力は山を抜き、気は世を蓋う - 項羽

ご存知、四面楚歌となった項羽が垓下で唄ったとされる詩である。実に項羽の性格が良く表れている。

「力は山を抜き、気は世を蓋う」と非常に雄大に自分の才能、能力を誇り、「時、利あらず、騅*1、逝かず」で、しかし自分のせいではなく、運命によって窮地に追い込まれたと責任転嫁し、「騅の逝かざるをいかにすべき」と、だからどうしようもないと投げやりになり、「虞よ、虞よ、なんじをいかにせん!」で、一転して恋人のことを心配する1人の人間となっている。

*1 言うまでもないが、騅は愛馬、虞は愛姫。

項羽は楚の王族・将軍家の血筋で、幼くして両親を亡くし叔父の項梁に育てられ、やがて項梁に従って会稽郡で挙兵する。項梁は定陶で討ち死にするが、項羽は鉅鹿で章邯の秦軍を打ち破り秦を滅ぼす。西楚の覇王を称して諸侯を封じるが、論功行賞への不満から漢中に封じた劉邦らが叛旗を翻し、長期の漢楚の争いとなる。個々の戦闘では常に勝ったが、長期的な戦略で不利になった項羽は垓下に追い込まれ、やがて漢軍に追われて自刎する。

前述の詩には、子供っぽい自慢、責任転嫁、挫折を知らない天才にありがちな粘りのなさ、情に厚い人間臭さが見事に表れている。

この粘りのなさは、楚歌を聞いた時の反応にも表れており、敵の計略かもしれないし、負けている時に敵に付く者が多くなるのは当たり前なのに、それだけで希望を失ってしまっているように見える。

もっとも、これは彼の感情的優しさを反映しているのかもしれない。彼は楚人を代表して宿敵の秦を倒して、「楚は三戸といえども、秦を滅ぼすものはこれ楚なり」という恨みを晴らしたつもりであり、全土の王か皇帝になることも可能だったのに、あえて西楚の覇王を名乗り故郷に錦を飾ったのも故国、楚への愛情であろう。

韓信が「匹夫の勇」「婦人の仁」と評価した彼の資質は明らかに将軍・武将であり、君主・総帥のものではない。叔父の項梁が総帥をやり、項羽が将軍である時は実に上手く機能している。彼は頂上に立つことが好きな訳でもなく、項梁亡き後、当初は宋義に従う構えであり、宋義が同盟の味方に誠実でなく、自軍の兵のことを考慮していないのを見て、初めて彼を殺し取って代わっている。武人としての名誉と部下に対する優しさに突き動かされているのである。しかし、宋義の考えは君主・総帥として必要なものであり、項羽の考えは情に引かれすぎている。彼が情に弱いのは鴻門の会でも見られ、いかに将来危険であることが分かっていても、抵抗せずにやってきた劉邦を殺しきれないのである。

彼がしばしば残虐に見えるのはその感情の激しさのためだろう。叔父の項梁の死を悲しんで定陶の住民を皆殺しにし、降伏した秦兵を穴埋めにしたのも、楚の累代の恨みもあるだろうが、一旦、命を助けてやった優しい自分に背こうとしたことに腹を立てたのだろう。

彼の欠点は残虐なことを行いながら、残虐になりきれなかったことだとも言える。マキャベリは、君主は残虐と恩恵を与える必要があるが、残虐は1回にまとめて、恩恵は小出しにすべきと述べている。しかし、残虐になりきれない項羽は、残虐を小出しにして、恨みを長引かせる結果となっている。

彼の性格は彼の最期にも表れており、わざわざ烏江まで辿り着いていながら、亭長から船の用意があると言われると江東の父兄に今更合わす顔がないと断ってしまう。良い人なのだ。また、亭長が後難を受けることも心配したのかもしれない。しかしその優しさは、大を生かすため小を殺す必要のある君主・総帥のものではないのだ。彼は怒りっぽい性格だから、亭長がけんもほろろに断っていれば、亭長を殺して船を奪っただろう。彼の行動は全てそのような感情で動いている。

項羽は愛憎ともに激しい悍馬のような生き物で、項梁のように誰かが手綱を取ってやらねばならなかったのだ。

しばしば、肉親さえあっさりと切り捨て、天下をとった後は、文字通り「狡兎死して走狗烹らる」で功労者を殺しまくった劉邦より、項羽は人間臭さや稚気を持った愛すべき人間ではある。

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