ヤギェウォ朝のポーランド王家はリトアニアのゲディミナス朝であり、1386年にリトアニア大公ヨガイラがポーランド女王ヤドヴィガと結婚してポーランド王となり*1、以降、その子孫はヨガイラのポーランド語読みでヤギェウォ家と呼ばれるようになった。
*1 小さな巨人リトアニア 参照
概史では、この結婚によりポーランド=リトアニア連合が成立し、以降、連合国家が続いたように見えるが、当初はリトアニア側は同盟・連合の継続は望むものの、独自の大公を立てることに固執し、1501年にリトアニア大公アレクサンデルが兄ヤン1世からポーランド王を継承して同君連合に戻るまで、ゲディミナス/ヤギェウォ家内ではあるが、別君主を立てることが多かった。
そもそもヨガイラは妻ヤドヴィガの権利でポーランド王となっており、1399年にヤドヴィガが難産で赤子共々亡くなったため、本来なら王位を失うところだった。しかし、ヤドヴィガの姉のハンガリー女王マリアは1395年に子供なく死去しており*2、ポーランド王家(ピャスト家)*3の多くの傍系の中から選ぶのは争いを引き起こす可能性があり、何よりポーランド貴族の多く*4は強国リトアニアとの同君連合が継続することを望んでいた。
*2 同じような問題がルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントにも生じており、ハンガリー王家の血を引くバルバラと結婚することで王位を保っている。
*3 古来からのポーランド王家。直系男子が絶えたため、女系のハンガリー・アンジュー朝からヤギェウォ朝となったが、ピャスト家の傍系は多く存在した。
*4 もちろん、別の候補を支持する派閥もあるのだが。
一方、リトアニアでも従来からの宿敵であるドイツ騎士団に対する共同戦線に加えて、タタール*5や台頭してきたモスクワ大公国*6との戦いにポーランドの支援を必要としていた。そこで、ヨガイラがピャスト家の血を引くツェリェ伯の娘アンナと結婚することで王位を維持するよう取り決められ、1408年に娘ヤドヴィガが生まれたため、1416年のアンナの死後も娘の後見人として王位を維持した。
*5 モンゴルの欧州からの呼び名で、分裂したキプチャク汗国の地方政権の総称として使われる。
*6 公式にはタタールのくびき下にあったが、既にタタールに代わる新たな勢力と成り始めていた。
ところが1424年に4番目の妻ゾフィア*7との間に長男ヴワディスワフ(3世)が生まれ後継問題が生じた。ヨガイラ夫妻は長男を後継者にしたかったが、ポーランド王家の血統ではないため、ポーランド貴族は選挙王制を主張し、彼等を懐柔するために多くの貴族の特権を承認しなければならず、元々、王権が弱かったポーランドで一層、貴族の力が強まることになった。
*7 ヴィタウタス大公らリトアニア貴族の要請により結婚したリトアニア人のため、その子供達は血統的にはリトアニア人であり、ポーランド貴族には不評だった。
リトアニア大公ヴィタウタスには嫡男がないため、ヨガイラはヴィタウタスの後、リトアニア大公位を自家の世襲制にして、ポーランド王位と連動させることを企てた*8が、その合意が出来る前の1430年にヴィタウタスが急死し事態は混迷した。
*8 つまりポーランドが連合国家を維持したければ、ヤギェウォ家のリトアニア大公を王とするしかなく、ポーランド貴族の目論むピャスト王家の復活や選挙王制への対抗策となる。
リトアニアはポーランドとの連合は望んでいたが、ポーランドに主導権を取られる同君連合を嫌っており、ヨガイラの弟シュヴィトリガイラを大公に選出したが、これはリトアニア大公の選出にはポーランドの承認が必要と定めた1413年のホロドウォ条約に違反しており、ポーランド貴族はこれに反対してヴィタウタスの弟ジギマンタスを支持した。
ヨガイラは微妙な立場で、本来は自分か自分の息子をリトアニア大公にしたかったのだが、両国の貴族に支持されず、次善としては弟のシュヴィトリガイラだが、息子のポーランド王位継承のためにはポーランド貴族の意向を無視できず、ジギマンタスを支持せざるを得なかった。
これに対抗して、シュヴィトリガイラがドイツ騎士団と同盟したため*9、ドイツ騎士団とポーランドの戦争にも繋がり、さらにドイツ騎士団がドイツ王・ハンガリー王のジギスムントや教皇の支援を求め、ポーランドがボヘミアのフス派*10の支援を受けたため争いは国際化した。
*9 かってはドイツ騎士団は多神教徒に対する十字軍を称していたが、既にリトアニアはキリスト教になっているため単なる領土争いと化しており、必要に応じて同盟したり戦争したりしていた。
*10 フス戦争 参照。なおリトアニア大公を争ったジギマンタスはボヘミア摂政になったジギマンタスとは別人。
1432年にジギマンタスがクーデタでリトアニア大公位を奪ったが、1435年まで両者の内戦は続き、最終的にジギマンタスが勝利して大公位を確保した。
一方、ポーランドではピャスト家の血を引く娘のヤドヴィガが1431年に死去し*11、ヨガイラはポーランド貴族に譲歩することでヴワディスワフ(3世)を後継者とすることに成功し、1434年に死去するとヴワディスワフ3世が10歳で即位した。
*11 王妃ゾフィアによる毒殺との噂もある。
ヤギェウォ家の人々 - ポーランド=リトアニア
ヤギェウォ家の人々 - ポーランド=リトアニア(1)
ヤギェウォ家の人々 - ポーランド=リトアニア(2)
ヴワディスワフ3世は10歳で即位したため、宰相のオレシニツキ枢機卿や母ゾフィアが摂政したが、彼らは権力闘争に明け暮れ、ヴワディスワフが14歳になって成人しても状況は変わらなかった。ポーランド王家の血統がほとんど入っていないリトアニア人との負い目もあり、1440年にハンガリー王アルブレヒトの死去により、フニャディらに請われてハンガリー王位を得ると*12ハンガリーに移り住んでオスマン戦に熱中するようになり、1444年にバルナの戦いで戦死した。
*12 ラジスロー遺腹王が正統な後継者だが、赤子ではオスマンとは戦えないとして、ハンガリー貴族は強国のポーランド=リトアニアを頼った。ハンガリー最後の栄光 参照
弟のカジミェシュ(4世)は、1440年のジギマンタスの死後にリトアニア大公になっており、兄の戦死の報を受けたものの、リトアニア貴族はポーランドとの同君連合を望んでおらず、カジミェシュもポーランド貴族に不信感を抱いていたためポーランドに行かなかったが、母ゾフィアの説得を受けて1447年にポーランド王に即位した。
血統による不安定な立場を解決するため、1454年にハプスブルク家のラジスロー遺腹王の姉エリザベトと結婚した。エリザベトの外祖父母はルクセンブルク家の皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王ジギスムントとツェリェ伯の血統のバルバラで、父はハプスブルク家のアルブレヒトのため様々な血統を持っており、ポーランド、ハンガリー、ボヘミアの継承権があったため、以前からポーランド貴族は縁組を交渉していた。エリザベトは不細工*13で、カジミェシュ4世は当初は乗り気ではなかったが、この結婚は子作りという面では大成功であり、13人の子供のうち11人が成人し、ヤギェウォ家の勢力拡大に大いに貢献した*14。
*13 彼女は少女時代に脊椎結核に罹り、背骨がかなり曲がり顔の半分が肥大するなど身体的障害があり、美しいとは言えなかった。
*14 もっとも、多すぎる子供も継承争いや他国の継承争いに巻き込まれる原因となり、必ずしも安定と繁栄に繋がるとは限らない。
一方、プロシア連合*15はドイツ騎士団に対する反乱を企て、ポーランド王国に支援を要請しており、エリザベトとの結婚により内外の協力を得たカジミェシュ4世は同年にドイツ騎士団との13年戦争を開始し、最終的にドイツ騎士団を屈服させ、西プロシアをポーランド王国に組み込むと共にドイツ騎士団を宗主下におくことに成功した。
*15 プロシアの貴族と都市が作った連合で、1410年のタンネンベルクの敗戦以来、重税を課し、その存在意義も失っているドイツ騎士団領から離れて、王権が弱く「黄金の自由」と呼ばれ始めているポーランド領に成ることを希望していた。
1457年にラジスロー遺腹王が死去するとボヘミアとハンガリーの王位継承権を主張した*16。ボヘミアではフス派のイジー・ス・ポジェブラトが王となっていたが、1471年にイジーが死去すると長男のウラスロー(2世)をボヘミア王として即位させた。ハンガリー王となっていたマチアス・コルウヌスもボヘミア王位を主張して争ったが、1490年にマチアス王が嫡子なく死去するとウラスローはハンガリー王位も得て、ヤギェウォ家はポーランド、リトアニア、プロシア、ボヘミア、ハンガリーを支配下に置く東欧の一大勢力となったが、一方、リトアニア方面はモスクワ大公国の力が強くなり防衛に追われた。カジミェシュ4世が1492年に死去すると、ポーランド王位は次男ヤン(1世)が継承したが*17、リトアニア大公は三男のアレクサンデルが受け継いだ。
*16 ボヘミア・ハンガリー王ラジスロー遺腹王には子供はなく、姉のエリザベトが継承権を持っていた。その上にチューリンゲン方伯と結婚したアンナが居たが、西のルクセンブルク公領を要求してブルゴーニュ公と争っており、東の領土は主張しなかったようだ。
*17 ヤンはマチアス王死後のハンガリー王位の候補者だったが、兄ウラスローに取られており、その代償の意味もあっただろう。
1496年にヤン1世は対オスマン十字軍と称して、ポーランド、ハンガリー、ブランデンブルク選帝公などの軍を率いたが、何故かモルダヴィアに侵攻した(モルダヴィアの大聖ステファン 参照)。しかし、ポーランドの貴族(シュラフタ)は非協力的であり、モルダヴィアの反撃により撤退を余儀なくされた。
1501年に子供なく死去すると、ポーランド王位は弟のアレクサンデルが継承し再びリトアニアとの同君連合になった。アレクサンデルはモスクワ大公イヴァン3世の娘エレナ*18を妻としていたが、モスクワ大公国はこの婚姻と正教徒の保護を名目にリトアニアに干渉することが多く、1500年のヴェドロシャの戦いでタタールと組んだモスクワ大公国に敗北して領土の1/3を失っている。
*18 イヴァン3世の意向で、エレナは正教徒のままでカトリックに改宗しなかったため、特にポーランドで多くの軋轢を起こし、アレクサンデルの死後に帰国しようとして逮捕され毒殺されたと言われる。
リトアニア大公時代が長いアレクサンデルは、リトアニア人を重用してポーランドでは人気がなく、貨幣鋳造権を失うなど一層の貴族*19への譲歩を余儀なくされ、王は議会の承認なしで法を作ることができなくなり(ニヒル・ノヴィ)、都市代表の下院(セイム)への参加は拒否され、農奴制が再導入され、後に「貴族・ユダヤ人の天国、都市市民の煉獄、農民の地獄」と揶揄された貴族民主制*20と呼ばれる体制に繋がる。
*19 ポーランドの貴族(シュラフタ)は人口の10%近くを占め、その貧富も様々で、貴族というより公民権を持つ自由民と言った方が近く、士族と訳されることもある。
*20 明治維新で士族のみが参政権を得て政治と軍と官僚を独占すると、どういう社会になったか想像してみると良いだろう。
*12 ラジスロー遺腹王が正統な後継者だが、赤子ではオスマンとは戦えないとして、ハンガリー貴族は強国のポーランド=リトアニアを頼った。ハンガリー最後の栄光 参照
弟のカジミェシュ(4世)は、1440年のジギマンタスの死後にリトアニア大公になっており、兄の戦死の報を受けたものの、リトアニア貴族はポーランドとの同君連合を望んでおらず、カジミェシュもポーランド貴族に不信感を抱いていたためポーランドに行かなかったが、母ゾフィアの説得を受けて1447年にポーランド王に即位した。
血統による不安定な立場を解決するため、1454年にハプスブルク家のラジスロー遺腹王の姉エリザベトと結婚した。エリザベトの外祖父母はルクセンブルク家の皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王ジギスムントとツェリェ伯の血統のバルバラで、父はハプスブルク家のアルブレヒトのため様々な血統を持っており、ポーランド、ハンガリー、ボヘミアの継承権があったため、以前からポーランド貴族は縁組を交渉していた。エリザベトは不細工*13で、カジミェシュ4世は当初は乗り気ではなかったが、この結婚は子作りという面では大成功であり、13人の子供のうち11人が成人し、ヤギェウォ家の勢力拡大に大いに貢献した*14。
*13 彼女は少女時代に脊椎結核に罹り、背骨がかなり曲がり顔の半分が肥大するなど身体的障害があり、美しいとは言えなかった。
*14 もっとも、多すぎる子供も継承争いや他国の継承争いに巻き込まれる原因となり、必ずしも安定と繁栄に繋がるとは限らない。
一方、プロシア連合*15はドイツ騎士団に対する反乱を企て、ポーランド王国に支援を要請しており、エリザベトとの結婚により内外の協力を得たカジミェシュ4世は同年にドイツ騎士団との13年戦争を開始し、最終的にドイツ騎士団を屈服させ、西プロシアをポーランド王国に組み込むと共にドイツ騎士団を宗主下におくことに成功した。
*15 プロシアの貴族と都市が作った連合で、1410年のタンネンベルクの敗戦以来、重税を課し、その存在意義も失っているドイツ騎士団領から離れて、王権が弱く「黄金の自由」と呼ばれ始めているポーランド領に成ることを希望していた。
1457年にラジスロー遺腹王が死去するとボヘミアとハンガリーの王位継承権を主張した*16。ボヘミアではフス派のイジー・ス・ポジェブラトが王となっていたが、1471年にイジーが死去すると長男のウラスロー(2世)をボヘミア王として即位させた。ハンガリー王となっていたマチアス・コルウヌスもボヘミア王位を主張して争ったが、1490年にマチアス王が嫡子なく死去するとウラスローはハンガリー王位も得て、ヤギェウォ家はポーランド、リトアニア、プロシア、ボヘミア、ハンガリーを支配下に置く東欧の一大勢力となったが、一方、リトアニア方面はモスクワ大公国の力が強くなり防衛に追われた。カジミェシュ4世が1492年に死去すると、ポーランド王位は次男ヤン(1世)が継承したが*17、リトアニア大公は三男のアレクサンデルが受け継いだ。
*16 ボヘミア・ハンガリー王ラジスロー遺腹王には子供はなく、姉のエリザベトが継承権を持っていた。その上にチューリンゲン方伯と結婚したアンナが居たが、西のルクセンブルク公領を要求してブルゴーニュ公と争っており、東の領土は主張しなかったようだ。
*17 ヤンはマチアス王死後のハンガリー王位の候補者だったが、兄ウラスローに取られており、その代償の意味もあっただろう。
1496年にヤン1世は対オスマン十字軍と称して、ポーランド、ハンガリー、ブランデンブルク選帝公などの軍を率いたが、何故かモルダヴィアに侵攻した(モルダヴィアの大聖ステファン 参照)。しかし、ポーランドの貴族(シュラフタ)は非協力的であり、モルダヴィアの反撃により撤退を余儀なくされた。
1501年に子供なく死去すると、ポーランド王位は弟のアレクサンデルが継承し再びリトアニアとの同君連合になった。アレクサンデルはモスクワ大公イヴァン3世の娘エレナ*18を妻としていたが、モスクワ大公国はこの婚姻と正教徒の保護を名目にリトアニアに干渉することが多く、1500年のヴェドロシャの戦いでタタールと組んだモスクワ大公国に敗北して領土の1/3を失っている。
*18 イヴァン3世の意向で、エレナは正教徒のままでカトリックに改宗しなかったため、特にポーランドで多くの軋轢を起こし、アレクサンデルの死後に帰国しようとして逮捕され毒殺されたと言われる。
リトアニア大公時代が長いアレクサンデルは、リトアニア人を重用してポーランドでは人気がなく、貨幣鋳造権を失うなど一層の貴族*19への譲歩を余儀なくされ、王は議会の承認なしで法を作ることができなくなり(ニヒル・ノヴィ)、都市代表の下院(セイム)への参加は拒否され、農奴制が再導入され、後に「貴族・ユダヤ人の天国、都市市民の煉獄、農民の地獄」と揶揄された貴族民主制*20と呼ばれる体制に繋がる。
*19 ポーランドの貴族(シュラフタ)は人口の10%近くを占め、その貧富も様々で、貴族というより公民権を持つ自由民と言った方が近く、士族と訳されることもある。
*20 明治維新で士族のみが参政権を得て政治と軍と官僚を独占すると、どういう社会になったか想像してみると良いだろう。
ヤギェウォ家の人々 - ポーランド=リトアニア(3)
1506年にアレクサンデルは死去し、弟のジグムント(1世)が跡を継いだ。ニヒル・ノヴィの体制にも係わらず、上手く大貴族を操り、一般貴族の抵抗を抑え、徴兵制による常備軍を設立し、官僚機構を整備しており、1525年にはドイツ騎士団の「プロイセンの臣従」を果たし、長年の騎士団との抗争に終止符を打って中欧の大国としての存在を確立した。また、2番目の妻ボナ・スフォルツァの影響でポーランドにもイタリア・ルネサンスの影響が及んだ。
その一方で、リトアニアにおけるモスクワ大公国との抗争は劣勢で、1514年にスモレンスクを失っている。このため、ハプスブルク家の支援を望み、1515年のウィーン会議で、兄のハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世の子供ラヨシュ(2世)、アンナと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫(フィリップ美王の子)マリア、フェルナンド(1世)の二重結婚が決まった際に、ラヨシュ2世が嫡出子なく死去した場合もポーランドは王位主張をしないことを取り決め、1526年にラヨシュ2世がオスマン帝国とのモハーチの戦いで戦死すると、ハンガリー・ボヘミア王位はアンナとハプスブルク家のフェルナンド(1世)が継承して、ヤギェウォ家は影響力を失った(ハプスブルクの結婚政策 参照)。
ちなみに娘のイザベラは、ラヨシュ2世の敗死後にハンガリー貴族により王に選ばれたヤノシュ・サポヤイと結婚しており、息子のヤノシュ・ジグモンドの王位のために奮闘したが果たせず、王位を断念してハンガリー王国伝統の王冠である聖イシュトバン王冠をハプスブルク家に引き渡す際に、聖十字架が含まれていた天辺の十字架を持ち去ったとの伝承がある*21。
*21 現在の十字架はその後に付けられた物で、17世紀に曲がったが、そのまま使われているようだ。
1548年に即位したジグムント2世アウグストは、秘密結婚した愛妾バルバラ*22を巡って貴族たちの強い反発を受け、宗教改革によるカトリックとプロテスタントの争いに巻き込まれたが、良くポーランドの舵取りを果たした。1550年のバルバラの死後、ハプスブルク家の皇帝フェルナンド1世の娘カタリナと結婚したが嫡子は生まれず、2人の愛妾の間に庶子ができれば嫡子として認めると議会と取り決めたにも関わらず子供ができなかった。
*22 リトアニアの大貴族ラジヴィウ家の娘だがカルヴィン派であり、カトリック優勢のポーランド貴族はハプスブルク家との婚姻を画策していた。
跡継ぎができないことを覚悟して1569年にルブリン合同*23を行い、1572年に死去した。ヤギェウォ家の男系は断絶し、ポーランド=リトアニアは選挙王政となった。とは言え、妹のアンナが女王となり、夫*24のステファン・バートリが王として国政を担っており、次は妹のカテジナの長男ジグムント3世*25で、実際は王朝だったが、貴族の権利を確保するために自由選挙の形式が取られたと言って良い。完全な選挙制となるのは、1669年にポーランド貴族ミハウ・コリブトが王に選出されてからである。
*23 これにより王家に係わらず、ポーランドとリトアニアは実的連合国家となり、後のポーランド分割まで継続した。
*24 最初の夫候補はフランスのアンリ(3世)だったが、あまりの王権の制限とアンナが50歳なことに嫌気を差し、1574年に兄シャルル9世が死去すると無断でフランスに帰ってしまった。
*25 スエーデンと同君連合となったが、ジグムント3世はカトリックとなっていたため、新教国のスエーデンは反発し、彼の叔父を王に立てたため、ポーランドとスエーデンは長期の戦争になった。
ルブリン合同で定められた選挙王制が絶対君主制への発展を阻み、黄金の自由や貴族の拒否権*26は国家の統合と改革を阻害し、200年後のポーランド分割に繋がったとの見方もあるが、絶対的に良い制度も悪い制度もなく、時代に応じて体制を変革できる国家が発展するのであり、未来のことは、その時代の人の責任である。敢えて言えば、都市市民を参政から遠ざけ農奴制を強化したことが西欧的体制への発展を妨げ、選挙王制がロシア的専制君主制も阻んで、どちらにも成らずに取り残された結果と言えるかもしれない。
*26 諸悪の根元のように言われるが、中世においては全会一致は普通に採用される原則である。各員が武力を持つ中世においては、多数決は反対派を敵に回すことになるため、どのような妥協をしてでも意見の一致を図る必要があった。
その一方で、リトアニアにおけるモスクワ大公国との抗争は劣勢で、1514年にスモレンスクを失っている。このため、ハプスブルク家の支援を望み、1515年のウィーン会議で、兄のハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世の子供ラヨシュ(2世)、アンナと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫(フィリップ美王の子)マリア、フェルナンド(1世)の二重結婚が決まった際に、ラヨシュ2世が嫡出子なく死去した場合もポーランドは王位主張をしないことを取り決め、1526年にラヨシュ2世がオスマン帝国とのモハーチの戦いで戦死すると、ハンガリー・ボヘミア王位はアンナとハプスブルク家のフェルナンド(1世)が継承して、ヤギェウォ家は影響力を失った(ハプスブルクの結婚政策 参照)。
ちなみに娘のイザベラは、ラヨシュ2世の敗死後にハンガリー貴族により王に選ばれたヤノシュ・サポヤイと結婚しており、息子のヤノシュ・ジグモンドの王位のために奮闘したが果たせず、王位を断念してハンガリー王国伝統の王冠である聖イシュトバン王冠をハプスブルク家に引き渡す際に、聖十字架が含まれていた天辺の十字架を持ち去ったとの伝承がある*21。
*21 現在の十字架はその後に付けられた物で、17世紀に曲がったが、そのまま使われているようだ。
1548年に即位したジグムント2世アウグストは、秘密結婚した愛妾バルバラ*22を巡って貴族たちの強い反発を受け、宗教改革によるカトリックとプロテスタントの争いに巻き込まれたが、良くポーランドの舵取りを果たした。1550年のバルバラの死後、ハプスブルク家の皇帝フェルナンド1世の娘カタリナと結婚したが嫡子は生まれず、2人の愛妾の間に庶子ができれば嫡子として認めると議会と取り決めたにも関わらず子供ができなかった。
*22 リトアニアの大貴族ラジヴィウ家の娘だがカルヴィン派であり、カトリック優勢のポーランド貴族はハプスブルク家との婚姻を画策していた。
跡継ぎができないことを覚悟して1569年にルブリン合同*23を行い、1572年に死去した。ヤギェウォ家の男系は断絶し、ポーランド=リトアニアは選挙王政となった。とは言え、妹のアンナが女王となり、夫*24のステファン・バートリが王として国政を担っており、次は妹のカテジナの長男ジグムント3世*25で、実際は王朝だったが、貴族の権利を確保するために自由選挙の形式が取られたと言って良い。完全な選挙制となるのは、1669年にポーランド貴族ミハウ・コリブトが王に選出されてからである。
*23 これにより王家に係わらず、ポーランドとリトアニアは実的連合国家となり、後のポーランド分割まで継続した。
*24 最初の夫候補はフランスのアンリ(3世)だったが、あまりの王権の制限とアンナが50歳なことに嫌気を差し、1574年に兄シャルル9世が死去すると無断でフランスに帰ってしまった。
*25 スエーデンと同君連合となったが、ジグムント3世はカトリックとなっていたため、新教国のスエーデンは反発し、彼の叔父を王に立てたため、ポーランドとスエーデンは長期の戦争になった。
ルブリン合同で定められた選挙王制が絶対君主制への発展を阻み、黄金の自由や貴族の拒否権*26は国家の統合と改革を阻害し、200年後のポーランド分割に繋がったとの見方もあるが、絶対的に良い制度も悪い制度もなく、時代に応じて体制を変革できる国家が発展するのであり、未来のことは、その時代の人の責任である。敢えて言えば、都市市民を参政から遠ざけ農奴制を強化したことが西欧的体制への発展を妨げ、選挙王制がロシア的専制君主制も阻んで、どちらにも成らずに取り残された結果と言えるかもしれない。
*26 諸悪の根元のように言われるが、中世においては全会一致は普通に採用される原則である。各員が武力を持つ中世においては、多数決は反対派を敵に回すことになるため、どのような妥協をしてでも意見の一致を図る必要があった。