宗教改革

宗教改革というのは最初から政治的なものであった。宗教戦争において、しばしば宗教だけでなく政治的な要素も大きいと書かれることがあるが、宗教改革自体が政治的理由から広まったことを思えばむしろ当然のことなのである。

ルターの述べたローマ教皇庁への批判や改革の内容などは、キリスト教の歴史を通じて常に行われてきたもので、公会議や教皇庁内での議論により改革派が勝利すればそれが新しい教義となり、敗北すれば異端として排除されてきたのである。

1400年前後に、宗教改革の先駆者と言われるイングランドのウィクリフやボヘミアのフスなども同様の主張をしているが、前者は受け入れられず、後者はボヘミアのみに留まっている*1。

*1 スラブ系であるボヘミアの民族主義と結びついたため、その他のゲルマン系、ラテン系地域の支持を得られなかったのだろう。同じスラブ系のポーランドでは一定の影響力を持っている。

16世紀初頭に宗教改革が起きた理由として、以下の要素が一般的に挙げられる。

・免罪符(贖宥状)に代表されるローマ教会の腐敗・堕落
・聖書の現地語への翻訳及び活字印刷による普及

しかし、宗教的内容に関心があったのは聖職者と一部のインテリ識字階級だけで、一般の人にとって重要なのは、イエス・キリストを信じると天国に行けるということだけで、詳細は教区の聖職者に任せておけば良く、免罪符にしても、むしろ多くの人々は少ない金額で天国に早く行けると喜んでいたのである*2。

*2 元々、教会の述べる善行として教会への寄進があったが、所謂、「お布施は志(こころざし)」で、ある意味、青天井で困惑する訳だが、免罪符は金額と効能が明確になっており、明朗会計と言えた。

人々が判断したのは、カトリックであることの損得勘定なのである。

まず王侯にとっては、ローマ教皇の干渉は叙任権闘争*3以来、煩わしい問題であり、ローマ教皇の影響力から逃れることと、それに伴う教会財産の没収*4は魅力的であった。一方、王の権威はカトリックの聖別により維持されている面があり*5、それを失うことはマイナスとなり得る。

*3 叙任権闘争はドイツだけの問題ではなく、全て王侯領において潜在的に存在した問題である。
*4 司教領や修道院領などの教会領は全土の何割かを占めており、それを全て没収しなくとも、好きな人間に自由に与えることができれば王にとって大きな利益となる。
*5 叙任権闘争のハインリッヒ4世はローマ教皇の破門により、王位を失いそうになっている。王に反乱する者は絶好の大義名分が得られる。

イングランド、デンマーク=ノルウエー、スエーデンなどは、距離的にローマ教会から遠く、影響力が少なかった上に、薔薇戦争、伯爵戦争、ストックホルムの血浴*6などで貴族の力が抑えられて中央集権化が進んでおり、カトリックの後ろ盾がなくとも権威を維持できる状況にあった。また中央集権体制には王の収入が必要となるため教会財産の没収は魅力的であり、ローマ教皇を頂点とする国内の外部勢力であるカトリックを排除することは必然でもあった。

*6 デンマーク王がやったことであるが、有力な貴族が激減したことに変わりない。

一方、神聖ローマ帝国では、帝国自体は地方分権が進む一方だったが、特に有力諸侯の領邦国家内では中央集権化が進められており、プロテスタントになることが有利になると考えられた。

他方、スペインではカスティラとアラゴンの連合国家になったばかりであり、カトリック王*7の称号による権威によって統合していたため、カトリックから離れることは不利であった。また、ハブスブルク家のカール5世*8は神聖ローマ皇帝にもなるが、こちらでもプロテスタントとなった諸侯の領邦国家と対抗するためや、ハンガリー侵攻により直接、対峙することになったオスマン・トルコとの戦いにおいて、ローマ教皇の支持が必要だった。

*7 カスティラのイザベラ女王とアラゴンのフエルナンド王に与えられた称号であるため、カトリック両王とも訳される。
*8 スペイン、オランダ、南イタリア、オーストリアなどの君主となっている。スペインから離反したオランダ以外はその後もカトリック国家である。

それと比べるとフランスの立場は微妙だった。イタリア戦争以来、ハブスブルク家は宿敵であり、その面ではプロテスタント諸国と協力することが多かったが、伝統的にローマ教皇庁に影響力を持ちながら、フランスにおいては後にガリカニスムと呼ばれるように教会は独立的に運営されており、あえてカトリックから分離するメリットは少なかった。そして、フランスがプロテスタントになれば、ローマ教皇庁がハブスブルク家に牛耳られる可能性があり、それも避けたかった。結局、どちらとも付かずの状態でユグノー戦争になってしまい、ナントの勅令で和解したものの最終的にはカトリック国家になっている。

ポーランドは中央集権化が進まず、プロテスタントのプロシアやスエーデンなどの脅威を受けたためカトリックに留まり、ハンガリーやボヘミア*9では反ハブスブルクの貴族がプロテスタントになっている。

*9 ボヘミアは元々フス派が強かったが。

貴族レベルでは、王に反抗したい貴族は王の反対を選ぶことになる。すなわち王がプロテスタントになれば、カトリックに留まり「異端の王に権威はない」と主張し、王がカトリックに留まれば、プロテスタントになり「カトリックの王に従う義務はない」と主張し、王に反乱する大義名分とすることができた。むろん、王に従う貴族は王に合わせることになる*10。

*10 この辺の感覚は、ゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)の争いにも似ている。ゲルフが宗教的に敬虔で、ギベリンが世俗的ということはなく、単に政治的に教皇と皇帝のどちらに付くのが有利かで判断されただけである。

都市市民の特に中産階級の商工業者にとっては、教義そのものより、カトリックは封建制と教会のネットワークから構成される中世身分制そのものであり、その枠から脱して、より力を得たい彼等は勤労を貴しとするプロテスタントに傾斜しがちだった。

農民の信仰は素朴で、どちらでも構わなかった。1524年からのドイツ農民戦争も中央集権化の一貫として支配を強めようとする領邦君主に対する反乱で、たまたま指導者がプロテスタント支持だったに過ぎない。反乱を考えていない限り、王、貴族、教区の神父、牧師に従うだけである。

このように、非常に政治的な理由でカトリックから離れている訳だが、それでも50年、100年経つとプロテスタントの教義は慣習として確立されるようになる。中産識字階級が増えて聖書を直接、読める人が増加したせいもあるが、それ以上に、人々にとって、内容が何であれ、慣習は重要だった。他者の慣習を押し付けられれば反発し、同じ慣習の者が他者に押し付けられそうになれば、同じ慣習の者を援助する。そのような、後の汎ゲルマンや汎スラブ主義などと同質の対立が宗教戦争なのである。

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