イタリア五大国 - ローディの平和

イタリア半島と言えば、日本と変わらない小さな土地だけに五「大国」などは大げさな気がするが、仮に戦国時代の日本が東北、関東、近畿、中国・四国、九州に分かれたら五大国時代と呼びたくなるだろう。

ルネッサンス華やかかりし時に、イタリアはフィレンツェ、ミラノ、ベネチア、教皇領、ナポリの五大国とジェノヴァ、シエナ、マントヴァ、ルッカ、フェラーラなどの中小国に分かれて互いに争っていたが、1454年に五大国がローディで平和条約を結びイタリア同盟を結成して*1、大国間の争いを避け、外敵に対して協力して戦うことを取り決めたもので、後のウエストファリア体制などの欧州の戦力均衡(バランス・オブ・パワー)方針を実現した最初の例と見られている。

*1 実はローディでは、フィレンツェとミラノが講和し、それにベネチアが加わって条約を結んだだけで、その後に教皇領とナポリが加わっている。

北イタリアでは、11世紀末にトスカナ伯マティルデ*2が後継者なく亡くなった後、北イタリアには大貴族がいなくなり、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が共に支配権を主張して争い、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝*3は北イタリア支配を熱心に試みたが、教皇が支援したロンバルディア都市同盟を服従させることができなかった。

*2 カノッサの屈辱の仲裁をしたカノッサ城の女城主
*3 フリードリヒ1世バルバロッサフリードリヒ2世

実質的に都市国家となった各イタリア都市はゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)に分かれて互いに争ったが、13世紀後半の神聖ローマ帝国の大空位時代に皇帝の影響力が低下し、14世紀前半のアヴィニョン教皇で教皇の影響力も低下し、さらに14世紀後半には黒死病による人口低下、百年戦争、教会大分裂などによる混乱と権力の空白により、ジェノヴァ対ベネチア、フィレンツェ対ピサ、フィレンツェ対シエナ、ジェノヴァ対ピサなどを軸に都市間の争い、さらには都市内部での派閥争いが激化した。

これに輪を掛けたのが、コンドッティエーレ*4と呼ばれる傭兵で、都市国家は主に商人・職人の市民により構成されるため、当初は自警団的市民兵を用いていたが、十字軍の終了や百年戦争の休戦によって余剰となった傭兵がイタリアに流れてくると、市民兵では敵わず、また市民も自身の命を賭けるより金を払う方を好んだため、傭兵が戦闘の中心となった。しかし市民は生命の危険が少なく、傭兵は支払いを受けるために戦いを長引かせ、さらに新たな戦いを誘発するよう行動したため*5、戦争は絶えることがなかった。

*4 騎士隊長が率いる傭兵隊と期限付き契約(コンドッタ)を結ぶため、こう呼ばれた。
*5 マキャベリは傭兵を諸悪の根元と非難している。

14世紀後半に入るとミラノのヴィスコンティ家*6が神聖ローマ皇帝ヴェンツェルからミラノ公爵位を受け、ベローナ、パドヴァを併合するなど積極的な拡大策を取り始めていた。恐らく、ロンバルディア王国の復活なども夢見ていたのだろう。

*6 ジャン・ガレアッツォとその息子フィリッポ・マリアが大いに拡大策を取っている。

これに対し、海の大国ベネチアは、従来は、東地中海沿岸部や島嶼に多くの貿易拠点を有しながらも、イタリアの領土には興味を示していなかったのだが、ジェノヴァやハンガリーと対決した1381年のキオッジアの戦いで、海陸から封鎖を受け滅亡寸前に追い込まれたことにより、緩衝地帯となり得る領土が必要と感じたこととヴィスコンティ家の拡張政策によりドイツへの陸上経路をミラノに占められることを恐れて、本土(テラ・フォルマ)と呼ばれるイタリア領土を広げ始めていた。

フィレンツェは従来は周辺のシエナやピサと争っていたが、ミラノ勢力の拡大に応じてベネチアと同盟してミラノと戦うことが多くなった。1425年から間欠的にミラノ、フィレンツェ、ベネチアを中心としたロンバルディア戦争が続いていたが、1447年にミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティが死去してヴィスコンティ家が断絶し、短いアンブローズ共和国の後、フィレンツェの支援で傭兵のフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公位を得るとフィレンツェ・ミラノ同盟が成立し情勢は再び変化した。

教皇庁は教会大分裂が終了するまではあまり機能していなかったが、1417年にマルティヌス5世が即位すると、教皇領の拡大や教皇の親族への利益の提供に熱心だったが、一方では、オスマン・トルコの拡大を防ぐために、キリスト教徒間の平和の調停やパワーバランスの維持に務めていた。

ナポリ王国は、1414年にナポリ・アンジュー家最後のジョヴァンナ2世が即位して以降、バロワ・アンジュー家とアラゴン王の後継争いが続いていたが*7、1442年にアラゴン王アルフォンソ5世が王位を確保すると再び北部に興味を示し始めていた。

*7 黄昏のナポリ王国参照

1450年の段階では、フィレンツェ・ミラノ対ベネチア・ナポリの構図が作られたが、1453年にオスマン・トルコによりコンスタンティノープルが陥落すると、十字軍の結成を望む教皇ニコラウス5世は停戦に熱心になり、同じくトルコを警戒したベネチアや基本的に平和を望むフィレンツェのコジモ・デ・メディチ、公位に就いたばかりで安定を欲したミラノのスフォルツァの意思が一致して1454年のローディの平和に繋がった。

当初の期限は25年であり、1478年のパッツィの陰謀を契機としたフィレンツェ対ナポリ・教皇のパッツィ戦争と1482年のベネチア・教皇対フェラーラ・ナポリ・マントヴァの塩戦争があり*8、小競り合いや小国間の代理戦争は多く存在し、必ずしも平和とは言えなかったが、大国間の大きな戦争のない状態が約40年続いた。しかし、1494年にバロワ・アンジュー家の継承権を主張したフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻し平穏は破られ、以後、半世紀に渡りイタリアは戦場となる(イタリア戦争)。

ローディの平和はイタリアに繁栄とルネッサンスの隆盛をもたらしたが、同時にイタリアの統一を阻害し、欧州大国の草刈場にした原因となったとも言える*9。

*8 どちらも親族(ジロラモ・リアリオ等)への利益のために教皇シクストゥス4世が企図したもの(カテリーナ・スフォルツア参照)。
*9 とはいえ、イタリア外に多くの領土を持つ強国ベネチア、影響力が西欧全体に及ぶローマ教皇が存在している以上、戦争が続いても統一国家は出現しなかった可能性が高い。

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