カルマル同盟(1) - 女王マルグレーテ

カルマル同盟の名で知られているが、これは北欧三国の同君連合であり、カルマル連合と呼ぶ方が良いかもしれない*1。たぶん、単なる人的同君連合(Personal Uniton)ではなく、カルマル条約による実的連合(Real Union)で軍事同盟の性格もあったためだろうが、一般的には同盟は同君連合より緩い結びつきである。

*1 英語でもKalmar Unionである。

教科書的には、カルマル同盟は、カルマル条約が結ばれた1397年から「ストックホルムの血浴」の後、最終的にスエーデンが分離した1523年までと言うことになるが、実情はかなり異なっている。

カルマル連合が最も機能していたのはマルグレーテが摂政だった1387年から1412年までで、それ以降は、スエーデンはほとんどの期間において実質的に連合の一員ではなく、1523年にグスタフ・ヴァーサがスエーデン王になった後にデンマークとの同君連合が復活しなかったため、後世から見て、この時点を終了としているだけで、むしろ、1536年にデンマークがノルウェーを実質的に併合したことをもって、同君連合であるカルマル連合が終焉したと見なした方が良いかもしれない。

簡単に北欧史を紐解くと、かっては単にバイキングとして、氏族や部族で活動していたノルド人は、やがてキリスト教を受け入れノルウェー、デンマーク、スエーデンの3つの地域に分かれて王国を作るようになった。これらの北欧三国とブリテン島、ドイツ北部やバルト沿岸部などは深い関連を持ち、11世紀にはクヌートの北海帝国と呼ばれる連合を作ったりもしたが、やがてブリテン島は分離し、14世紀には北海ではハンザ同盟が強力な勢力となっていた。

カルマル連合が出来たのは他の同君連合と同じく、婚姻政策と偶然から来るものだが、この場合は立役者のデンマーク王女マルグレーテの役割が大きい。

ノルウェー王ホーコン5世(b1270、1299−1319年)に男子がなかったため、王女インゲボーとスエーデン王族エーリクとの子であるマグヌス・エリクソン(b1316)が継承し、さらにスエーデンの政変の中でビルイェル王が廃位され、同年にスエーデン王位にも就いた。しかし、ノルウェー貴族達はスエーデンとの同君連合が続くことを嫌って、1343年にマグヌスの次男であるホーコン(6世、b1340)をノルウェー王に選んでいる。

一方、借財やハンザ同盟の圧力、ホルシュタイン等の北部ドイツ貴族の干渉によってボロボロになっていたデンマークはヴァルデマー4世により復興しており、スエーデンとも対立していたが、1359年にマグヌス王が、長男エーリクの反乱への対処のためにデンマークの援助を要請してきた際に、6歳の次女のマルグレーテをホーコン6世と婚約させることで和解した。

しかし、まもなくエーリクが亡くなったため、マグヌス王が和解を反故にしようとして再び戦争となり、紆余曲折はあったが、1363年にマルグレーテはスエーデンの共治王にもなっていたホーコン6世と結婚した。しかし、スエーデンの貴族の一部はこの連合に反対しており、マグヌス王の妹の子であるメクレンブルク家のアルブレヒトを担いで、ドイツ勢と共に1364年にマグヌス王を追放した。

当然ながら、ホーコン6世は父と共にスエーデン王位を取り返すため、デンマークと同盟して継続的にアルブレヒトと争ったが、決定的勝利を得ることはできないでいた。

この時点までマルグレーテの自立した行動はほとんど見られず、父のデンマーク王や夫のノルウェー王に従順に従っていたようである。

しかし、1375年に父のデンマーク王が男子の無いまま亡くなると*2、息子オーロフ(b1370)のために積極的に運動を行ったようである。優先順位から言えば、姉インゲボー(既に死去)の息子(メクレンブルク=シュヴェリーン公)アルブレヒト*3が有利であったが、デンマークにおけるドイツ勢に対する抵抗感もあり、無事、オーロフがデンマーク王に選出された。さらに1380年にホーコン6世が亡くなるとオーロフの摂政としてノルウェーの国政も行うようになった。

*2 長男のクリストファは1363年に亡くなっている。
*3 スエーデン王アルブレヒトの弟エンリクとインゲボーの子。

1385年にオーロフは15歳となり成人したが、相変わらずマルグレーテが実権を握っていた。ところが1387年にオーロフは死去してしまった。本来ならこれは大変なことで、マルグレーテにはノルウェーの継承権はなく、オーロフの摂政として統治していたのである。しかし、既に統治者としての実績を残していたマルグレーテはそのまま両国の摂政の地位を維持した上、1389年にはアルブレヒト王に不満を持つスエーデン貴族の要請に応じてスエーデンに侵攻してアルブレヒトを捕らえ、スエーデンの摂政にも就任した。

彼女は称号以外は三国の統治女王であったが、これを維持するには、この三国の継承権を持つ後継者が必要であり、姉インゲボーの女系の孫にあたるポメラニア公の息子エーリク*4が養子とされた。

*4 毎度、登場するメクレンブルク家の系統で、インゲボーの娘とポメラニア公との間の子。そのため三国全ての継承権を有する。

北欧三国の関係を一層、強化し、彼女とエーリクとその後継者達の地位を確実にするために1397年に結ばれたのがカルマル条約なのである。この条約により今後、三国は同じ君主を擁することが宣言された*5が、スエーデンはこれに不満であり、またマルグレーテはより実質的な連合国家を望んでおり、三国が独自の法と慣習に従い、それぞれ別々に統治されることに不満だったという。

*5 国ごとに継承の慣習は異なるため、人的同君連合の場合、再び別々の君主を擁することが多いが、それを条約で避けようとしたのである。

マルグレーテの統治は、大貴族を抑えて、王の官僚を用いた独裁体制であったが、貨幣の質を改善するなど内政に重点を置き、概ね善政を敷いて三国は繁栄した。領土の拡張政策はとらなかったが、以前の王の代に失われていた領土を平和的に買収することで回復している。イングランドのヘンリー4世とはエーリクの婚姻を通じて誼を結んだが、百年戦争に関わることはなかった。

彼女はスカンジナビア史の重要な人物であるが、個人的な伝記がなく、彼女の個性を示す逸話などはほとんど残されておらず、その政治的な事蹟が無機質に記録されているのみである。女性であるため人前に出ることもあまり無かったようで、ある意味、謎の人物である。

カルマル同盟(2) - 解体への道程

1412年にマルグレーテが死去すると既に、30歳になっていたエーリクが親政を始めたが、彼の政策はマルグレーテとは正反対であり、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの領有を巡って武力で争い、デンマークを財政難に陥れた。そのため、デンマークの海峡を通過する船舶に海峡税*6を掛けて大きな収入を得たが、ハンザ同盟などバルト海沿岸諸国を敵に廻すことになり、国内の不満は高まっていた。

*6 この税は19世紀まで、デンマーク王家の重要な財源となっている。

1434年にはスエーデンに反乱が起こり、1436年にはノルウェーでも農民反乱が発生し、さらにデンマークでは、貴族達は王が指名しようとしたポメラニア公ボギスラフではなくエーリクの妹の子であるバイエルンのクリストファを後継者として選んだため、失意のエーリクはゴトランド島に篭ってしまい、1439年にスエーデンとデンマークで、1440年にノルウェーで廃位された。彼はその後、ゴトランド島で海賊をして暮らし*7、1449年にポメラニア公を継承するとゴトランド島をデンマーク王クリスチャン1世に引き渡してポメラニアに移って生涯を終えている。

*7 海賊というと聞こえは悪いが、独自に通行税を取り立てていたということだろう。クリストファ王は、伯父が王位奪回を目指さない限り黙認していたようである。

クリストファが三国の王に即位したが1448年に亡くなり、これで三国共通の継承権を持つ者はいなくなったため、カルマル同盟は一旦、解消された。デンマークではオルデンブルク家のクリスチャン1世が選出されたが、スエーデンでは実力者の貴族カール・クヌートソンが王位に就き、共にノルウェー王位を巡って争った。しかし連年の戦争で、スエーデンでは王への不満が高まり、1457年にクリスチャン1世を迎え入れた。しかし、1464年にクリスチャン1世への不満が出ると、カールが復帰したが再び追放されている。1467年に再度復帰したが1470年に亡くなり、その後、1497年まで貴族(大)ステン・ストゥーレの摂政政治*8が続いた。

*8 彼も王家の血統をいくらかは有しており、カール・クヌートソンのように王に就くことも可能だったろうが、反対勢力との対立が激しくなることやデンマーク王との正面からの対立を避けるためだろう。

1481年にクリスチャン1世は亡くなり、長男のヨハン(ハンス)がデンマーク、ノルウェー王位を継いだ。ヨハンは海軍力を増強し、ハンザ同盟に対抗するとともに、1497年にはステン・ストゥーレを破ってスエーデン王に就いた。しかしシュレースヴィヒ・ホルシュタインの農民反乱に敗北して威信を低下させ、1501年にスエーデンは再びステン・ストゥーレが摂政政治を始めている。

1513年にヨハン王が亡くなると、その長男クリスチャン2世はカルマル同盟の再建を望み、ノルウェーを厳しく統治すると共にスエーデンの征服を目指した。スエーデンも当然、一枚板ではなく、反摂政派はデンマーク王を支持しており、2度の侵攻に失敗したものの1520年の侵攻で(小)ステン・ストゥーレを破りストックホルムを占領した。スエーデンはクリスチャン2世を王と認め、王は恩赦を与えることを宣言したが、その宴席において、100名近いスウェーデンの有力者が捕らえられ形だけの裁判で死刑に処せられた。

この事件は「ストックホルムの血浴」*9と呼ばれ、これに怒ったスエーデン貴族達は一致して反乱を起こし、頭角を表したグスタフ・ヴァーサが王位に就いた。これ以降、スエーデンは常に宿敵としてデンマークと争うことになる。

*9 この事件はスエーデンでは当然ながら非常に評判が悪いが、そもそも中世においては貴族の反乱に対する処分が緩すぎるため頻繁に反乱が起きるのである。すでに西欧では絶対王政に向かいつつあり、イングランドの薔薇戦争でも敗者は大部分が反逆罪で処刑されており、ことさら非道な措置とも言えない。

また愛人の出身地であるオランダのブルジョワ社会を愛したクリスチャン2世は、平民を登用して、貴族を弾圧したため、デンマークでも貴族に人気がなく、この機会に先王ヨハンの弟であるシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公フレゼリクが王に選出された。クリスチャン2世は1523年にオランダに亡命したが、1532年に王位回復を試みて失敗し、1559年に亡くなるまで捕囚とされている。

1533年にフレゼリク王は亡くなり、クリスチャン(3世)は長男だったがルター派だったため、一族のオルデンブルク伯クリストファがクリスチャン2世の復位を大義名分として伯爵戦争を起こした。1536年に終結し、クリスチャン3世が王位を確立したが、この際に、ノルウェーは事実上併合され、同君連合カルマル同盟は完全に消失したと言って良い。

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