アンジュー帝国の誕生

アンジュー帝国の誕生(1) - ヘンリー2世

アンジュー帝国の名称はその時代に使用された訳ではない。イングランド王では英国との関係が強調されすぎてしまうが、実態はフランス領土を中心としたブリテン諸島からピレネーまでを支配下に収めた中世個人的同君連合であるため、それを表す用語として19世紀に作られた言葉である。

さて、ヘンリー2世は決して運だけでアンジュー帝国を築いた訳ではない。確かに、父からアンジュー伯領を、母系からイングランド王国とノルマンディ公領を、妻との結婚でアキテーヌ公領を得ているが、これらは予定調和的に手に入れた訳ではなく、それ相応の努力とビジョンと戦略の結果なのである。

ヘンリー2世は単に広大な領土を所有しただけでなく、名君の資質を持っており、彼の施策は後世に評価されるものが多いが、彼の愛憎に関する個人的性格によると思われるカンタベリー大司教ベケットや若ヘンリー、リチャードら息子達との争いが治世上の汚点となり、また彼の後継者達(リチャード、ジョン)により、その成果の多くが失われてしまったため過小評価されている感がある。

戦争はさほど上手くなかったが、これも目的を達するには政略と国力の充実が主で、武力は従に過ぎないことを理解していた結果のように思える。年少の頃から、しばしばイングランドでスティーブン王と戦ってきたが、これも一戦による勝利を目指すというより、継続的に戦い続けることにより、イングランド諸侯に自分の存在をアピールすることが目的だったように思える。成長するヘンリーにとって時間は味方であり、急ぐ必要がないことを理解していたのだろう。
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この時代のフランス王国の情勢を簡単に説明してみよう。図は987年にユーグ・カペーがフランス王に選出された時点でのフランスの勢力地図*1であるが、12世紀においても大きくは変わらない。

*1 もう少し後の時代の方が望ましいかったが、この図が単純で見易く、境界の変化はあっても大きくは変わっていない。

青で表されているのがフランス王領で、北の黄色がフランドル伯、北西の赤がノルマンディ公、東南の黄土色がブルゴーニュ公、西の茶色がアンジュー伯、南の褐色がアキテーヌ公、アンジューの西の青緑がブルターニュ公、アキテーヌの南西の黄緑がガスコーニュ公、南の紫がトゥールズ伯、南東の黄色がゴシア侯、フランス王領の周囲の黄緑はヴェルマンドワ伯、ブロワ伯などで、これが12世紀にはガスコーニュ公はアキテーヌ公、ゴシア侯はトゥールズ伯が所有しており、フランス王領はパリを中心に少し増えて繋がり、その回りはシャンパーニュ=ブロワ伯の所有になっている。

このようにフランス王国には大諸侯(プリンス)が割拠しており、フランス王はイル・ド・フランスを領有する大諸侯の1人に過ぎなかった。

といってフランス王が他の大諸侯と比べて弱小だった訳ではない。フランス王領はフランス王の直轄地を表しているが、大諸侯領はその領域を表しているだけで直轄地はその内の何割かであり、残りは同様に各地に封建領主が割拠していることに変わりない。

アンジューやノルマンディは比較的、統率力が強いが、アキテーヌ=ガスコーニュは広大な領域を有するとはいえ、その支配は緩やかで在地領主が自由に振舞っている状態であり、ブルターニュに至ってはブルターニュ公はほとんど名前だけの存在であった。

伝統的にノルマンディは隣接するフランス王領やアンジューと抗争しており、一方、ウイリアム征服王の王妃マティルダはフランドル伯公女のため概ねフランドルとは関係が深く、ブロワ伯とは王女アデラ(スティーブン王の母)との婚姻により同盟関係にあった*2。フランス王はアンジュー伯と同盟して、これに対抗していたが、アンジュー伯ジョフロワと皇后モードの婚姻でイングランド・アンジュー同盟が成立したことにより方針転換を迫られることになった。

*2 ちなみに、ブルゴーニュ公はカペー分家であり、概ね王家との関係は良く、一方、ブルターニュ(ケルト系)や南のアキテーヌ、トゥールズ(オック語地域)はフランス(北部)の争いには無関心だった。

しかし、1135年にイングランド王ヘンリー1世が死去すると、ブロワ伯の弟であるスティーブンとアンジュー伯妃である皇后モードが王位争ったことで、状況は再び変化した。

アンジュー帝国の誕生(2) - ルイ7世

ルイ7世(若年王)が即位した1137年時点*3では、フランス王家の見通しは明るかった。ルイ6世の時代に本領イル・ド・フランスの有力領主達を討伐して王領を拡大し、アキテーヌ=ガスコーニュの相続人アリエノール・ダキテーヌとの結婚により広大な南フランスを支配下に入れることになった。一方、イングランドではスティーブン王と皇后モードの内戦が続いており、ノルマンディはアンジュー伯ジョフロワ(モードの夫)の攻撃を受けていた。ルイ7世はイングランドの内戦には中立を保ったが、スティーブン王の兄シャンパーニュ=ブロワ伯ティボーとは抗争しており、1143年にジョフロワをノルマンディ公に承認している。

*3 若王としては、ルイ6世の在位中の1131年に即位しているが。

彼は王と言うより修道士であり、ティボーとの戦いで1000人以上の市民を焼き殺したことへの懺悔や亡き兄フィリップ*4の誓いを受け継ぐために、1147年に王妃アリエノールと共に第2回十字軍に参加したのがケチの付き始めだった。アリエノールの叔父アンティオキア公レーモンへの援助*5を拒否してエルサレムに向かい、現地諸侯の反対にも係わらず、エルサレムと同盟関係にあることも多かったダマスカスを攻めたが、彼等にザンギー朝のヌル・アッディーンの援助を求めさせる結果となり、結局、大敗して大失敗に終わり、1149年に何の成果もなく帰国した。

*4 パリの市街で、飛び出してきた豚に馬の足を取られ、落馬して死ぬという伝説的な死に方をしている。
*5 アリエノールとレーモンの関係を疑って、早々に立ち去ったとも言われるが、宗教心の厚いルイ7世にとってエルサレムに到着することが重要で、現地諸侯の領土争いに関わりたくなかったのだろう。

アリエノールとも不和になり、1152年に離婚*6したが、これは大きな政治的失策だった。既にアリエノールとは2人の娘がおり、アリエノールの再婚は王の許可を条件としたためアキテーヌを確保できると考えていたようだが、アリエノールはこれを無視して8週間後にアンジュー=ノルマンディ公アンリと結婚したため歴史は大きく動いた。

*6 公式の婚姻の無効の理由は近親結婚であるが、実際の理由は2人の不和であり、アリエノールの不倫も噂されているが、真相は明らかでない。

これによりアンジュー、ノルマンディ、アキテーヌ=ガスコーニュを所有するアンリはフランス最大の勢力となる。虚仮にされた形のルイ7世はスティーブン王の長子ユスタッシェらと共にアキテーヌに侵攻するが撃退され、1153年にユスタッシェは死去している*7。

*7 原因不明の急死であり、年代記には神の怒りに触れたと述べられている。人為的な暗殺の可能性もある。

スティーブン王はユスタッシェの死に気落ちし、一方、アンリは、ここで力押しせず、交渉でスティーブンの王位を認める代わりに自分を後継者とさせることで和解した。

翌1154年にヘンリー2世としてイングランド王位に就いたアンリは、内戦時に無許可で建設された城の破棄や奪った領土を返還させ、荒廃したイングランドの治安の回復に努めると共に、内戦時にスコットランドに奪われた領土を回復し、独立の姿勢を示していたウェールズを再び宗主下においた。1171年からはアイルランドにも侵攻して多くの城を築いてイングランド領を強化すると共に島全体を宗主下においた。

アンジュー帝国の誕生(3) - 冬のライオン

フランス王との関係は冷戦とも例えられる。両者の力関係は完全に逆転しているが、フランス王国内の領土の領主としてはヘンリー2世はルイ7世の封臣であり、ルイ7世はフランス王としての権威と十字軍に参加した敬虔な君主としての威光を利用して、反プランタジネット包囲網をしばしば形成した。

表面上は両者は和平関係にあることが多く、1160年にヘンリー2世の息子の若ヘンリー*8とルイ7世の娘マルグレートが婚約(1172年結婚)し、後に1169年にはリチャードとアレースが婚約(後に解消)しているが、その裏では互いにブルターニュやトゥールズで影響力の増大を計り、フランドルやシャンパーニュ=ブロワとの同盟を争った。また、ノルマンディとイル・ド・フランスの間の重要な土地であるヴェクサンやアキテーヌとオルレアンの間のベリー領ブルージュに関してしばしば争った。

*8 上にウイリアムがいたが早逝しており、この時点での長子。

当初は守勢に回ることが多かったルイ7世だが、1165年に息子のフィリップ(2世)が生まれる*9と、より積極的に対応しはじめた*10。

*9 それまで後継者がいなかったため、ルイ7世の死後に若ヘンリーがフランス王位に就く可能性は大いにあった。この頃は、直系男子が継ぐ以外に王位継承の原則は存在しなかった。
*10 フィリップ(2世)の母はシャンパーニュ=ブロワ伯の娘であり、さらに王女マリーとアデレードをシャンパーニュ=ブロワ伯の息子達と結婚させ、シャンパーニュ=ブロワ伯との同盟を強化した。もっともマリーとアデレードはアリエノールとの子であり、必ずしもイングランドの意に反するものではない。

1173年に若ヘンリーを始めとして、王妃アリエノール、リチャード、ジョフロワ、彼等を支持する封臣達、それに乗じたスコットランド王やウェールズ、アイルランドの諸勢力が大反乱を起こし、ルイ7世も若ヘンリーらを支援した。若ヘンリーは若王として即位しながらも実権を与えられず不満で、また守役だったトマス・ベケットの殺害、末子のジョンへのいくつかの重要な城の割譲に不満を持っており、アリエノールはアキテーヌの扱いやトゥールズとの関係*11などに不満を持ち、ヘンリー2世との個人的な不仲*12などがあり、リチャードやジョフロワはアリエノールの勧めに従ったようである。

*11 アキテーヌは以前からトゥールズの所有権を主張しており、ヘンリー2世の和睦に不満を抱いていた。
*12 ヘンリー2世には愛妾ロザムンドがいた。

窮地に立たされたヘンリー2世だが、戦闘では概ね有利であり、アリエノールを拘束し、トマス・ベケット廟の前で懺悔してモラル・サポートを回復させ、スコットランド王ウイリアム獅子王との戦いに完勝することで事態は収束に向かい、息子達は屈服した。

アンジュー帝国の最大版図*13はスコットランド、アイルランド、ウェールズ、ノルマンディ、アンジュー、ブルターニュ、アキテーヌ、ガスコーニュ、トゥールズとなり、ブリテン諸島からピレネーまで、フランスの海岸部のほとんどをその勢力下におき、神聖ローマ帝国フリードリヒ1世バルバロッサと並ぶ、ヨーロッパ最強の君主と見なされた。

*13 その関係は緩やかな宗主関係から直接支配まで様々である。

しかし、アンジュー帝国の内、イングランド、ノルマンディ、アンジューを長子の若ヘンリー、アキテーヌをリチャード、ブルターニュをジョフロワに配した*14が、息子達の不満はこれ以降も続いた。彼等をフランス領土に配することにより、自身のフランス王への臣従の誓い(オマージュ)を避けたとも思われるが、息子達のフランス王へのオマージュは反乱に大義名分を与えることになった。

*14 この時点で末子のジョンはまだ幼く、全てを兄達に分配したため、分ける土地は無いとからかわれ、無地(欠地、lackland)と仇名が付いた。

この時代、父と子、兄弟が争うことは珍しくなかったが、プランタジネット家の争いはこの時代の標準から見ても異常だった。新興の家で臣下が服従していないことと封建主君であることを利用したフランス王の策謀のせいであるが、「アンジュー伯の祖先に魔女がおり、悪魔の申し子」との伝説もあり、彼ら自身、それを自覚しているようだった*15。

*15 後にリチャードは「我々は悪魔の子孫であり、戦うのはその本性である」と述べたと言われる。

若ヘンリーが1183年、ジョフロワが1186年に亡くなったのは、彼等の反乱とは直接には関係しないが、家族内の不仲が彼等の寿命を縮めた可能性はある。一方、ルイ7世は1180年に亡くなっているが、跡を継いだフィリップ2世(尊厳王)は15歳と若年ながら父を遥かに上回る策謀家だった。

若ヘンリーの死後、ヘンリー2世は御することが難しく戦争好きのリチャードを後継者にすることに躊躇があったようで、従順なジョンに示す愛情がリチャードに疑惑を抱かせたようである。

リチャードの最終的な反乱は末弟ジョンに対する警戒もあるが、直接的には十字軍への参加だったようである。1187年のヒッティーンの戦いの大敗でエルサレムは陥落し、大規模な十字軍の結成が呼びかけられ、リチャードは直ちに参加の誓いを立てた*16が、ヘンリー2世とフィリップ2世は参加を表明しながらも互いに警戒しあい、一向に出発する気配はなかった。

*16 エルサレム女王シビーユはアンジュー家の分家であり、その夫のギー・ド・ルジニャン王はアキテーヌ公の封臣だった。

1189年にリチャードは和平会議中に諸侯の見守る中でフィリップ2世へ臣従の誓いをし、父王への反抗を宣言した。ヘンリー2世はショックを受け持病も悪化し、シノン城に撤退した。そこで最愛のジョンも反乱側に付いたことを知らされ、失望してまもなく死去した。彼を看取ったのは庶子のヨーク大司教ジェフリーのみだった。

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