最強の教皇イノケンティウス3世 - 教皇は太陽、皇帝は月

最強の教皇イノケンティウス3世(1) - 教皇は太陽、皇帝は月

世紀の変わり目に、教皇の権威を高め、カトリックの勢力を広げようとする教皇が現れるのは何故だろう? 

第1回十字軍を呼び掛けたウルバヌス2世(1088-1099)、教皇権の最盛期と言われるイノケンティウス3世(1198-1216)、最後の強力な教皇で衰退の契機となったボニファティウス8世(1294-1303)は、いずれも世紀末であり、これに教皇権の濫用で知られるアレクサンデル6世(1492-1503)も含めても良いかもしれない。

イエス=キリストの生誕から区切りの年数を迎えて、改めてキリスト教の権威を高めることを意識するのだろうか?

イノケンティウス3世は最盛期の教皇として教科書にも載っており、最も有名な中世の教皇の一人だろう。

教皇は太陽で、皇帝は月であり、神の代理人として世俗の王の上に立つと主張し、ジョン欠地王を屈服させイングランドの宗主となり、フィリップ2世尊厳王を結婚問題で屈服させ、神聖ローマ皇帝争いに介入して、皇帝オットー4世を廃位に追い込み、後見人だったフリードリヒ2世を皇帝とするなど西欧の王権を左右し、第4回十字軍北方十字軍第5回十字軍を発起してカトリック圏を拡大し、彼が支援したナバス・デ・トロサの戦いによりレコンキスタは大いに躍進し、アルビジョワ十字軍で異端を撲滅して異端審問を開始し、2つの代表的な托鉢修道会ドミニコ会とフランシスコ会の設立を認め*1、1215年に開いた第4回ラテラン公会議はその後のローマ教会の方針を決定づけるものとなった。

*1 創立者である聖ドミニコと聖フランチェスコは、共に後に列聖されている。

まことに偉大な業績であり、当時のカトリックでは最強、最高の教皇と評価されており、現代でも、多少、その強引さや、アルビジョワ十字軍と異端審問の残酷さが批判されることはあっても、総合的には偉大な教皇と見なされているようだ。

しかし、神との仲介役を果たす神官というものは、その気になれば神の名でかなりの権力を振るうことができるが、聖職者には現実対処能力は少なく、また、それは結局、世俗の反発を呼ぶため、大概は自制するものなのだが、誇大妄想家が教皇の潜在的な力を濫用したという点で、ボニファティウス8世やアレクサンデル6世と変わらず、結果オーライだったかの違いだけのように感じる。

実際、細かく見ていくと、ほとんどが事態はイノケンティウス3世の意図とは違う方向に進んでいる。第4回十字軍がその代表だろうが、それ以外でも、彼の指示や干渉は例外なく反発を呼んでおり、それにより利益を受ける人間が教皇の動きを利用して上手く立ち回ったため、最終的には望む方向に行っただけのようである。

本人は世界を動かしているつもりだったろうが、結局は、フランス王フィリップ2世の思惑通りになり、一方、その後の歴代の教皇はイノケンティウス3世の強硬路線を踏襲して、フランスの一人勝ちと諸国の王侯の憤慨と警戒を招き、アナーニ事件による没落への道を拓いたともいえる。

最強の教皇イノケンティウス3世(2) - オットー4世

イノケンティウス3世が選出されるまでは、教皇権は衰退しつつあった。1187年のエルサレムの喪失第三回十字軍の失敗は、教皇の聖的な権威を低下させており、一方、世俗の君主は、神聖ローマ皇帝にフリードリヒ1世バルバロッサ、ハインリヒ6世、アンジュー帝国にヘンリー2世リチャード1世獅子心王、フランスにフィリップ2世尊厳王と歴史に残る豪華メンバーが揃っており、教皇の存在は陰に隠れがちだった。

教皇の反対にも拘らず、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世は妻の権利でシチリア王国を征服し、教皇領はそれに挟まれる形になり、教皇の調停にも係らずアンジュー帝国とフランスは抗争を続けていた。

イノケンティウス3世は、宗教者の階段を上ってきたのではなく、ネポティズムで枢機卿になった権門の出身であり*2、学者肌の人物のようだが、その理想主義と権門からくる政治への熟知により、教皇を頂点とした絶対主義的*3なカトリック世界を思い描いたのだろう。

*2 名門コンチ家の出身で教皇クレメンス3世の甥
*3 世俗君主との権威争いだけでなく、ローマ教会内の中央集権化も忘れてはならない。叙任権問題も世俗君主から叙任権を奪うだけでなく、地方の教会組織がその長を選ぶ権利を制限する意味もあった。

イノケンティウス3世が教皇に選出された1198年には、折よく前年に皇帝ハインリヒ6世が幼い(2歳)フリードリヒ(2世)を残して亡くなり、ドイツではライバルのヴェルフ家のオットー(4世)を擁立する動きが強くなり、ホーエンシュタウフェン家では幼いフリードリヒでは対抗できないと見て、ハインリヒ6世の弟のフィリップを立てる動きが出ており、教皇が干渉する絶好の機会と言えた。

*4 この長年続いてきたヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の争いが、教皇派と皇帝派(ゲルフとギベリン)の争いとしてイタリアに広がった。

さらに良いことに、フリードリヒの母コンスタンスは、この情勢では自分たち母子の命も危ういと判断して、ドイツの継承権を放棄してシチリアに戻り*5、イノケンティウス3世に保護を求めたのだ。

*5 コンスタンスはシチリア王女で、彼女の権利でシチリア王国の継承権を持っていた。

教皇にとっては、シチリア王と神聖ローマ皇帝は別人であることが望ましいため、コンスタンスの願いを聞き入れ、彼女が同年に亡くなった後は、シチリア王となったフリードリヒの後見人となっている。

一方、ドイツでは、オットーとフィリップがそれぞれ自派のみの選挙でドイツ王に選出されており、共に教皇に裁定を仰いできた。イノケンティウス3世は1201年に以前から教皇派だったヴェルフ家のオットーに戴冠したのだが*6、教皇の居丈高な態度はドイツ諸侯の反感を呼び、代償として教皇に様々な譲歩をしたオットーの人気は翳り、フィリップに支持が集まる皮肉な結果となった*7。このため、1208年にフィリップの破門を解いて皇帝として承認しようとしたが、まもなくフィリップは暗殺され、再びオットーを承認する羽目になった。

*6 ヴェルフ家が教皇派だったこともあるが、シチリア王国と完全に分離させるには、オットーの方が都合が良かった。
*7 もちろん、各諸侯の利害関係や戦闘でのフィリップの勝利、1204年にジョン王(ヴェルフ家を支持)がフィリップ2世(ホーエンシュタウフェン家を支持)からフランス領土の剥奪を受けたことなども影響している。

オットー4世は、君子のごとく豹変する教皇を全く信用しておらず、1209年にイノケンティウス3世によって戴冠された後は、すぐに全ての約束を破棄して、教皇に譲渡したアンコーナやスポレートを取り戻し、ウォルムスの和約まで無効にしようとしたため、激怒した教皇は1210年にオットー4世を破門し*8、シチリアのフリードリヒをドイツ王に押し、1211年にフリードリヒ2世がドイツ王に選出された。しかし、本来、教皇はシチリアと神聖ローマ帝国を切り離すことを第一の目標にしていたはずなのに、フリードリヒ2世を皇帝にするのは本末転倒だった*9。

*8 本来、ヴェルフ家は教皇派であり、教皇が足元を見て厳しい条件を付けなければ、あれほど反抗はしなかっただろう。
*9 一応、皇帝に戴冠する前にシチリア王位は息子のハインリヒに譲るという約束をしていたが、本人が望まない約束が守られないことはオットー4世の例でも明らかである。その後のフリードリヒ2世は、教皇と激しく対立することになる(ホーエンシュタウフェンの落日 参照)。

オットー4世がドイツ諸侯の支持を失ったのは、イタリアに注力して当時、バルト海沿岸に勢力を拡張していたデンマークの脅威に対応しなかったこと、妻のベアトリックス(フィリップの娘)が1212年に亡くなり、かつフリードリヒ2世も成人したため、ホーエンシュタウフェン派(ギベリン)の支持が離れたこと、ヴェルフ家を支援していたプランタジネット家のジョン王が1204年にフランス王フィリップ2世により大陸領土を奪われ支援を続ける余裕を失っていたなどの理由であり、教皇の破門の影響は大きくはない。そして、オットー4世の没落を決定づけたのは、イングランド王ジョンと組んで、フランス王フィリップ2世と戦った1214年のブービーヌの戦いの敗戦である。

最強の教皇イノケンティウス3世(3) - ジョン欠地王

一方、イノケンティウス3世が即位した翌年の1199年にアンジュー帝国リチャード獅子心王が死去し、小物感の漂う末弟ジョンが兄ジョフロワの子、ブルターニュ公アルチュール(アーサー)と王位を争っており、こちらも干渉のチャンスだった。

アルチュールにはフランス王フィリップ2世が支援していたのだが、この時点までは、教皇は十字軍にあまり熱意を示さないフィリップ2世より、十字軍の英雄リチャードに好意を持っており、特にフィリップ2世がデンマーク王女インゲボーと勝手に離婚しアニェス・ド・メラニーと結婚したことを咎めて、1199年にフランスを聖務停止にしており、1200年にフィリップ2世が屈服して*10、アニェスと別れるまで続いた。

*10 賢明なフィリップ2世は、教皇と対立しても不利益を被るだけと判断して早々に屈服したが、結婚問題を教皇に干渉される不合理さに不満を漏らしており、決して教皇に好意を持っていなかった。

しかし、1204年にジョン王が大陸領土を失うと風向きを変え、1205年にカンタベリー大司教の座を教会参事会が選んだ候補とジョン王が推薦する候補が争い、教皇に裁定を求めてきた際に、どちらも選ばず、1207年にローマにいた枢機卿のラングトン*11を任命してしまった。

*11 イングランド人ではあるが、パリ大学に在籍していた。教皇が自分の好みの人間を押し付けたとも言えるが、中立的裁定を下したつもりかもしれない。

これに猛反発したジョン王は、ラングトンをカンタベリー大司教と認める者の役職・聖職禄を没収し追放したため、教皇は1208年にイングランドを聖務停止にし、1212年に王位は無効になったとして、フィリップ2世にイングランド侵攻を勧めた。

この情勢にジョン王の強権と重税に不満なイングランド諸侯も加わる動きがあったため、1213年にジョン王は屈服し、ラングトンをカンタベリー大司教として受け入れ、追放・没収した人々を呼び戻し財産を返還した上、イングランドを教皇に寄進して改めて封建臣下として封土を受ける形式を取った*12。

*12 破門を取り消すだけなら、ここまでする必要はないが、かってのカノッサのハインリヒ4世のように、思い切った手で一気に逆転を狙ったのだろう。実際、この後、教皇はジョン王を支持するようになる。

これに教皇は大いに満足して、フィリップ2世にはイングランド侵攻を止めるように働きかけたが、イングランドの諸侯は王が勝手に教皇をイングランドの宗主にしたことに憤慨しており、準備を進めてきたフィリップ2世も不満だった。

1214年のブービーヌの戦いに敗れたジョン王はイングランドで諸侯の一致した反抗に会い、マグナカルタを認めさせられたが、イングランドの宗主としてイノケンティウス3世はこれを無効と宣言して、反乱に加わったイングランド諸侯を破門している。しかし、これは諸侯の不満に火をつけただけで、第一次バロン戦争が始まることになり、フランスも王太子ルイ(8世)がイングランド王位を主張*13してロンドンを占拠しており、プランタジネット家が救われたのはジョン王の死ウィリアム・マーシャルのリーダシップによるものだった。

*13 ルイ8世の妻であるカスティラ王女ブランシュはヘンリー2世の娘エレノアの娘であり、わずかながら王位継承権があった。

最強の教皇イノケンティウス3世(4) - 十字軍

第4回十字軍の顛末は周知の通りだが、イノケンティウス3世は、ハンガリーとべネチアが争っていたザラを十字軍が攻めた際には破門しているが、コンスタンティノープルを陥した後には祝福しており*14、再度、破門したのは、ラテン帝国の防衛に忙しい十字軍が聖地に行かなかったからである。満を持した第5回十字軍は、これまで世俗の王侯に任せていたから失敗したとして、教皇特使に総指揮の権限を持たせたが、その結果は、妥協を拒否して無理な攻撃を行い、敵の奸計に嵌って全軍が捕虜となる有様である*15。

*14 念願の東西教会の合同が達成されると思ったからだが、怨恨を残しただけで、平和的な合同を遠ざけてしまっている。
*15 この時には既にイノケンティウス3世は亡くなっており、直接的な責任はないが。

1198年に承認した北方十字軍も、リヴォニア帯剣騎士団の残虐さは有名であり、それを継いだドイツ騎士団も改宗よりも征服に主眼を置いていた(東方征服 ドイツ騎士団 参照)。

1212年のレコンキスタにおける最大の決戦であるナバス・デ・トロサの戦いも、カスティラ、アラゴン、ポルトガル、ナバラと反目することも多かったイベリア半島のキリスト教国が協力体制を作ったことには、教皇の働きかけが効いているだろうが、同時に教皇の呼び掛けで集まった他の欧州地域からの十字軍は、ユダヤ教徒やイスラム教徒への対応で軋轢を起こしただけで*16、不満を抱いて決戦前に帰ってしまい役に立っていない。

*16 イベリア半島やレバントのようにイスラム教徒と共存している地域では、異教徒というだけで討伐・迫害はしないが、これが新参の十字軍士からすると不信心に見える。

そして、最大の汚点は、1209年からのアルビジョワ十字軍だろう*17。確かにカタリ(アルビ)派を異端と認定したのは12世紀の半ば頃であり、「魔女と異端」で述べたように、異端問題はカトリックにとって非常に大きな宗教問題であり、厳しい対応も理解できなくもない。

*17 アルビジョワ十字軍については、いずれ別に書きたいと思っている。

しかし、同じキリスト教徒に対して大規模な十字軍が派遣されたのは初めてであり*18、イノケンティウス3世ならではだろう。1.5-2万人いたベジェの町*19でアルビ派は200-500人*20だったと言われるように、鶏を裂くに牛刀を用いた感は否めない。

*18 当初の意図ではなかったとは言え、ギリシア正教徒を攻撃した第4回十字軍が発想の転換に繋がったのだろう。
*19 カトリック、異端の区別なく全員が虐殺された。区別を聞かれた教皇特使アーノルトが「皆殺しにしろ。誰かは神が知りたもう」と述べたとされるのは有名である。アーノルトはシトー会の修道院長で、殺されたカステルノーの上司だった。
*20 但し、これは、明確にアルビ派であることを公言している人々で、シンパはその数倍は居ただろうし、カトリック教会が気にしたのは、そのシンパの広がりだろう。

理不尽な十字軍の行動に当初は屈服していたトゥールーズ伯などの南仏諸侯が反撃し、アラゴン王*21などが加勢して、戦いは泥沼の領土争いと化して1229年まで長引き、トゥルバドールなどの独自の文化で栄えた南仏は荒廃した。漁夫の利を得たのは、当初は静観していたフランス王で*22、この後にトゥールーズ伯領は王領となり、南仏全体がフランス王の支配下に入ることになった。

*21 ナバス・デ・トロサの戦いの立役者の一人でもあり、彼が南仏側で参戦していることで、この戦争の性格が分かるだろう。
*22 戦争の後半にルイ8世が参戦し、ルイ9世聖王の時に弟のアルフォンスをトゥールーズ伯の女相続人ジャンヌと結婚させて終戦した。

アルビジョワ十字軍より以降、異端審問による力づくの弾圧が広がり、さらには、単なる政敵を異端として糾弾し、十字軍を向ける風潮が広まった*23。そして、それこそが十字軍と教皇への信頼を失わせ、教皇権の没落を招いたのだ*24。

*23 フリードリヒ2世やアラゴンに対する討伐軍を十字軍と称した。
*24 フィリップ4世は、逆にボニファティウス6世を異端と糾弾して逮捕しようとし(アナーニ事件)、テンプル騎士団を処刑し壊滅させている。

1215年の第4回ラテラン公会議は欧州中の主な司教、修道院長が集まった古代以来の大会議であり、まさに最強の教皇イノケンティウス3世の面目躍如で、本人は得意満面だったろう。

しかし、その後、アルビジョワ十字軍は悪化の兆しを見せ、皇帝として承認されたフリードリヒ2世は独自の行動を取り始め、教皇権と真っ向から対立することになるが*25、イノケンティウス3世は1216年に死去したため、それらを見ることはなく満足して亡くなったことだろう。

*25 ホーエンシュタウフェンの落日 参照

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