リチャード2世 - 謎の暴君

リチャード2世 - 謎の暴君(1)

リチャードの名を持つイングランド国王は、日本風に言うと畳の上で死んだ人はいない。リチャード1世(獅子心王)は戦死*1で、リチャード3世は薔薇戦争の最後に当たる「ボスワースの戦い」で敗死し、リチャード2世に至っては廃位・監禁された後に餓死されられたとも言われる。

敗者が勝者により悪人・暴君とされるのは歴史の常だが、リチャード3世は一方では熱烈なファン*2や擁護派がおり、先日の駐車場からの遺体発見*3も熱心な郷土歴史家やファンの調査の賜物だった。

*1 もっともクロスボウに当たっての事故のようなものだが。
*2 リチャード3世学会(Richard III society)というリチャード3世の名誉回復を図るファンクラブのようなものがある。
*3 2012年にレスターの駐車場で発掘された中世の骨が、敗死した後、粗末に埋葬されたリチャード3世の遺体であることが、2013年に明らかになった。

それに対してリチャード2世はどうにも地味なイメージで、百年戦争中であるにも係わらず、歴史に登場するのは14歳の少年の時のワット・タイラーの乱だけであり、残されている肖像画も少年の頃の物が最も有名で、子供もいなかったため、何となく若くして死去したように思っていたが、廃位された時は既に32歳と壮年だったのである。欧米ではシェイクスピアの悲劇「リチャード2世」で少しは知られているが、日本では無名に近い存在だろう。

後のランカスター朝やチューダー朝では、圧制的な暴君だったため国内の支持を失いヘンリー4世に廃されたとされるが、見方を変えればフランスで指向され始めていた中央集権、絶対王政を目指していたとも言える。エドワード3世やエドワード黒太子の戦士的、同志的な貴族との関係と比べると、より強権的、独裁的に見られたのだろう。

リチャード2世は父エドワード黒太子のアキテーヌの宮廷で生まれたが、4歳の時に父と共にイングランドに移っているため、その影響より妻アンの実家であるルクセンブルク家のボヘミア宮廷の影響を受けたのかもしれない。

彼の能力は概ね並以上だったと思われる。1381年にワット・タイラーの乱が起きた時は弱冠14歳だったが、側近達のアドバイスを受けただろうとは言え、自らワット・タイラーらの叛徒と会見し、彼らを承服させ、ロンドン市長がワット・タイラーを殺害した後でも、残された叛徒達を平和哩に帰還させて事態を収拾しており、その胆力、理性は相当のものと思われる。

彼が民衆の不満の元となった叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントなどを遠ざけて、商人出身のサフォーク伯マイケル・ドラ・ポールや中堅貴族のオックスフォード伯ロバート・ドヴィア、低い出自のロバート・トレジリアンなどを側近として登用したのも、縁故贔屓や男色ではなく、親政のための常道であり、大貴族達の反感を買うのは仕方のないことである。

しかし、エドワード3世、エドワード黒太子の直系であるリチャード2世に華々しい軍事行動を期待する人々も多かったはずだが、軍事的才能はあまりなく、1385年のスコットランド遠征も成果が無く、失望した者も多かっただろう。

また1382年のボヘミアのアンとの結婚も失敗だった。ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝、ボヘミア王カール4世の娘とは言え、結婚当時、既にカール4世は死去しており、跡継ぎのヴェンツェルは後に皇帝を廃位されるように、その力は弱く、対フランスにおいて何の役にも立たなかった上、アンとの間に子供ができなかった。

それらの不満から大貴族達が結束し、側近政治への反抗の機運が高まった訳だが、ジョン・オブ・ゴーントがまとめている間は、両者の対立は抑制されていた。しかし、1386年に彼が王位を狙ってカスティラに遠征すると*4、グロスター公トマス・オブ・ウッドストック*5、アランデル伯リチャード・フィッツアラン、ウォーリック伯トマス・ボーシャン、ダービー伯ヘンリー・ボリンブログ(後のヘンリー4世)、ノッティンガム伯トマス・モーブレイなどの大貴族達は「糾弾者達(Appellant)」と名乗り、リチャード2世の側近達を反逆罪で告発した。

*4 彼の2番目の妻はカスティラのペドロ残酷王の娘で、簒奪したエンリケ恩寵王の息子フアン1世の王位に挑戦したが、娘をフアン1世の太子エンリケ(3世)と結婚させることで和解した。
*5 エドワード3世の末子で、黒太子やランカスター公、ヨーク公の弟

オックスフォード伯は王権の地盤としていたチェスターで兵を集めたものの「糾弾者達」の軍に阻止されて逃亡し、20歳弱のリチャード2世は屈服して、1388年の(無慈悲な)議会で側近達が追放されたり処刑されるのを認めざるを得なかった。中でも傅役だった騎士サイモン・バーリの処刑は、王妃アンが哀訴したにも関わらず実施され、恨みを残したようだ。

しかし、「糾弾者達」の対フランス強攻策は成果が上がらず、スコットランドでも1388年のオタバーンの戦いで敗北したため支持を失いだし、翌年、ジョン・オブ・ゴーントがカスティラから帰還すると両者の間に妥協が成立して、リチャード2世は親政を再開することができた。

リチャード2世 - 謎の暴君(2)

リチャード2世はフランスとは宥和策を取り、1396年にはフランス王女イザベルと結婚して休戦している*6。しかし、既にフランス王シャルル6世の狂気は明確になっており、それに乗じて対フランス戦を再開すべきと考えた者は多いだろう。リチャード2世がむしろ休戦を選んだのは、国内の安定と王権の確立のためだろうが、この後の行動を見ると復讐を優先させたようにも見える。子供がいないにも関わらず、イザベルがわずか6歳で、子供を産める年になるまでに8年以上もあることも、未だ30歳弱と時間に余裕があるとは言え、賢明な選択には見えなかった。

*6 王妃アンは1394年に死去している。

アイルランドに対しては1394年から翌年にかけて遠征して概ね成功している*7。この成功に自信を持って、今度こそ反対派を抑えて専制体制を確立しようとしたのか、以前の側近達の処刑への報復か、1397年に突然「糾弾者達」の中心メンバーだったグロスター公、アランデル伯、ウォーリック伯を逮捕した。

*7 もっとも戦勝によるものではなく、大軍の前にアイルランドの豪族達が戦わずに従っただけで、リチャード2世が去るとすぐに元の状態に戻ったようである。

グロスター公は逮捕後に殺害され、アランデル伯は処刑され、ウォーリック伯は当初、死刑が宣告されたが一等減じて終身刑となり、さらに広範囲に「糾弾者達」の協力者が訴追されていった。

その一方、エクセター公となったジョン・ホランド*8など新たな側近、協力者達には爵位を進め、「糾弾者達」から取り上げた領土を与えて報いており、ヘンリー・ボリンブログとトマス・モーブレイもそれぞれヘリフォード公とノーフォーク公になっている。しかし1399年にはボリンブログとモーブレイが喧嘩した際に両成敗の形で両者を追放している*9。

*8 リチャード2世の異父兄。
*9 中心人物でなかったことと実力者の親族であるため、一旦、譲歩して「糾弾者達」を分断した後に、好機を得て追放したと思われる。

これにより王権の確立に成功したと感じたのであろう。1399年にジョン・オブ・ゴーントが亡くなった際にランカスター公領を没収*10したが、その後、側近達を引き連れてアイルランドに遠征*11してしまった。

*10 正確には、ボリンブログの追放を延長し、ランカスター公領の相続を認めなかった。
*11 推定相続人だったロジャー・モーティマ(第4代マーチ伯) の前年の戦死への報復のためと思われる。ロジャーの死により息子のエドマンドが王位の推定相続人となったが、7歳と若年のためリチャード2世の立場は弱くなっている。

しかし、ボリンブログ が前カンタベリー大司教トマス・アランデル*12と共に密かにイングランドに帰還して挙兵すると多くの貴族がボリンブログ に組し、留守を預かっていたヨーク公エドマンドも戦わずしてボリンブログに従った。

リチャード2世は対応が遅れたこともあり、率いていた軍を2つに分け、ソルズベリー伯ジョン・モンタキュートが先行してウェールズで兵を集めようとしたが、既にボリンブログ 軍が多数になっているのを見て離散してしまい、孤立したリチャード2世は側近達からボルドーへの逃亡を勧められたが、あっさりと屈服して*13、最終的に廃位に同意している。

*12 アランデル伯リチャード・フィッツアランの兄弟でカンタベリー大司教を罷免されていた。
*13 前回の「糾弾者達」の反抗でも一旦、屈服した後、権力を回復しているため、同じ手が使えると思ったのかもしれない。あるいは正統な王として、逃亡という手段を取りたくなかったのかもしれない。

壮年の王にも関わらず、あっさりと降伏する羽目になったのは、人望がなかったともいえるが、彼自身が内戦を避けたとも考えられる。

彼の与党は後に「主顕祭の陰謀」でリチャード2世の復位を試みているように、前例とも言えるエドワード2世*14ほど無能で人望が無かった訳ではなく、その気になればジョン王やヘンリー3世時のバロン戦争や後の薔薇戦争のように内戦に持ち込むことは可能だったと思われる。

*14 エドワード3世の父で、王妃イザベラとマーチ伯ロジャー・モーティマーらにより廃位・殺害されている。

しかしフランスという外敵のいる状態で従兄弟の2人が死闘を繰り返せば、プランタジネット家の弱体に繋がり、フランスやスコットランドなどの他の王侯家やイングランド諸侯が漁夫の利を得る可能性があり、また、嫡出子のいないリチャード2世が王位を死守しても、結局は彼の死後にランカスター家が王位に就くかも知れず、抵抗が無駄となる可能性もある。

イングランドやプランタジネット家のために抵抗を諦めたとすれば、なかなか見所のある人物かもしれない。

彼の評価は難しい。中小貴族を登用して大貴族との対決することは有能な王なら当然行うことであり、登用した側近も決して無能とは言えなかったようである*15。

*15 ホランド一族は明らかに縁故であるが。

フランスとの和平を求めたのも、ワットタイラーの乱の原因の一つは戦費調達のための人頭税であり*16、安定と減税を歓迎する商人や庶民も多かったはずである。

*16 もう1つは、黒死病による人口減少により労働価格が上昇しているにも関わらず、イングランドでは法で価格上昇を抑えたため不満があった。

戦争は上手くなかったが、人には向き不向きがあり、不得意な戦争を避けて、国内の安定と王権の確立を図るのは賢明であり、手頃なアイルランドやスコットランドを支配下に収めようとする方針もエドワード1世と同じであり悪いものではない。

1399年の時点では、反対勢力の中心人物を罰し、支持者には飴を与えて、大貴族の制御にある程度は成功しており、彼の大きな失敗はランカスター公領の没収の後、安心してイングランドを留守にしたことだけとも言える。

一旦、表面的に和解していた反抗貴族を1397年に改めて処罰したのも、他国でも例のないことではなく、特に苛酷とも言えない。また、子供ができない等の運の悪さもあった。

しかし、過去の反抗に対する報復的な処罰は大貴族の疑心暗鬼を呼んでおり、フランスが内戦状態に陥りつつある状況を考えると国内に対しては寛容にいどみ、フランスと戦うことで国内の意思を統一したヘンリー5世*17のような方針を取るべきだったと思うが、それに必要な軍才がなかったため難しいところではある。

*17 ヘンリー4世の簒奪後に多くの反乱が起きており、処罰を受けた者も多かったが、ヘンリー5世はフランスに侵攻する際に、没収した爵位や所領を一部回復させるなどして和解に努めている。

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