モルダヴィアの大聖 - ステファン

モルダヴィアの大聖 - ステファン(1)

対オスマン戦でローマ教皇から「キリストの戦士」*1の称号を得た3人の内の最後の1人がモルダヴィア公ステファン3世(b.1433–d.1504、在位1457–1504)だが、既に紹介しているハンガリーのフニャディ、アルバニアのスカンデルベグと比べるとその知名度は数段落ちるようだ*2。

*1 ステファンは正教徒だから、カトリック教皇からの称号にそれほどの意味はないが、ポーランドやハンガリーのようなカトリック国家と外交交渉する際には多少の意味を持っただろう。
*2 日本だけでなく欧米でもほとんど知られておらず、ルーマニア限定の偉人だろう。

実はあのヴラド串刺し公(b.1431–d.1476、在位1448; 1456–1462; 1476)の従兄弟であり、年代も環境も経歴も似ているのだが、串刺し公は悪名高く、当時から人喰い、狂人などと呼ばれ、後に吸血鬼のモデルにもなり、短期間しか政権を維持できなかったのに対して、ステファンは長期に渡って、良く軍事、政治力を駆使して周辺の大国(ハンガリー、オスマン、ポーランド=リトアニア)からモルダヴィアを防衛し繁栄に導いた「偉大」の称号を持つ名君であり、またルーマニア正教会限定だが聖人にも列せられており、まさに正反対である。

この頃の東欧では継承争いが続いている国が多いが*3、モルダヴィアでも1432年にアレキサンデル1世が亡くなった後に、その子供たちが相互に争って相次いで短期の公位に就いており、ステファンの父ボグダン2世は四男だったが、1449年にモルダヴィア公となっている。

*3 オスマン帝国の拡大はその利益を受けている。また、周辺国内における親、反のオスマン政策の対立が政争を招いている面もある。

一方、ヴラドの母はモルダヴィア公女でボグダン2世の姉妹であり、ヴラドは1448年にオスマン帝国の支援を受けてワラキア公位を得たが、ハンガリーが押すダネシュティ家の対立候補に追放され、叔父を頼ってモルダヴィアに亡命しており、この期間にステファンとは知り合っているはずである。

ところが1451年にボグダン2世は妻の兄弟のペトル・アロン*4に殺されて公位を奪われ、ステファンとヴラドは逃れて、それぞれ流浪したようだが、最終的には両人共にトランシルバニア公だったフニャディの下に身を寄せたようである*5。

*4 アレキサンデル1世の庶子でもあるためボグダン2世の異母兄弟であり、ステファンにとっては母方父方共に叔父である。
*5 フニャディはハンガリーの防波堤として、より戦闘力のある君主をオスマンとの間の公国に据える方針を持ち始めており、この両人は眼鏡にかなったようである。

1456年にベルグラードがオスマン軍に包囲されると、オスマンへの牽制を狙ってフニャディはハンガリー軍を付けてヴラドをワラキアに戻し、ヴラドは対立公を直接戦闘で討ち取って公位を奪取した。

1457年には今度はステファンがヴラドの支援を受けてモルダヴィアに入り、ペトル・アロンを打ち破ってモルダヴィア公位に就いた。アロンがポーランドに逃亡したため、ポーランドとの争いになったが、1459年にポーランドを宗主国と認めて和解している。

即位するまでは従兄弟同士で仲良く助け合ったかに見えるステファンとヴラドだったが、隣国の君主となると争いは避けられなかった。

ステファンは以前ワラキアに奪われていたキリヤの返還を要求していたが拒否されており、また、ヴラドは即位後に多くの反抗的な貴族を串刺しで処刑しているが、それらの貴族はモルダヴィアの貴族とも縁戚で繋がっており、ステファンとしては距離を置きたくなったと思われる。

1459年にヴラドはハンガリー王マチアス・コルウヌスと共に教皇ピウス2世の呼びかけに応じ、貢納金(ジズヤ)の支払いを拒否してメフメト2世のオスマン帝国と戦闘状態に入った*6。一方、ステファンは1462年にオスマン軍のワラキア侵攻に合わせてキリヤを攻撃したが、ワラキア軍とハンガリー軍に押し返され、ステファンは足を負傷して逃げ帰っている。

*6 オスマンの大使の頭を釘で打ち付けたといわれる。また、オスマン帝国のブルガリアに侵攻して老若男女を問わず農民を虐殺し、大量のトルコ兵を串刺しにし、それを手紙でマチアス王に誇っている。

ヴラドはメフメト2世の親征にも夜襲をかけて退却させたが*7、弟のラドゥ*8がオスマン軍の指揮官になると、ワラキアの貴族はラドゥに味方し、本拠地のポエナリ城も陥落した。資金も尽きたため、支援を求めてハンガリーに行ったが、オスマンとの内通を理由にマチアス王に逮捕され、以降14年に亘って幽閉されることになる。逮捕された真の理由は不明だが、マチアスはオスマン軍との正面対決は避ける方針で、いたずらにオスマン軍を刺激しているヴラドを危険と感じたのが一番の理由だろう。またワラキア内で貴族の支持を受けていないヴラドの戦いは既に限界点に来ており、多少の支援は無駄になるとの判断もあったと思われる。

*7 大量の串刺し死体を見たメフメト2世が嫌気をさして引き上げたともいう。
*8 ヴラドの弟でイスラム教に改宗していた。

ステファンは、1465年にはポーランド王の権威を用いて、キリヤの城兵に帰順を勧めて成功したが、この行為は、親オスマンのラドゥをワラキア公に据えたメフメト2世とハンガリー王マチアスの両方を怒らせたため*9、オスマン帝国には弁明し、貢納金を増額してハンガリーに備えた。

*9 キリアはワラキアとハンガリーが共同で所有していた。

この時代のステファンはポーランドを宗主国としており、オスマンの貢納国だったが、上手く周りの大国のバランスを取り、同時に複数の大国と敵対することを避ける方針を取っている。

モルダヴィアの大聖 - ステファン(2)

元々、モルダヴィアは14世紀にはハンガリーの勢力圏にあり、公国が成立した後も、ハンガリーはしばしばモルダヴィアを支配下に収めようとしていた。

キリヤの問題に加えて、前モルダヴィア公アーロンを追って、ステファンがトランシルバニアに侵入したことにより、1467年にハンガリー王マチアスはステファン5世・バートリのトランシルバニア兵を主力としてモルダヴィアに侵攻してきたが、ステファンは寡兵ながら夜襲をかけて撃退し、マチアスは負傷し担架で後送されたという(バイラの戦い)。この敗戦によりマチアスは主力を傭兵にする方針を取り、強大な黒軍を築き上げることになる。

翌年、ステファンはトランシルバニアでアーロンを捕らえて処刑し後顧の憂いをなくした。1471年にはオスマンとの対決に備えて、ワラキアを防波堤にすべくラドゥと戦ったが、黒海沿岸に多くの植民都市を有するジェノヴァはステファンの勢力拡大を恐れて、タータル(クリミア汗国)を支援して侵攻させたため、ポーランドの援助を受けてこれに対応しなければならなかった。

1472年にペルシア白羊朝のウズン・ハサンがオスマン戦を開始し、それに呼応して1473年にステファンはオスマン帝国への貢納金を停止した。再びワラキアに侵攻して、ダニシュメント家のバサラブ3世をワラキア公に就けたが、まもなくバサラブ3世がオスマン側に寝返ったため、その甥バサラブ(4世)を擁立したが、その後もワラキアの公位は安定しなかった。

メフメト2世は1473年に「オトゥルクベリの戦い」でウズン・ハサンを破っており、モルダヴィアの屈服を要求したが、ステファンはこれを拒否してローマ教皇に支援を要請した。その甲斐があってハンガリー、ポーランドの支援を受け、特にセーケイ人*8の大量の傭兵を得ることができ、全てのモルダヴィア人に動員をかけて、1475年に侵攻してきたオスマンの大軍に「ヴァスルイの戦い」で大勝利した。この際にローマ教皇から「キリストの戦士」の称号を受けている。また、メフメト2世の継母としてキリスト教国家との連絡役を務めたセルビア王女マーラは後に「オスマン帝国における最大の敗戦」とベネチア大使に述べたと言われる。

*8 トランシルバニアの主要支配三民族(他はマジャール、ザクセン)の1つで国境地帯を防衛していた戦闘的な人々。ちなみに小説ではドラキュラ伯爵は誇り高きセーケイ人とされている。

しかし、翌年にメフメト2世は大軍を擁してタタール*9と連携して再び侵攻してきた。「バレア・アルバの戦い」で敗れたステファンは一時期ポーランド領にまで撤退したが、ハンガリーのマチアス王はヴラド串刺し公を釈放して、トランシルバニア公バートリと共に援軍として送ってきたため共同で反撃を開始し、オスマン軍は疫病が流行ったこともあり撤退した。

連合軍はそのままワラキアに侵攻し、串刺し公が一時的に公位を回復したが、援軍が帰るとバサラブ3世に反撃されてまもなく戦死した。ワラキアの公位はその後も安定しなかったが、ステファンはワラキアへの干渉を続け一定の影響力を維持していた。

*9 この頃、クリミア汗国はオスマンの臣下国となっていた。

しかし、1484年にバヤジット2世がキリヤなどのモルダヴィア黒海沿岸部を征服し、その後もオスマンの脅威が続いたため、ステファンは宗主であるポーランドに遠征を要請し、1497年にポーランド王ヤン1世が大軍を動員してモルダヴィアに向かうが、ここで奇妙なことが起こる。

ヤンの本当の目的は弟のジグムント(1世)をモルダヴィア王に据えることだとの情報がハンガリーから流れ、それを信じたステファンはハルーチを攻め、ポーランド軍はモルダヴィアを攻撃してきたのである。

ヤンの目的が最初からそうだったのか、第三者が情報を操作したのか、はっきりしないが、事実としてはステファンがハルーチを攻め、ポーランド軍はモルダヴィアに侵攻したが、首都スチャヴァや主要な都市を奪えず、ステファンの焦土作戦と補給路の攻撃により撤退した。

こうしてモルダヴィアを守りきったが、1503年に持病の痛風が悪化したため、オスマン帝国と和睦して貢納金を再開した後、翌年に死去した。以降、モルダヴィアはオスマン帝国の臣下国として生き永らえることになる。

彼は大国に挟まれた中小国の君主としては理想的だったと言える。巧みな外交と優れた将才で、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランド=リトアニアなどの周辺の大国の攻撃からモルダヴィアを保った英主だった。

モルダヴィアの例を見るとはっきりするが、オスマン/イスラム勢力からキリスト教世界を防衛するという概念はローマ教皇やオスマンと戦わざるを得なかった君主が西欧からの支援を得るためのプロパガンダに過ぎないことが明確だろう*10。ステファンは、個人的には信心深かっただろうが、オスマン帝国と戦ったのはそれと接していたからに過ぎない。

*10 それが近代の民族主義と帝国主義時代に復活した十字軍的思想によって再浮上したのである。

彼は非常に信心深く、戦勝の度に修道院を1つ設立し、勝利の後にも40日間水とパンだけで過ごして神に感謝したというが、これは上杉謙信のようなストイックさであり、武将に良くある戦勝祈願、願掛けでキリスト教的敬虔さとは別のようである。

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