仇討ち

人が殺害された場合、その親族、親しい者などが報復としてその殺害者を殺すことは、そのような対立を法に従い一元的に管理する近代国家が成立する以前においては、世界中のどこでも、どの時代にも存在した(イタリア南部ではヴァンデッタとして知られる)。

その意味としては、次の2つの理由が存在した。

1. 親しい者を殺された恨み、憎しみなどを晴らすため、あるいは殺害された者の無念を晴らすといった感情的、人の情からくるもの。

2. 自力救済の世界では、血縁、地縁などの集団安全保障*を維持するために血のバランスを取る必要があった。

前者はよりプリミティブであり、どの時代にどのような社会でも起こりえるが、後者は中世のような、強力な権力、治安維持機構のない社会特有のものであり、現在でもインドやアラブなど部族制の伝統の強い社会やアンダーグランド(暴力団やマフィアの抗争など)の社会などで続いている考えである。

* 集団安全保障というのは人が常に仲間と群れているから安全という意味ではなく、例え1人でいても、その集団の一員を傷つけると、その加害者が確実に相応の報復を受けることを保証することにより抑止力とするものである。そのため、血のバランスを保つための報復を行わなければ、その集団は舐められ抑止力を失うことになる。

日本においても戦国時代までの仇討ちは、上記の理由によるものだったが、江戸時代に入ると喧嘩両成敗の補完という第3の理由で行なわれることが多くなった。

喧嘩両成敗というのは本来は陣中の法であったが、江戸時代では治安維持の観点から私的な喧嘩は両成敗とされるようになった。そのため片方が死亡すれば、他方も切腹するとされたが、それを是とせずに出奔する者もあり、その場合、藩・幕府としては両成敗を実現するために遺族に仇討ちを許した。

江戸時代前期に多かったのは武士の意地からくるもので、これは上記2の変形で、幕藩体制の中では集団安全保障は必要ではなくなっていたが、その名残りとして、一族の一員が死亡したのに対して加害者がのうのうと生きていると一族全体の体面、名誉に関わると考えるものである。この場合、仇側の一族にも武士の面目があり、一族を討ち果たされるのをみすみす見逃す訳にはいかないという考えがある。そこで両者は尋常に勝負することになるが、それぞれの一族、郎党が助太刀に加わり合戦のようになることも珍しくなかった。「浄瑠璃坂の仇討ち」がその典型で「赤穂浪士の討ち入り」などもこれに準じる。荒木又右衛門の「伊賀越えの仇討ち」も集団戦であった。

ところが、江戸時代後半になると、喧嘩両成敗を完遂するための藩命を受けていることに加えて、儒教の影響が強くなり親の仇討ちを行うことは孝であり善であるとされたため、必然的に仇側が悪とされ、両者の対決において見物人は勿論、立会人すら仇討ち側を暗黙に応援するようになった。このため、仇側は不利な対決を避けるために身を隠し、各地を流浪するだけでなく、名を変え、時には町人、僧侶などに身分を変えて大都市に潜伏するようになった。

一方、死亡した側も両成敗として改易されたが、無事に仇討ちを果たせば再仕官が可能となることが通例となった。江戸中期以降は特殊技能でも無ければ他藩に再仕官することは非常に難しかったため、親を討たれた武士は仇討ちを行わなければ故郷に帰ることができなくなったのである。

そのため仇討ちは仇を捜索するのが主要な作業となり、見つかるまで十年、二十年かかった話や遂に見つからなかった話、見つかったが仇を討つ前に病死された話、僧侶になって人々に慕われているのを見て諦めた話など様々な仇討ち話が残るようになった。

法の補完として認められていた仇討ちではあるが、近代国家はその本質として私闘、私刑を禁止しており、日本においても明治時代に入ると敵討禁止令が出された。

最新

ページのトップへ戻る