トマス・ベケットの殉教

トマス・ベケットの殉教(1)

14世紀に著されたチョーサーのカンタベリー物語は、聖トマス・ベケット廟への巡礼に同行した人々が暇つぶしにそれぞれの話を語る形式を取っており、その巡礼が非常にポピュラーだったことが分かる。

トマス・ベケットは12世紀のヘンリー2世時代のカンタベリー大司教で、王と激しく対立した後、王の意を受けたとされる4人の騎士に教会の敷地内で殺害されたが、大衆はこれを殉教として崇拝したため、まもなく異例の早さで列聖され、聖人になった人である。

その後もベケット信仰は続き、巡礼者が列をなしたが、英国国教会ができ宗教対立の時代になると、イングランド王に逆らってカトリックの聖人となった人であるため、一転してイングランドの裏切り者と見なされるようになった。現代では、宗教的対立はすでになく、ベケットは有名人であり、映画も作られているが、BBC歴史マガジンが行った読者投票では、この1000年間の最低の英国人の第2位(1位は切り裂きジャック)にも選ばれている。

さて、この問題は中世の定番であった叙任権問題や教会の自由(治外法権、免税特権)などを巡る世俗王権 対 教会権力の争いだと思っていたのだが、どうも違うようである。もちろん、そういう問題もからんでいるのだが、つまる所、ヘンリー2世とベケットの個人的な喧嘩のようなのだ。

元々、トマス・ベケットはロンドンの商人の息子だったが、教会で書記としての教育を受けている間に、時のカンタベリー大司教テオボルト・テックに気に入られ、やがてヘンリー2世に推挙されて、1155年にその宰相職である大法官(chancellor)となった人で、ヘンリー2世にも気に入られており、若ヘンリー王太子を教育のために預けられていた。

そのため、1161年にテオボルト・テックが亡くなった後、ヘンリー2世がトマス・ベケットをその後釜として推挙したのは、これまで以上に王権と教権を円滑に動かすことを意図していたはずである。

ところが、カンタベリー大司教になったとたん、ベケットは豹変した。大法官を辞して、これまでの王侯をも凌ぐと言われた豪奢な生活を捨て、一転して、修道士のような粗毛のシャツを着て、質素で禁欲的な聖職者に変わり、イングランド首座大司教として教会の利益を代弁し始めたのである*1。

*1 ローマ教会の考え方として、その職に聖なるものが宿るという考えがある。その職に就くまでは、ただの人間だが、例えば、ローマ教皇に就任すると聖なる無謬の存在となるというもので、ベケットからすると、カンタベリー大司教になることで、別の人間に生まれ変わったと感じたのかもしれない。

イングランドではヘンリー1世がカンタベリー大司教アンセルムスと和解*2して以来、王権と教権の関係は良好だった。それに対して、ベケットは教会の自由を主張した政策を取り始め、教会法の適用、従わない領主の所領没収や破門を行ったが、これはスティーブン王時代の無政府状態からの秩序回復のために、裁判制度の一元化や中央集権化を進めてきたヘンリー2世の政策に真っ向から対立するものだった。

*2 これはイングランドの叙任権闘争と呼ばれる。

これに対してヘンリー2世は1163年に聖職者を集めて、これまで通り、教会法ではなくイングランドの慣習法に従うよう求めたが、ベケットは慣習法が教会法に反する場合は認めないと拒否した。ヘンリー2世は憤慨し、若ヘンリーをベケットの元から連れ戻し、両者は完全な対立関係となり、共に聖職者、諸侯、ローマ教皇の支持を得るべく政治工作を始めた。

トマス・ベケットの殉教(2)

教皇アレクサンデル3世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとの対立のためにイングランド王の支持が必要であり、中立を表明したため、ヘンリー2世は1164年にクレランドン宮殿に聖職者、諸侯を集め、教会に関してイングランドの慣習法に従うと誓うことと、その慣習法を明文化したクレランドン法を制定することを求めた。

最も焦点となったのが、罪を犯した聖職者の裁判の管轄だった。この時代は書記、事務職といった文字を扱う人々はほとんど下級聖職者であり、その数は全男子人口の1/5にも及ぶが、彼らが世俗的な罪をおかした場合でも、教会法では教会が裁判権を持つことになる。しかし、教会裁判はその精神において世俗の罪には寛容であり、世俗裁判所で片手切断、死刑になるような犯罪でも、鞭打ち、罰金、聖職剥奪、破門となるくらいで不公平感が強かった。このため、クレランドン法では、一旦、教会裁判で聖職剥奪をした後、世俗裁判所で改めて処罰することを規定していた。ベケットはこれを一事不再理原則*3に反するとして反対したが、最終的には、王の強硬な姿勢に同意せざるを得なかった。

*3 確かにこの原則は正しいのだが、この場合は教会の顔を立てるための妥協策なのであり、これに反対することは結局、教会裁判の管轄を譲らないと主張していることになる。

しかし、その後、ベケットはイングランド脱出を計って逮捕され、王の法廷でいくつかの罪状を糾弾されたが、その中には大法官時代の汚職やクレランドン法を守っていないなど、事実関係はともかく報復としか思えないものもあり、一旦、退出したベケットは逃亡してフランスへ逃れ、フランス王の保護を受け、ここから教皇に訴えている。1166年に教皇から両者ともこれ以上、対立を激化させないようとの通達が出るが、ヘンリー2世はロンドン司教にベケットの仕事を行わせており、ベケットとの和解に興味を示さなかった。

しかし、ベケットは、1166年5月にイングランドに対する教皇特使の権限を与えられると、矢継ぎ早にロンドン司教やヘンリー2世側の側近、聖職者を破門した。この後、ベケットによる破門とヘンリー2世側によるその取り消しを教皇に求める争いが続く。1170年には若ヘンリーが共治王として即位する際に、本来、戴冠するカンタベリー大司教の代わりにヨーク大司教がこれを務めたため、ベケットはこれを不当として教皇の許可を得て、イングランドを聖務停止とした。

このため、ヘンリー2世はベケットの帰還を認めたが、ベケットはカンタベリーに戻るなり、戴冠に係わり王を支持していた、ヨーク大司教、ソールズベリー司教、ロンドン司教を破門した。3人はノルマンディにいたヘンリー2世に訴え、これを聞いたヘンリー2世は怒りのあまり、「誰かあのおかしな坊主を取り除くものはおらんのか!」の意の言葉で罵った*4。これを聞いた4人の騎士が直ちにカンタベリーに向かい、ベケットに対面し、王の意思に従うことを求めたが、これを拒絶されると剣を抜いてベケットを殺害した。

*4 これは王の独り言で、騎士達が勝手にその意を汲んで行動したとする見方と、直接的ではない言い方で実質的に命令したとする見方がある。

ところが、ベケットの死は殉教と見なされ、ヨーロッパ中で評判になり、彼の死のわずか2年後の1173年に異例の早さで列聖された。ベケットの教育を受けた若ヘンリー王を始めとするリチャード(獅子心王)、ジェフリー(ブルターニュ公)の3人の息子は反乱を起こし、スコットランド王も侵攻してきたため、ヘンリー2世はベケット廟の前で懺悔しなければならなくなった。

このように、王権と教権の対立も原因ではあるが、王はベケットの頑なな態度を自分の恩を忘れたものとして不快に感じ、一方、ベケットから見れば、首座大司教として筋を通した訳であり、最終的には妥協したにも係わらず、王がさらに追い討ちをかけてきたため、反撃に至ったという所であろう。

ベケットは他の司教たちの支持を得られておらず、また当時の騎士というものは乱暴ではあるが、その反面、神を怖れることも大きく、教会の敷地内にいたイングランド首座大司教を殺害するなどは、彼ら自身がベケットの態度を不当と感じていなければ説明できない。

ただ、ヘンリー2世は血を分けた息子である、若ヘンリー、リチャード、ジェフリー等とも以降、何度も争っており、愛憎的人間関係に問題があるのかもしれない。

それ以外の点では有能な君主だったが、ベケットの件と息子、妻(アリエノール・ダキテーヌ)たちの度重なる反乱が、彼の治世の汚点となり、最期もリチャード、そして最愛の息子と思われていたジョン(欠地王)に裏切られて、孤独に死を迎える惨めなものであった。

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