リテラシーと片仮名を使ったのは、識字という語を使いたくないからである。文盲と書きたいのだが、差別語と見なされてるらしく使いづらい。リテラシーという語は、現在の日本ではIT関係の理解に関して使われることが多いのだが、本来は文章を読み書きできる能力のことである。
文盲だと文章が理解できない人の意味が明確なのだが、非識字だと文字が読めない人のように見えてしまい、実際にそう理解している人が多いようだ。確かに文字が読めなければ、当然、文章は理解できないが、文字が読めても文章が理解できないことも多いのである。
漢字圏では、一番の障害が漢字にあるため、文盲と非識字に大差はないが*1、大文字・小文字併せても50文字前後しかないローマン・アルファベットなどの表音文字では、文字を読むことは簡単なのだ。日本で義務教育を終えた人ならABCのアルファベットが読めない人はいないだろう。だからと言って英語の文章が理解できる人がどれだけいるだろう?ましてや、同じアルファベットを使用するフランス語やスペイン語の文章を理解できる人はごく僅かであろう。
*1 漢字が得意な人なら漢文を見るだけで、ある程度の意味は推測できるだろうが、ちゃんと理解するには漢文を基礎から学ばなければならない。
それは、ちょっと話が違うんじゃないかと思うかもしれないが、近世以前のリテラシー率の低さとは、口語と文語の乖離によるものなのである。
文章というものは、時間と空間を超えて他者に情報を伝えることを目的としているため、場所や時代によって変化してはいけないのである。ローマで書いたものはイスパニアでも読めなければならず、アウグウストの時代に書かれたものはハドリアヌスの時代にも読めなければならない。そのため文語は固定されるのである*2。
*2 むろん文語も変化しているのだが、口語の変化に比べるとはるかに少ない。
一方、口語は常に場所と時代で変化するものであり、元々、ラテン語に文語と口語があったが、口語ラテン語が時代と場所で変化していったのがフランス語、スペイン語などのロマンス諸語なのである。
このため西欧においては、近世までは、その人が何語を使っていても、文章が読めるということは(文語)ラテン語が理解できるという意味なのである*3。これは一見、不便に思えるが、各時代毎に変化するトスカナ語、カタルーニャ語、オック語、オイル語といった口語の全てを理解するより、はるかに楽なのである。西欧の知識人はラテン語を学ぶだけで、少なくとも書簡では西欧の全知識人とそしてそれ以外の地域でも西欧に関心があってラテン語を学んだ知識人と意思疎通ができることになる*4。
*3 ちなみにビザンティンでは文語ギリシア語で、これも口語ギリシア語とはかなり違っている。
*4 漢字圏でも事情は同じで、東アジアの知識人は漢文を使って意思疎通することができた。
これは共通語(リンガ・フランカ)の概念とも似ているが、リンガ・フランカは口語であり、時代毎に適当なものが使われ変化するため同じとは言えない。
近世、近代においては、ナショナリズムと関連して、各国語で文章が書かれることが多くなり、中産階級のリテラシーは大いに上ったが、労働者階級においては未だに低かった。表音文字であるため、アルファベットを覚えて読み上げれば、ある程度は分かるのだが、スペルと音に多少の乖離が生じ始めている*5のと、文章で使う言葉は通常会話で使う言葉より難しい単語を使うことが多いため*6、ある程度の教育がないと理解できないことになる。
*5 文語として固定しない限り、常にこの問題は生じる。
*6 近代のとある有名大衆小説家は自分の作品をメイドに読んで聞かせて、分からない単語を簡単な言葉に置き換えたという。
近代においては、国家における口語の統一(標準語)が行われ、言文一致体が推奨され、義務教育が実施されることにより、リテラシー率は大いに上がり、先進国ではほぼ100%になっている。