アンジュー帝国三代目ジョン王はラックランド(lackland、土地なし、無地、欠地)の仇名で知られている。子供の頃に兄たちが領土を分配され、ジョンには分ける土地がないとからかわれたのが由来であるが、アンジュー帝国を継承した後、フランス領土の大部分を失ったことで後世に残る仇名となった。
彼を考える時、武田勝頼を思い出すのであるが、偉大なる父、嘱望された兄に何かと比較され、その劣等感と反発心がしばしば背伸びした無謀な企てに繋がり、並み以上の能力は持っていたにも係わらず、破滅に追い込まれたという点で両者には共通点がある。
彼の考える戦略や政略・外交は父を真似ているためか悪くはないのであるが、肝心のそれを実行するための能力やカリスマ性がないため、雄大な作戦が惨めな失敗に終わることになる。
しかし、それに加えて、彼には人間としての信義や情に欠けるところがあると感じる。単なる軍事面や為政者としての失敗というだけでなく、最後の段階で彼を信頼していた父ヘンリー2世を裏切り、ドイツで捕囚になっていた兄リチャードを裏切り、捕虜にした甥アーサーを殺害し、婚約している娘(イザベル・アングレーム、当時15歳以下)を奪い*1、大陸領土の喪失を補うために重税を課し、不満を述べる者を逮捕し財産を奪い、弱い者を虐げ、強い者にはへつらうがその陰では常に裏切る準備をしている。
*1 略奪結婚自体はそう珍しくないが、王たる者がその権力に任せてというのは珍しい。
同じように暴君、苛酷な気質を持っていたリチャードのような人間的な清々しさやユーモラスさがなく、狭量、悪意、残虐性が感じられ、単に君主として失政者や暴君として非難されるだけでなく、そのような人間的な嫌らしさが嫌悪に繋がっているようで、BBCが選んだ「この1000年間の最悪の英国人ワースト10」に入っており、そのため彼の後にはジョンを名乗る王がいなかったとも言われる*2。
*2 実際にはジョンという名の王子は、ランカスター家の始祖ジョン・オブ・ゴーントやベドフォード公ジョンなどプランタジネット朝、ランカスター朝には沢山いる。エドワード1世の夭折した長子もジョンであり、王になっていないのはタマタマである。
ジョンはヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子として1166年に生まれた。他の兄弟とは年が離れていたため、1173年の若ヘンリー、リチャード、ジョフロワの反乱時には父の下におり、その後も他の兄弟が反抗を繰り返す中で、従順なジョンは父のお気に入りの息子となったようである。
ラックランドと仇名されたものの小規模な領地*3はあちこちで貰っており、さらに1175年にはコーンウォール伯領を受け、さらに相続人イザベラとの婚約によりグロスター伯領を所有し、1177年にはアイルランド卿となったが、幼年であるため名前だけだった。
*3 普通には十分に豊かな領地であるが、大諸侯クラスの他の兄弟と比べると見劣りする。
長兄の若ヘンリーが1183年に亡くなると、新たに後継者となったリチャードの領有するアキテーヌが与えられるはずだったが、リチャードがこれを拒否したため、ジョフロワと共に戦うがアキテーヌを奪えず翌年和睦し、1185年には実効支配を目指してアイルランドに渡ったが、つまらないこと*4で地元のアイルランド人を怒らせ、アングロ・ノルマン植民者からも嫌われ、同年に成果なく引き上げている。
*4 風俗が変だと揶揄したらしい。
1188年からのリチャードのヘンリー2世への最後の反乱時には当初は父に従っていたが、最後の段階でリチャードに寝返った。王となったリチャード1世にも信用されず、第3回十字軍に出発する際にはイングランドに入ることを禁じられた。しかし、後に母アリエノールの勧めによりイングランドに入ることを許され、統治代理人に任命されていた4人の役人に代わって政治の実権を握ろうとしたが、不安を感じたリチャードが派遣したルーアン大司教に退けられた。
しかし、十字軍からの帰途でリチャードが行方不明になると、既に帰国していたフランス王フィリップ2世と陰謀を企てイングランドの主導権を握ったが、1194年にリチャードが解放されて帰国すると敢え無く屈服させられた。
その後は従順な弟として振る舞い、いくらかの功績も上げたため、1199年のリチャードの死去時には、フランス王の保護下にあった甥のブルターニュ公アーサー*5ではなく、ジョンを後継者として指名したと言われるが、長系相続ではアーサーが優先するため、その時点でのジョンの立場は微妙だった。
*5 ジョフロワの息子。1187年誕生でまだ成人しておらず、母のコンスタンスはフランス王に保護を求めていた。
ジョン王 - 全てに欠けた男
ジョン王 - 全てに欠けた男(1)
ジョン王 - 全てに欠けた男(2)
ジョンはノルマンディを押さえて、いち早くイングランドで王位に就き、母アリエノールとアキテーヌもジョンを支持したが、ブルターニュとアンジューはアーサーを支持しており、フランス王フィリップ2世もアーサーを支援してノルマンディに侵攻した。しかし、両者は膠着状態に陥り、翌1200年に和睦した。
しかし同年に婚約者のいたイザベラ・アングレームを略奪して結婚*6したことにより、婚約者だったユーグ・ド・ルジニャン*7がフィリップ2世に訴え、1202年にジョンはパリの高等法院への召喚を受けたが身の安全を保証されなかった*8ため、これを拒否した。それを理由にフィリップ2世はジョンの全フランス領土を没収し、ノルマンディ以外をアーサーに与えることを宣言した*9。
*6 彼女の容姿に惹かれたためとも、アングレーム伯領はアキテーヌ内の有力領主であるため、アキテーヌ支配強化のためとも言われる。しかしアンジュー帝国の政略結婚としては矮小な理由であり、ジョンのスケールの小ささが感じられる。
*7 アキテーヌ内のポワティエやラ・マルシェ一帯の有力豪族で、エルサレム王ギー・ド・ルジニャンもこの一族。
*8 ノルマンディ公としてはフランス王の召喚を免除されているのだが、ポワトゥ伯としての召喚であるとして、裁判結果を保証できないとされた。ジョンとしては応じられるはずがない。
*9 没収を宣言したところで、絶対王政の時代のようにすんなり回収できる訳ではなく、力づくで奪う必要がある。ジョンから見れば、単なるフィリップ2世の宣戦布告のようなものである。
これを受けてアーサーはアンジューに侵攻し、フィリップ2世はノルマンディに侵攻した。アーサーがアンジューのミラボー城にいたアリエノールを包囲するとジョンは機敏に救出に向かい、ブルターニュ軍を奇襲してアーサーを捕虜にすることに成功した。
これにより、ジョンの勝利かと思われたが、ジョンの捕虜の扱いが酷く、22人の貴族が獄死し悪評を受け、特にアーサーが行方不明になったことが決定的だった*10。ブルターニュは勿論のこと、ノルマンディやアンジューでも貴族たちはジョンから離反しフィリップ2世を迎え入れたため、ジョンは為す術がなく、1204年にはノルマンディの要であるガイヤール城が陥落し、ノルマンディ、アンジューを失い、同年にアリエノールが死去したため、アキテーヌの支配も危うくなり、ポワトゥも失われた。
*10 欧州では一旦、捕虜にしたものを裁判なしで殺害することは犯罪と見なされる上、親族殺しは一層、忌み嫌われていた。
この後、彼は失地奪回を計り、海軍の養成*11に努め、神聖ローマ皇帝オットー*12、フランドル伯、ブローニュ伯との同盟を強化し、しばしばノルマンディやポワトウに侵攻したが成果は上がらなかった。大陸領土を失ったにも係わらず軍備は増強しており、その財源として課税を強化したため、諸侯の不満は高まっていた。
*11 英国海軍の基礎を築いたとして、しばしば評価されるが、アンジュー帝国においては、イギリス海峡は領内の川のようなものであり、ノルマンディからアキテーヌまで陸続きで行けたため海軍が必要なかったことを思えば自慢することでもない。
*12 ヴェルフ家のオットー4世はジョンの甥(姉の子)であり、父のハインリッヒ獅子公と共にアンジュー帝国に滞在していたこともあり、リチャード1世の支援を受けて皇帝になっている。
また、カンタベリー大司教の叙任を巡って教皇イノケンティウス3世は1208年にイングランドを聖務停止にし、翌年ジョンを破門したが、ジョンは教皇に従う司教領を没収して、その収入を財源に当てていた。しかし1213年になるとフランスのイングランド侵攻の準備とそれに応じた諸侯の反乱の気配が強くなったため、イノケンティウス3世に屈服し教皇を宗主と認めたが、それにより教皇はフランスへのイングランド侵攻の許可を取消し、以降、ジョンを支持するようなった。
満を持したジョンは1214年にフランス侵攻を開始した。彼が南方からポワトウ、アンジューと侵攻すると同時にオットー*13、フランドル伯、ブローニュ伯、イングランドのソルズベリー伯の連合軍が北部から侵攻し、フランスを挟み潰すという壮大な計画だったが、彼のアンジュー侵攻は地元のアンジュー貴族の支持を得られず、フランス王太子ルイに阻まれて引き返してしまい、動員が遅れたオットー達はその後にブービーヌの戦いでフィリップ2世に完敗を喫した。
*13 彼のドイツでの立場は、1212年にドイツ王に選出されたホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世により危うくなっており、その同盟者であるフィリップ2世を叩くことにより権威を回復しようと目論んでいた。
1215年にイングランドに戻ったジョンに対して諸侯は一致して反抗し、ラミニードにおいてマグナ・カルタの承認を要求した。一旦はこれを承認したが、すぐにイノケンティウス3世に無効を宣言してもらったため、諸侯は反乱を起こし第一次バロン戦争となった。ジョンは巻き返して攻勢にでるが、1216年に反乱軍はフランス王太子ルイを招いたため戦況は逆転し、ルイがロンドンを占拠する中で、ジョンはノッティンガムで赤痢に罹って死去した。
彼の死はイングランドとプランタジネット家にとって幸いだった。息子のヘンリー3世は幼年であり、ウイリアム・マーシャルらが摂政となってマグナ・カルタを認め、イングランド諸侯の復帰を呼びかけたため、まもなく大勢はヘンリー3世側に傾き、ルイはフランスに引き上げることになる。
ジョンの基本的な方針はヘンリー2世やリチャード1世と変わらない。しかし、ヘンリー2世は政略を用い、リチャード1世は武力を用いてそれを成し遂げたが、ジョンにはいずれも欠けていたようである。
ジョンの死により大陸領土の喪失は確定し、アンジュー帝国は崩壊して単なるイングランド王になったと言えるが、アンジュー帝国の概念自体はヘンリー3世が何度かの領土奪還の試みに失敗した後、1242年に正式にアキテーヌ以外の領土を放棄する条約をフランス王ルイ9世と結ぶまで続いた。
また、アンジュー帝国復活は歴代イングランド王の悲願であり、百年戦争の動機ともなった。
しかし同年に婚約者のいたイザベラ・アングレームを略奪して結婚*6したことにより、婚約者だったユーグ・ド・ルジニャン*7がフィリップ2世に訴え、1202年にジョンはパリの高等法院への召喚を受けたが身の安全を保証されなかった*8ため、これを拒否した。それを理由にフィリップ2世はジョンの全フランス領土を没収し、ノルマンディ以外をアーサーに与えることを宣言した*9。
*6 彼女の容姿に惹かれたためとも、アングレーム伯領はアキテーヌ内の有力領主であるため、アキテーヌ支配強化のためとも言われる。しかしアンジュー帝国の政略結婚としては矮小な理由であり、ジョンのスケールの小ささが感じられる。
*7 アキテーヌ内のポワティエやラ・マルシェ一帯の有力豪族で、エルサレム王ギー・ド・ルジニャンもこの一族。
*8 ノルマンディ公としてはフランス王の召喚を免除されているのだが、ポワトゥ伯としての召喚であるとして、裁判結果を保証できないとされた。ジョンとしては応じられるはずがない。
*9 没収を宣言したところで、絶対王政の時代のようにすんなり回収できる訳ではなく、力づくで奪う必要がある。ジョンから見れば、単なるフィリップ2世の宣戦布告のようなものである。
これを受けてアーサーはアンジューに侵攻し、フィリップ2世はノルマンディに侵攻した。アーサーがアンジューのミラボー城にいたアリエノールを包囲するとジョンは機敏に救出に向かい、ブルターニュ軍を奇襲してアーサーを捕虜にすることに成功した。
これにより、ジョンの勝利かと思われたが、ジョンの捕虜の扱いが酷く、22人の貴族が獄死し悪評を受け、特にアーサーが行方不明になったことが決定的だった*10。ブルターニュは勿論のこと、ノルマンディやアンジューでも貴族たちはジョンから離反しフィリップ2世を迎え入れたため、ジョンは為す術がなく、1204年にはノルマンディの要であるガイヤール城が陥落し、ノルマンディ、アンジューを失い、同年にアリエノールが死去したため、アキテーヌの支配も危うくなり、ポワトゥも失われた。
*10 欧州では一旦、捕虜にしたものを裁判なしで殺害することは犯罪と見なされる上、親族殺しは一層、忌み嫌われていた。
この後、彼は失地奪回を計り、海軍の養成*11に努め、神聖ローマ皇帝オットー*12、フランドル伯、ブローニュ伯との同盟を強化し、しばしばノルマンディやポワトウに侵攻したが成果は上がらなかった。大陸領土を失ったにも係わらず軍備は増強しており、その財源として課税を強化したため、諸侯の不満は高まっていた。
*11 英国海軍の基礎を築いたとして、しばしば評価されるが、アンジュー帝国においては、イギリス海峡は領内の川のようなものであり、ノルマンディからアキテーヌまで陸続きで行けたため海軍が必要なかったことを思えば自慢することでもない。
*12 ヴェルフ家のオットー4世はジョンの甥(姉の子)であり、父のハインリッヒ獅子公と共にアンジュー帝国に滞在していたこともあり、リチャード1世の支援を受けて皇帝になっている。
また、カンタベリー大司教の叙任を巡って教皇イノケンティウス3世は1208年にイングランドを聖務停止にし、翌年ジョンを破門したが、ジョンは教皇に従う司教領を没収して、その収入を財源に当てていた。しかし1213年になるとフランスのイングランド侵攻の準備とそれに応じた諸侯の反乱の気配が強くなったため、イノケンティウス3世に屈服し教皇を宗主と認めたが、それにより教皇はフランスへのイングランド侵攻の許可を取消し、以降、ジョンを支持するようなった。
満を持したジョンは1214年にフランス侵攻を開始した。彼が南方からポワトウ、アンジューと侵攻すると同時にオットー*13、フランドル伯、ブローニュ伯、イングランドのソルズベリー伯の連合軍が北部から侵攻し、フランスを挟み潰すという壮大な計画だったが、彼のアンジュー侵攻は地元のアンジュー貴族の支持を得られず、フランス王太子ルイに阻まれて引き返してしまい、動員が遅れたオットー達はその後にブービーヌの戦いでフィリップ2世に完敗を喫した。
*13 彼のドイツでの立場は、1212年にドイツ王に選出されたホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世により危うくなっており、その同盟者であるフィリップ2世を叩くことにより権威を回復しようと目論んでいた。
1215年にイングランドに戻ったジョンに対して諸侯は一致して反抗し、ラミニードにおいてマグナ・カルタの承認を要求した。一旦はこれを承認したが、すぐにイノケンティウス3世に無効を宣言してもらったため、諸侯は反乱を起こし第一次バロン戦争となった。ジョンは巻き返して攻勢にでるが、1216年に反乱軍はフランス王太子ルイを招いたため戦況は逆転し、ルイがロンドンを占拠する中で、ジョンはノッティンガムで赤痢に罹って死去した。
彼の死はイングランドとプランタジネット家にとって幸いだった。息子のヘンリー3世は幼年であり、ウイリアム・マーシャルらが摂政となってマグナ・カルタを認め、イングランド諸侯の復帰を呼びかけたため、まもなく大勢はヘンリー3世側に傾き、ルイはフランスに引き上げることになる。
ジョンの基本的な方針はヘンリー2世やリチャード1世と変わらない。しかし、ヘンリー2世は政略を用い、リチャード1世は武力を用いてそれを成し遂げたが、ジョンにはいずれも欠けていたようである。
ジョンの死により大陸領土の喪失は確定し、アンジュー帝国は崩壊して単なるイングランド王になったと言えるが、アンジュー帝国の概念自体はヘンリー3世が何度かの領土奪還の試みに失敗した後、1242年に正式にアキテーヌ以外の領土を放棄する条約をフランス王ルイ9世と結ぶまで続いた。
また、アンジュー帝国復活は歴代イングランド王の悲願であり、百年戦争の動機ともなった。