを望んだが、第2回十字軍に参加したフランス王とドイツ王にとっては十字軍はエルサレムが目的であり、エルサレムに隣接するダマスカスと戦うことを望み、意思の統一を図れないまま、わずか数日で包囲を断念することになった。
この失敗は西欧における十字軍熱を沈静化させることになり、ヌレディンやサラディンによりイスラム勢力の統合が進み、エルサレム王国の危機感は増しても、未だエルサレムが包囲を受けたこともなく、西欧ではこの状態が続くという安堵感があった*4。
*4 実際、両勢力は互角であり、1187年のヒッティンでの壊滅的な敗戦はギー・ド・ルジニャン王やルノー・ド・シャティヨンの致命的な判断ミスによるものである。
突然のエルサレムの喪失はかってない危機感を西欧に与え、それまで対立していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサと教皇も和解し、前代未聞の西欧三大君主による第3回十字軍が結成されたが、その結果は、エルサレムへの平和的な巡礼の保障という極めて不満足なものであり、1197年には皇帝ハインリッヒ6世により新たな十字軍が企画された*5。
*5 ハインリッヒ6世は出発前に死去し、先発したドイツ部隊はシドンとベイルートを陥落させた後に帰国した。
そして1198年に教皇最盛期を作り出したとされるイノケンティウス3世が教皇となり、1198年のリヴォニアへの北方十字軍、1202年-1204年にビザンティン帝国を征服した第4回十字軍と続く。初めてのキリスト教徒への正式な十字軍であるアルビジョワ十字軍は1209年から始まり1229年まで続いた。
さらに1212年にはレコンキスタにおける最大の決戦であるナバス・デ・トロサの戦いがあり、カスティラ、アラゴン、ポルトガル、ナバラとキリスト教国が総力を結集して、ムワッヒド朝のイスラム勢に大勝利し*6、同年にはドイツやフランスで神のお告げを得たとする少年の呼びかけによる民衆十字軍(少年十字軍)が起こっている。
*6 以降、レコンキスタは一気に進み、1251年にはカスティラの貢納国となったグラナダを除いてイベリア半島はキリスト教王国の支配下に入っている。
第5回十字軍は最強の教皇イノケンティウス3世が満を持して1215年の第4ラテラン公会議で呼びかけたものであるが、アルビジョワ十字軍が予想外に長引いているためこれまで十字軍の中心だったフランスの騎士の参加は少なかった。ドイツとイタリアの騎士に多くの期待が寄せられることになったが、皇帝フリードリヒ2世は結局参加せず、十字軍はカイロへの進撃中にアイユーブ朝の計略に嵌って全員が捕虜となった。
この後のローマ教皇と神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の争いは十字軍の権威や存在意義に大きな傷を与えることになった。破門されたフリードリヒ2世が1228年に第6回十字軍を率いて、イスラム教徒と戦うことなくエルサレムを回復したことは、これまでの十字軍への大きな懐疑であり、一方、教皇が対立相手のフリードリヒ2世との戦いを非公式とは言え、しばしば十字軍と称したことは十字軍の乱用と受け止められた。
古典的十字軍運動はここで終わったのかもしれない。エルサレムを確保するには別に戦う必要がないことが証明されてしまったのである。教皇と皇帝が争いで忙しい間に、せっかく得たエルサレムは1244年にイスラム勢力に奪われてしまったが、西欧の反応は乏しかった。
フランス王ルイ9世が1248年に第7回十字軍に出かけるが、後に列聖され聖ルイと呼ばれるルイ9世の個人的情熱によるもので、これが最後の本格的な十字軍となった。
十字軍狂騒曲
十字軍狂騒曲(1)
十字軍狂騒曲(2)
第7回十字軍はやはりカイロを狙ったが失敗し、ルイ9世以下全員が捕虜となった。800,000ベザント*7の莫大な身代金を払って解放された後は、エルサレム王国の臨時首都であるアッコンへ行き、1254年までダマスカスのサルタンと戦ったり、十字軍都市の防備の強化に努めたが、エルサレムは回復できず*8、摂政を任せていた母ブランシェの死去によりフランスに戻った。
*7 ビザンティンのソリドゥス金貨やそのコピーであるイスラム圏のディナール金貨に基づいた単位。1枚につき金4〜4.5gを含んでいた。
*8 エジプトではクーデターによりマムルーク朝が成立し、ルイ9世は身代金支払い時の交渉でこれと和睦・同盟するが、シリアやエルサレムは依然としてアイユーブ朝分家の諸君主が割拠していた。
当時のヨーロッパ最強君主で、誰よりも敬虔な聖ルイができなければ他に誰ができるだろうか?西欧やレバントでは諦めムードが漂い、ホーエンシュタウフェン家のエルサレム王は教皇との争いの中でずっとヨーロッパにおり、レバントでは従来の宮廷派対貴族派に加えてゲルフ対ギベリンの争いも加わって求心力は失われていた。1256年にはアッコンでジェノヴァとベネチアが争い、現地諸侯も2つに分かれて争っている。
1258年にはフラグが率いるモンゴル勢が中東にやってきたことで情勢は一層、混迷した。モンゴルには多神教徒、仏教徒の他、キリスト教徒やイスラム教徒もおり、彼らの前では宗教的対立は無意味だからである。トリポリ、アンティオキアは小アルメニアと共にモンゴルの臣従国となったが、1260年のアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝が勝利したことで状況は一層悪化した。また1261年にはラテン帝国が消滅しており、第4回十字軍の恨みを残すパレオロゴス朝ビザンティン帝国の支援は期待できなかった。
1270年にルイ9世がチュニジアへの第8回十字軍中に死去し、アッコンまで行ったエドワード(1世)もモンゴル(イル汗国)と提携して戦ったが、マムルーク朝と休戦を結ぶことしかできなかった。
最後の頼みの綱となったシチリア王シャルル・ダンジューも1282年のシチリアの晩鐘により、遠征は不可能となった*9。1289年にトリポリが落ち、1291年にアッコンが落ちて、その年の内にティール、シドン、ベイルートが落ち、レバントにおける十字軍国家は消滅した。
*9 遠征の直接の目的はラテン帝国の復活だったが、その後のエルサレム回復も標榜していた。
この後は聖地への大規模な十字軍派遣は行われず、レバントに十字軍国家がなくなったことをもって十字軍運動の終了とすることが多い。
一般的に十字軍は失敗に終わったと書かれる。確かに聖地エルサレムをキリスト教徒の手に確保するのが目的だとすれば失敗であった。しかし、十字軍運動は概ね成功したため、継続する必然性を失い自然消滅したと見ることもできる。
十字軍運動の目的には直接的な聖地エルサレムの確保の他に、カトリック圏の拡張、教皇権の強化、イスラム教徒の討伐、東方の富・知識の入手などがあったと見なせる。
カトリック圏の拡張の点では、北方十字軍、レコンキスタは成功しており、キプロス、クレタ、ロードスなどの島々を含む東地中海はカトリック圏となり、ラテン帝国の消滅後もギリシアにはアテネ公国やアカイア公国などカトリック国家が残っている。
教皇権の強化は、十字軍運動がもっとも盛んだった13世紀前半にピークに達し、十字軍の乱用や不首尾と共に教皇権はアナーニ事件とアヴィニョン移転、テンプル騎士団解体などで大きな打撃を受け、その成果は相半ばかだった。
イスラム教徒に対しては自信を持った。第1回十字軍時は、まだイスラム教徒の科学技術、文化、軍事力への劣等感があり、それがイスラムを脅威と感じさせ、それに対する過剰反応が十字軍で、宗教的熱意によりそれを克服しようとしたとも見なせる。しかし、十字軍終了時の13世紀末には遠方の聖地は維持できなくとも、近辺のイベリア半島では成功している。要するに双方、本拠地から遠い遠方で負けているのは補給の問題で、全体としては文化も軍事力も互角になっており、もはやキリスト教徒はイスラム教徒を恐れる必要はなくなっていた。
東方交易は盛んになり、香辛料などの東方からの物産もビザンティン・イスラムの知識も多く西欧に流入しており、レバントを失ってもジェノヴァ、ベネチアの東地中海の覇権は健在であり、交易への影響はあまりなかった。
また宗教的な面でも、最初の動機の1つはイスラム教徒がキリスト教徒のエルサレムへの巡礼を妨害したり迫害するということだったが、第3回十字軍以来、エルサレムへの平和的な巡礼の安全はイスラム政権により保障されており、さらに東地中海の制海権をイタリア海運国家が押さえているため、かっての陸路とは違い、海路で直接、聖地に入れば、イスラム教徒の狂信者や盗賊に襲われる可能性も少なくなっており、無理にエルサレムをキリスト教徒の管理化に置く必要がないことが明らかになっていた。
ヨーロッパの王侯にとってエルサレムを防衛することは、キリスト教徒として意義を感じたが、エルサレムを失い、その奪回の可能性も少なくなった時点でアッコンやトリポリの防衛に彼らが多額の費用や労力・生命を賭ける意義は感じられなくなっていた。十字軍国家はエルサレム防衛のための外壁として意義があるのであり、エルサレムがなければ、ただの封建領土か貿易拠点であり、その地の領主や貿易商人が悩むべき問題だった。
そして、その貿易商人たちも、十字軍国家での拠点はあった方が良いが、なくても制海権を抑えていれば有利な交易は可能であり、むしろ十字軍の敵対が無くなったことで平和裡の交易が行い易くなることに気づいていた。
現実的にもビザンティンの援助が期待できなくなり、エジプト征服は数度に渡って失敗しており、さらにモンゴルと言うもう1つの勢力が現れる中で、西欧からの遠征軍が単独で成功する可能性は少なく*10、かっての宗教的狂信や動機の必然性がなくなれば、元々コストパフォーマンス的に最悪で理にかなっていないため、自然消滅するのは必然であるが、こうして見ると、概ね目的を達したため十字軍は自然終了したと言っても良いのではないだろうか。
*10 イスラム、モンゴル、キリスト教諸勢力のバトル・ロワイヤルの中で適時、同盟相手を変えていけば、エルサレムの回復・確保は可能だったかもしれないが、宗教的な十字軍では、それは非難を受けがちである。
*7 ビザンティンのソリドゥス金貨やそのコピーであるイスラム圏のディナール金貨に基づいた単位。1枚につき金4〜4.5gを含んでいた。
*8 エジプトではクーデターによりマムルーク朝が成立し、ルイ9世は身代金支払い時の交渉でこれと和睦・同盟するが、シリアやエルサレムは依然としてアイユーブ朝分家の諸君主が割拠していた。
当時のヨーロッパ最強君主で、誰よりも敬虔な聖ルイができなければ他に誰ができるだろうか?西欧やレバントでは諦めムードが漂い、ホーエンシュタウフェン家のエルサレム王は教皇との争いの中でずっとヨーロッパにおり、レバントでは従来の宮廷派対貴族派に加えてゲルフ対ギベリンの争いも加わって求心力は失われていた。1256年にはアッコンでジェノヴァとベネチアが争い、現地諸侯も2つに分かれて争っている。
1258年にはフラグが率いるモンゴル勢が中東にやってきたことで情勢は一層、混迷した。モンゴルには多神教徒、仏教徒の他、キリスト教徒やイスラム教徒もおり、彼らの前では宗教的対立は無意味だからである。トリポリ、アンティオキアは小アルメニアと共にモンゴルの臣従国となったが、1260年のアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝が勝利したことで状況は一層悪化した。また1261年にはラテン帝国が消滅しており、第4回十字軍の恨みを残すパレオロゴス朝ビザンティン帝国の支援は期待できなかった。
1270年にルイ9世がチュニジアへの第8回十字軍中に死去し、アッコンまで行ったエドワード(1世)もモンゴル(イル汗国)と提携して戦ったが、マムルーク朝と休戦を結ぶことしかできなかった。
最後の頼みの綱となったシチリア王シャルル・ダンジューも1282年のシチリアの晩鐘により、遠征は不可能となった*9。1289年にトリポリが落ち、1291年にアッコンが落ちて、その年の内にティール、シドン、ベイルートが落ち、レバントにおける十字軍国家は消滅した。
*9 遠征の直接の目的はラテン帝国の復活だったが、その後のエルサレム回復も標榜していた。
この後は聖地への大規模な十字軍派遣は行われず、レバントに十字軍国家がなくなったことをもって十字軍運動の終了とすることが多い。
一般的に十字軍は失敗に終わったと書かれる。確かに聖地エルサレムをキリスト教徒の手に確保するのが目的だとすれば失敗であった。しかし、十字軍運動は概ね成功したため、継続する必然性を失い自然消滅したと見ることもできる。
十字軍運動の目的には直接的な聖地エルサレムの確保の他に、カトリック圏の拡張、教皇権の強化、イスラム教徒の討伐、東方の富・知識の入手などがあったと見なせる。
カトリック圏の拡張の点では、北方十字軍、レコンキスタは成功しており、キプロス、クレタ、ロードスなどの島々を含む東地中海はカトリック圏となり、ラテン帝国の消滅後もギリシアにはアテネ公国やアカイア公国などカトリック国家が残っている。
教皇権の強化は、十字軍運動がもっとも盛んだった13世紀前半にピークに達し、十字軍の乱用や不首尾と共に教皇権はアナーニ事件とアヴィニョン移転、テンプル騎士団解体などで大きな打撃を受け、その成果は相半ばかだった。
イスラム教徒に対しては自信を持った。第1回十字軍時は、まだイスラム教徒の科学技術、文化、軍事力への劣等感があり、それがイスラムを脅威と感じさせ、それに対する過剰反応が十字軍で、宗教的熱意によりそれを克服しようとしたとも見なせる。しかし、十字軍終了時の13世紀末には遠方の聖地は維持できなくとも、近辺のイベリア半島では成功している。要するに双方、本拠地から遠い遠方で負けているのは補給の問題で、全体としては文化も軍事力も互角になっており、もはやキリスト教徒はイスラム教徒を恐れる必要はなくなっていた。
東方交易は盛んになり、香辛料などの東方からの物産もビザンティン・イスラムの知識も多く西欧に流入しており、レバントを失ってもジェノヴァ、ベネチアの東地中海の覇権は健在であり、交易への影響はあまりなかった。
また宗教的な面でも、最初の動機の1つはイスラム教徒がキリスト教徒のエルサレムへの巡礼を妨害したり迫害するということだったが、第3回十字軍以来、エルサレムへの平和的な巡礼の安全はイスラム政権により保障されており、さらに東地中海の制海権をイタリア海運国家が押さえているため、かっての陸路とは違い、海路で直接、聖地に入れば、イスラム教徒の狂信者や盗賊に襲われる可能性も少なくなっており、無理にエルサレムをキリスト教徒の管理化に置く必要がないことが明らかになっていた。
ヨーロッパの王侯にとってエルサレムを防衛することは、キリスト教徒として意義を感じたが、エルサレムを失い、その奪回の可能性も少なくなった時点でアッコンやトリポリの防衛に彼らが多額の費用や労力・生命を賭ける意義は感じられなくなっていた。十字軍国家はエルサレム防衛のための外壁として意義があるのであり、エルサレムがなければ、ただの封建領土か貿易拠点であり、その地の領主や貿易商人が悩むべき問題だった。
そして、その貿易商人たちも、十字軍国家での拠点はあった方が良いが、なくても制海権を抑えていれば有利な交易は可能であり、むしろ十字軍の敵対が無くなったことで平和裡の交易が行い易くなることに気づいていた。
現実的にもビザンティンの援助が期待できなくなり、エジプト征服は数度に渡って失敗しており、さらにモンゴルと言うもう1つの勢力が現れる中で、西欧からの遠征軍が単独で成功する可能性は少なく*10、かっての宗教的狂信や動機の必然性がなくなれば、元々コストパフォーマンス的に最悪で理にかなっていないため、自然消滅するのは必然であるが、こうして見ると、概ね目的を達したため十字軍は自然終了したと言っても良いのではないだろうか。
*10 イスラム、モンゴル、キリスト教諸勢力のバトル・ロワイヤルの中で適時、同盟相手を変えていけば、エルサレムの回復・確保は可能だったかもしれないが、宗教的な十字軍では、それは非難を受けがちである。