カスペの妥協 - アラゴン継承問題

14世紀にアラゴンはシチリアやマヨルカと言った分家の王国を統合し、サルディニアの支配権も得て西地中海に覇を唱えようとしていたが、1410年にアラゴン王マルティン1世が死去し王家の直系が断絶した。

マルティン1世にはシチリア王になっていた若マルティンが嫡男として居たが、1409年に死去しており、明確な後継者を決める前にマルティン1世もまた死去したことにより王位継承が問題となった。

アラゴンでは、バルセロナ家がアラゴン女王と結婚して同君連合になって以来、直系男子継承が続いていたため、継承の原則が決まっておらず*1、次の王を巡って以下の候補者が取り沙汰された。

◎ウルジェイ伯ハイメ2世(1380-1433年、30歳) - ペドロ4世の弟ウルジェイ伯ハイメ1世の男系の孫。マルティン1世の異母妹イサベル(1380-1424年、30歳)と結婚しており、若マルティンの死後は推定相続人と見なされていた。

○フェルナンド・デ・カスティラ(1380-1416年、30歳) - マルティン1世の同母妹レオノール(1358-1382年)とカスティラ王ファン1世の次男。甥のカスティラ王フアン2世(1405-1454年、5歳)の摂政として実権を振るっていた。

▲ルイ3世・ダンジュー(1403-1434年、7歳) - マルティン1世の兄フアン1世の娘ヨランド(ビオランテ、1384-1442年、26歳)とアンジュー公ルイ2世(1377-1417年、33歳)の長男。父方、母方併せて四カ国の王位を主張していた。

△ファドリケ・デ・ルナ(1402-1438年、8歳) - シチリア王若マルティンの庶子でマルティン1世の孫に当たる。アヴィニョン教皇ベネディクト13世が嫡子と承認していた。地元ではせめてシチリア王にと言う声が強かった。

×ガンディア公アルフォンソ(1332-1412年、78歳) - アルフォンソ4世の弟ペドロの子。候補者の中で最高齢で1412年に死去している。

*1 アラゴン王ハイメ1世の遺言で男系継承が定められていたが、バルセロナ家自体が女系継承によりアラゴン王となっているため異論が生じた。

上記の候補者はアラゴン王家の家系図で赤色の人々で、百年戦争の原因となったフランス王位継承争いとかなり構図が似ている。

男系の近親者であるウルジェイ伯はバロア伯フィリップ(6世)、カスティラ王子フェルナンドはエドワード3世*2、ルイ3世・ダンジューはナバラのシャルル悪王の立ち位置である。

ファドリケは庶子であるため西欧カトリック世界では問題外であり、ガンディア公は明らかにウルジェイ伯より優先順位が落ち、ブルボン公などに当たるだろう。

*2 従ってエドワード3世がフランス王になっても不思議ではないのである。

普通に考えれば、やはりウルジェイ伯が有利で、王女イザベルと結婚しているため二重の継承権を持っている。長系だとルイ3世・ダンジューであるが、1410年においてフランスはブルゴーニュ派対アルマニャック派の争いで国際的な影響力を失っているのが弱点である。

ファドリケは庶子とは言え、アヴィニョン教皇ベネディクト13世により嫡子とされていたが、既にベネディクト13世はアヴィニョンからも追い出され(アヴィニョン教皇と教会大分裂 参照)、彼を教皇と認めているのは出身地のアラゴンだけという弱みがある。

フェルナンドだとカスティラの影響が強くなり過ぎる心配があるが、地中海指向のアラゴンとレコンキスタ指向のカスティラは利害があまり重ならずシナジー効果が期待できる利点があり、また兄の子ファン2世の摂政としてカスティラの実権を握っているフェルナンドには軍事的恫喝もあった。

結局、有力候補はウルジェイ伯とフェルナンドに絞られるが、本来、本命だったウルジェイ伯派が少し焦り過ぎたようだ。ウルジェイ派の中心人物アントン・デ・ルナがルイ3世・ダンジューの支持者だったサラゴサ大司教を殺害して支持者が離れ、バレンシアにおいてはトラスタマラ派との武力闘争に敗北してしまった。

状況が混迷したため、結局、連合王国を形成する三つの地域、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの各議会(コルテス)から3人づつの代表者が選ばれ、カスペにおける協議の結果、1412年6月にフェルナンド(1世)が選出された*3。正統性や慣習・伝統からの判断というよりも「一国自立主義」か「よらば大樹の陰」の選択だったと言えよう。

*3 全会一致の形式を取ったもののカタルーニャの代表においてはウルジェイ伯が多数だったようである。

ウルジェイ伯は当初は決定を受け入れたものの翌年に反乱を起こしたが4ヶ月足らずで鎮圧され、ハイメは捕囚となり、ウルジェイ伯領は没収されてトラスタマラの支持者に分配された。

シチリアではファドリケをシチリア王にという願いもあったが退けられ、ファドリケはルナ伯*4を貰い提督職に就いた。1430年代に再び王位を狙ったが、捕えられて生涯幽閉されている。

*4 祖母であるマルティン1世王妃マリア・デ・ルナの所領を受け継いだ形となる。

ルイ3世・ダンジューの継承権は弟のルネに引き継がれ、1462年からのカタルーニャ内戦の中で、1466年に対立王に選ばれたが、バルセロナに派遣した息子のロレーヌ公ジャンは毒殺され、1472年に王位を放棄している。

こうしてカスティラとアラゴンは同じトラスタマラ家の王を抱き、両国の関係は一層強くなったが、幼年のファン2世を擁するカスティラにアラゴン王子たち(ファン(2世)、エンリケ)が干渉し、両者は戦闘に及ぶことも多かった。また、カタルーニャ内戦ではカスティラ王エンリケ4世がアラゴン王位を称するなど相互に干渉し合っている。

カスティラのファン2世とアラゴンのアルフォンソ5世がそれぞれの姉妹(カタリナ、マリア)と二重結婚するなど両家の血の繋がりは一層、強くなり、最終的にカスティラのエンリケ4世の妹イザベル(1世)とアラゴンのファン2世の息子フェルナンド(2世)が結婚して、カトリック両王のスペインが誕生することになる*5。

*5 もっとも、その経緯はすったもんだの末で、ポルトガルとカスティラが同君連合になってもおかしくはなかった。

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